人は不意に消えてしまう。

さすがに自分の親ともなれば、不意に、という事は無く、父親が亡くなった時(「ヴェッカSIGHT」の準備中でした)は1分1秒でも傍に居ようと稽古場と実家(京都)を往復したものです。

僕は職業柄、俳優さん自身とは直接つながらない(連絡先を交換しない)ようにしている(マメにつながろうとする監督も多い)のだけど、「ノエルサンドレ」が終わった後、出演者有志?が、僕を「送る会」を催してくれた。中国へ旅立つ前3日前だった。たくさんの女の子たちに囲まれてそういう会(飲み会的な)をしたのはこれが最初で最後。みんなで「いい日旅立ち」を合唱してくれた。

この会の幹事?をしてくれたのが岡田れえなさんだった。

人は不意に消えてしまう。

岡田さんは僕が中国へ行ってからも、帰って来る度に「お帰りなさい」会をしてくれた。所謂2世タレントの一人だが姉御肌で面倒見のいい人だった。

そんな彼女が26歳の若さで突然亡くなった。心不全だったという。

このブログの登場人物は、突然死ぬ人が多い。和田先生もだけど殆ど突然心臓が止まって死んだ。

同じ頃、鈴木さんと二人三脚で演劇の制作をしていたreimonさんも、癌との闘病の末亡くなった。「彷徨のエトランゼ」はreimonさんとご一緒した最後の作品になった。

 

果たして中国在住中である。どんなに長く(中国の会社に)休みを申請しても2週間が限度。それでもどうしても「作・演出をして欲しい」という事で、脚本はもとより麻草郁氏を演出助手として、もはや「共同演出」と言える状態だった。前(「ノエルサンドレ」)以上に違和感が拭えない。

違和感が拭えない、というか増大したまま本番を迎えた。結局半分程しか稽古に参加出来ず、出演者さん達も「誰の言う事を聞けばいいのか分からない」「言ってる事が分からない」状態だったらしい(後で聞きました)。

麻草氏には本当に迷惑だったろうと思う。いっそ、すべて麻草脚本・演出にしればいいのに!と思っていた。実際彼はその後彼のオリジナルを発表し続けているのだから、その方がよかったのだ。

結果として(劇場は前より大きかったし、前評判で客入り自体も前よりもよかったのだけど)あまり内外の評価は芳しくなく、故に再演もされていない。

そんな9年前の「違和感」をどうしても解消したく、映像資料も無く、台本も手元になかった(数か月前にPCが水没してデータもない)事もあり、完全にイチからシナリオを書き直した。それが「時空警察シグレイダー彷徨エトランジェ」の脚本である。ただ、プロット自体は変えていない。「何度も同じ繰り返しているようで変化し進化し続ける」演劇そのものを演劇化できないかと考えて「同じ時間を繰り返す空間」を発想した。

「彷徨のエトランゼ」では「エヴェイユ」ではジウにあたるアリサがこの時空に残る事になるのだが、どう見てもこの時空に未練を持っているのはミサ(リン)の方だし、「エヴェイユ」でミサを演じた鷲見友美ジェナさんと打ち上げの時に妄想し合っていた話が参考になり物語が変わった。語り手が変わればもちろん物語は変わる。

見比べることが(僕にも)できないので、どう変わったかは分からないが、「彷徨のエトランゼ」で彷徨っていた方向性は統一できたと思う。

「彷徨のエトランゼ」でアリサを演じたフォンチーさんは「日本人離れした」と言う意味でもジェナさんと共通していて、また、とても芝居が巧く、表現が繊細で演出家を気遣ってくれる優しい人でもあった(これもジェナさんも同じ)。

また、この公演の後「乃木坂46」のメンバーとなり、現在も活躍中の山崎怜奈さんは座組最年少(14歳)だったが、とても印象に残っている(公演後、みんなが撮ったスナップをアルバムにまとめて事務所を通じて中国の僕の会社に送ってくれた)。

「ノエルサンドレ」から唯一続投した百川晴香さんは更にカッコよくなり(まだ16歳)、共演者とも必要以上に慣れ合わず、孤独な時空特捜トレミーを哀愁さえ感じさせる好演をした。

9年後、カッコよさに磨きがかかり、大人のしどけなさも身につけて、また時空特捜トレミーとして「帰ってきて」くれたのは本当に嬉しかった。

 

僕の関わった作品に出演して、後にスターになった人が少なからず居る事は本当に誇らしい。別にその作品(に出た)のお陰ではないし、本人の実力(というかやっぱり持って生まれたスター性)だと思うけど。一番有名になったのは18歳の時に「時空警察ヴェッカーシグナ」に悪役としてレギュラー出演していた、窪田正孝氏だろうなぁ(2度と「帰って」来ないとは思いますが)。

 

これで第1期最終回と書いたけど、2011年12月から、僕は中国広東省広州市に住居を移す。

長期出張とかではなく、完全に日本(東京)の住居を引き払い、すべての後顧の憂いを絶ち、これから発展していくであろう中国のエンタメにこの後の半生を捧げよう!と(その頃本気で)思っていたのだ。

折から北京五輪、上海万博と続き、世界が中国に注目し始めた頃だった。

ここにも書ききれない数多くの挫折と絶望を日本のエンタメに感じていたからでもある。

 

僕は(ある意味で本当に)逃げるように中国に去った。

中国語を勉強している暇もない(勉強しても広東語しか通じないので意味がなかったけど)、旅行等でも行ったことがない、まったく未知の世界である。

単身(文字通り一人で)乗り込んだ中国のエンタメ界は想像を軽く絶する大無法地帯だった。

彼らは日本のエンタメの「オリジナリティ」「企画力」を欲していたが、想像以上に日本と日本人は嫌われていた。

 

現在も交流が続く中国人の友人はいるが、結果として4年半中国で(何か見えない大きなものに)抗い続け、最後にはもう「日本人は要らなくなって」放逐された。心身ともにボロボロになって何もない(家もない)日本に帰って来た。

 

中国国内で放映される(膨大な量の)アニメの中で僕が原案・総監督をやった作品(実写×CG特撮)が年間BEST5にも選ばれた。テレビシリーズを再編集(というか99%新作)して日本でも(豪華声優陣により吹き替えで)劇場公開された作品もある。

 

…しかし、僕(日本人)の名前がクレジットされた作品はひとつもない。

 

キャパ100人の小劇場でやる演劇も、2億人の子供たちが観る子供番組も、推定5人読者のこのブログも、日本で作った作品も中国で手掛けた作品も(フランスで企画していた作品も)注ぎ込む情熱は同じ、常にすべて必死で全力でやって来た。

作品が、自分が評価される、名を残すのは結果でしかない。

 

「時空警察シリーズ」は演出を(やがて作・演出を)吉久直志氏に引き継ぎ、演劇作品として生き続けていく事になる。完全に渡した方が違和感は少なかった。実際吉久さんは「演劇の愉しさ」を教えてくれた恩人だと思う。またそれに関しては第2部で(あるのか)。

 

帰国後、結局(「時空警察シグレイダー」として)時空警察シリーズを自分で続けていく事になった。これらはこれからの事でもあるので、ちゃんと書いていくつもり。

かなり端折ったけど(まだ書けない事も多い)、「過去」の事はだいたいまとめておけた。

過去は変えられない。ここからは「未来」の事だけ考えよう!