<尖閣湾・佐渡金山>

翌日も風が強かった。

あんまり天候に恵まれなかったサイトではあったが、それも思い出の1つとして脳裏には焼き付いていくのだろう。

さて長雨の影響で通行止めがあちこちで発生しているらしく、佐渡最高峰「どんでん山」制覇はあきらめざるを得なかった。

と、いうほど行きたかったわけでもないんだけどね。

さっぱり佐渡といえば「金山」でしょう。
まるで千葉県といえば落花生的な発想だけど、いかんせんゴールドだかんねぇ。

ちょっと拝んでいきましょ うや。

「砂金取り体験」なるものもあるけど、ドキュメンタリーを追求するものとしては(おいおい、いつからそないのものになったんじゃい?!)実際の採掘跡に行ってみたいねぇ。

金山に向かう途中「尖閣湾」なるでかい看板が目 に止まり立ち寄る。
かなり地元でも力を入れている有名観光スポットらしいが、
 


事前の知識を入れていない、いや日本の地理の常識にうといせいか、いまいちピンとこない。

いや先に二つ亀や関岬の展望に慣れてしまったせいかのう。
要は、海に突き出た岩盤からの絶景なのだが、どうも頼みもしないのに写真を撮っ た挙句、お皿に焼き付けてみやげ物にしている根性がどうにも美観を損ねさせていた。
生活がかかっているんだろうが、センスがねえなぁ。
いや生活がかかっているからこそ、粋な地元民との触れ合いを演出してほしかった。
え?海でじじいと戯れるのが「粋」かって?
ふんだっ!俺の勝手さ。

寄り道をしたが、目的地は「佐渡金山」。
いまではすっかり観光地になって しまい、当時の労働者の悲惨なありさまはとても計り知れないが、それでも江 戸時代にこの島でどんなにすごいスペクタクルが、繰り広げられていたのかはビンビン伝わってきた。

囚人が穴ぐらに押し込められてただひたすら金を掘っ ていた…というわけではなくて完全分業制、ローテーション、能力主義社会が形成されていたのだった。

つまり岩盤を掘っていくための地質学のスペシャリ スト、金脈を見つけるスペシャリスト、精錬のスペシャリスト、ほかにも、湧いてくる水を運び出す者、採掘の道具をメンテする者、明かりを燈す者、食事 や手紙の運搬まで高度に組織化されていたのだ。
重労働には重刑者が割り当てられていたが、江戸末期に金がなかなか取れなくなってくると軽刑者もつぎ込まれるようになったらしい。
佐渡金山の繁栄と衰退をみてとれる採掘跡であった。

かなり教育番組的な頭に洗礼されてしまったな。

 

 

 


<エピローグ・さようなら佐渡ケ島ぁ>

尖閣湾方面から相川町をぬけ両津港に向かう国道305号だか135号は、 今までの佐渡島のイメージを一気に吹き飛ばすほどの賑わいを見せるものであった。

関岬までの道のりではスーパーどころか自動販売機を見つけることさえ難しかったのに、今通っている道端にはスーバーどころかコンビニにTUTAYAやモスバーガまであり、高校生の通学風景まで当たり前のように見受けられた。

佐渡は秘境な部分と日常な部分を併せ持つ立派な観光地であった。 お

盆の時期のせいか商店街はお祭りの準備に忙しそうであった。

フェリーを待つ間にみやげ物を物色しようとぶらついていると何人ものばあさんに出くわす。

みな口々に、干物片手に「500円でええがら」とか
「今日はこれだけ買っ てぐれだらおしまいだから」とか
訳のわからないセールストークで絡んでくる。

うーむ、これじゃバンコクと同じだな。
観光地に見受けられる光景とはいえちょっとうっとおしいものがあった。

いよいよフェリーの出航時間が近づき、「おおさど丸」の船尾がおおきく開いた。

ちなみに船体にかかれている「おおさど」は佐渡島の北半分のことで、 南半分は「こさど」という。

いよいよ出航だあっ!

さようなら、佐渡島ぁ。

客室に横たわると爆睡かっとび、目がさめると既に新潟港内であった。

おわり