あいつは人間じゃないと怒ったことはありませんか?

今マスコミで騒がれている事件。

「川崎市の中学1年生、上村遼太さん(13)は先月20日、多摩川の河川敷で首を刃物で刺されて殺害されました。

警察は知り合いの18歳と17歳の少年2人の合わせて3人を殺人の疑いで逮捕し、先月28日、身柄を検察庁に送りました。」(NHKニュースより)

それに対して、多くの人が事件現場に訪れ、献花したり、祈ったりしている姿を新聞やテレビなどでも見かけました。

あまりにもむごいと、腹立たしい気持ちになります。どうしてそんなことをするのでしょうか?




このような事件が後を立ちません。

こんなときに私たちは、どうしてこんな酷いことをするのかわからないと思ったりもします。

このような事件を起こす犯人はわたしたちとは全く違った異常な人間だと。

わたしたちとは別世界の人間だと。

確かに、殺人など人を傷つける人間は異常に思えますし、そのような人間がそばにいたら私たちは恐怖を感じるでしょう。

 でも、犯人を自分たちとは違う異常な人間だと簡単に片付けてしまうことには、なんかモヤモヤした気持ちが残りませんか?



それでは、この事件をどのように解釈すればよいのでしょうか?

上村さんが容疑者たちと知り合ったのは、ゲームセンターだったということです。

そして18歳の少年に最初は優しくされ、仲間になったということです。

ところが時間が経つにつれて、パシリのような扱い方をされるようになり、万引きまで強要されるという事態になっていったそうです。

18歳の少年は、定時制高校に通っていたが退学し、そのゲームセンターに行くようになったというとことです。

上村さんもバスケットボール部に入っていたそうですが、やがて部活には参加しなくなり、学校にも行かなくなったそうです。

ここで気になるのは、18歳の少年も上村さんも自分の居場所がなかったのではないかという感覚です。

人間は、自分が安心できる居場所を必要とします。

それは家庭であったり、学校であったり、あるいは職場であったりもします。

そのような自分を受け入れてくれる居場所がいずれの少年にもなかった、あるいは少なかったのではないかという気がします。

だれからも自分を受け入れてくれる場がないとき、人は無力感に陥ったり、人に怒りをぶつけたりすることさえあります。

心理学でいうと”自己重要感”の欠落です。

自分を認めてくれる集団、ありいがとうと言って受容してくれるひとたちを私たちは必要としているのです。

そのように考えると、他人事ではない事件であると思いませんか?



私たちはひとりでは生きていけません。

心理学者のアルフレッド・アドラーは、次のように言っています。

「人間の悩みはすべて対人関係の悩みであり、究極的には、我々の人生において対人関係以外の問題はないように見える。

人はひとりで生きているのではなく、他の人との間で生きている。

ひとりでは『人間』になることはできない」(岸見一郎著「アドラーを読む」より)と。

ですから、その人間関係のなかに、自分の居場所が作れないとしたら人は不幸ですよね。

たとえば、「人材開発室」や「キャリアデザイン室」などと呼ばれる大企業の部署。

体(てい)の良い追い出し部屋であることは周知の事実になっています。

この約20年間に、いかに多くの企業がリストラという名のもとに、社員の首を切ってきたか。

このような社会において「自己重要感」を満たすということは、なかなか難しいことです。

むしろ、それに飢えている時代ではないかとも思うくらいです。

ですから、わたしたちは、自分の家族、友人、あるいは職場の人間関係の中で、相手の良いところを本気で受け止めて、感謝できるようになりましょう。

相手に感謝する、「ありがとう」とこころから言う。

そうすることで、相手の自己重要感は満たされる。

そうすると相手もあなたのことを受容してくれるでしょう。

今回の悲惨な事件を無駄にしないようにしましょう。

わたしたちひとりひとりが変わることから、いい社会が生まれるかもしれませんね。