カラカンのブログ

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カラカンのうんちです。
毎日のこととかいろいろ。

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少し前の話になる。

スーパーに買い物に行ったら、お魚売り場のところに40代半ばくらいの男性がぼーっと立っていた。

スポーティな恰好で、こういうとアレだが、まともな生活を営んでいる人に見えた。

その人は海水パックに入った牡蠣を見ているようで、僕はあまりお魚売り場に用事はないのだが、少し気になって刺身を眺めるふりをして、その人を横目で見ていた。

その人は、慣れた手つきでおもむろにひとつの牡蠣のパックを持ち上げた。そして、それを見つめている。

牡蠣の海水パックからは、水が漏れていた。

その人が傾けると、水が線になって下に垂れていった。その人をそれを、ただ、みていた。

穴が開いていて、水が垂れているな、と思っていたのだと思う。

純粋にその現象をただ、見ていた。その下では他の牡蠣の海水パックが濡れていった。

 

もう漏れる水も無くなったころ、その人は僕の視線に気づいて、手にしていた穴の開いた海水パックを戻して、去っていった。

 

そういうことがあった。

昨夜、イーストウッドの『ミスティック・リバー』を見た。

プライムビデオで見つけて、ああ懐かしいと見始め、気がついたらそのまま見終えていた。辛くなる映画である。閉鎖的で、救われない、報われない話である。イーストウッドの固執するテーマ「人生を左右する偶然/選択」がこの作品においては少年愛好者に拐かされるか否かだった。ティム・ロビンス演じるデイヴは、車の後部座席に座らされ、悲劇の場へと向かう。いまさら言うまでもなく、本作におけるティム・ロビンスのしみったれて無様で、それでいて距離のある表情は素晴らしい。もう彼には世界に対する視界がわずかにしか開かれていないのだ、と感じさせる。足元の苔や、額に触れつづける毛を生やした葉を払うことしか、考えることができないような。それもすべて、過去の、非道な偶然のせいである。

『ミスティック・リバー』において繰り返されるのは、穴に落ちることである。

冒頭で赤いボールが、デイヴが攫われた地で、殺された娘が熊の檻で。そしてそのどれもが、理由あってのことではない。特にこれといった理由もなく、人は深い穴倉に落ちる。そして、死ぬ。

 

悲運や禍患は、その意味では誰の身にも降り注ぐ。けれど、一度降り注ぐやその自重で傾斜し、ますますの非業がその人生に降りかかるのであろう。気が付いたときにはもう、後戻りなどできない。すべては“あの日”を境に起こってしまったことで、“あの日”には帰れない。その歪み軋みが、幼馴染であった3人へ、力を及ぼすのである。

 

物語の中盤、デイヴとその妻が暗闇に覆われた一室で話をする場面、妻が、娘を殺したのが本当はデイヴなのではないかと怯える中、デイヴはこう口を開く。「僕は吸血鬼について考えていた」、と。彼は確かにそのとき、そんなような顔をしている気がした。

知らない町に越してきてもう2ヵ月が経った。

基本的には自炊をしているし、そうでない場合も家でテレビをながら見したいから買って帰ることが多く、外食をすることがなかったわけだけれど、昨日ようやっと、自宅の近くにあるうどん屋に入った。柔らかめの麺で、讃岐うどんのようなコシが強いのを好まない僕としてはよかった。昆布ベースの出汁は塩っぱかった。なんだか妙な具がちょこちょこ入っていた。こういう感じか、と思った。

 

近くに店がたくさんあるわけではない。車をもっているわけでもない。

行ける範囲、行く店が限られているような町に越してきた。

こういう感じか、としか思えなかった。

さまぁ~ずの大竹さんがテレビで、息子に面と向かって「嫌い」と言われた、という話をしていた。ふたりいる息子のうちで、次男のまだ2歳くらいの子らしい。子供のころ、世界が好きと嫌いのふたつに分かれていたことが僕にも確かにあって、大竹さんの話を聞きながらそのことを思い出した。僕はとくに、板ガムを噛むときそうしていた。そうしていた、というのはつまり、板ガムを噛むとき好きの度合いに応じてお母さんやお父さんへ振り分けていたのだ。おおきな一口目はお母さんに、最後の残された部分、それはなるたけちびっとなるようにした、ところをお父さんへ、と。

 

言うなれば子供のエゴの肥大だ。

自分が好きであることは、そのままその好意の向けられた対象の正しさにつながった。だから嫌いであるというのは、個人的なことではなく、世界からみても正しくなかった。それは嫌いな人やものへの密かな復讐だった。ガムを噛みながら、こっそり心の中で、憎む。そうすると、それは確かに罰だったのだ。たとえ心のなかで念じたに過ぎなかったとしても。

 

そうやって世界と自分の好悪がつながらなくなったのはいつからだったろうか。

好きか嫌いかは、それほど重要ではなくなってしまった。そのものが置かれた文脈を考えて、内的な必然性を考えて、それで好きか嫌いかではない評価を下す。高評価はするけれど、好きかと聞かれたらよく分からないものが増えた。好ましいと感じつつも、際立った評価のポイントが見当たらず脇に置いておいたら忘れてしまうことが増えた。好きか嫌いかが、完全に内側に籠ってしまって、世界の在り方と分離してしまった。世界はよくみえるだろう。けれど、密かな楽しみはどこへ行ったのだろう。

リピートというドラマがやっている。
主人公たちが六角精児扮する謎の男に誘われて、10ヵ月前へとタイムリープし、そして運命に逆らえるのか悪戦苦闘する。そんなドラマだ。見ているとふと、僕だったらどうするだろうか、と考える。10ヵ月前、というと今は1月の中旬だから、戻るのは3月の中旬ごろだろうか。ドラマのキャラクターと違って、特別その間に人生を揺るがすような出来事が起きたわけではないし、取り返したい選択があったわけでもない。

 

まあその間にみた舞台や映画を、戻った過去では見なくて済むのでその分お金が浮くかな、という気はする。けれどそれくらいか。10ヵ月、それをこれからの未来と考えると色々出来そうな気がしてしまう。あれもこれも、完璧にマスターできるような気が。けれど、終わってみたそれを振り返ると結局なにもやっていなかったのだ。毎日10pでも読めばひと月で読み終えるはずだったあの本は読めていないし、まとめて観てどんなテクニックを使っているか研究しようとしたあの映画作家の作品群も見れていない。

勝手に設定した課題は目移りして膨らむばかりで、やらなかったことばかりが積もっていく。

でもまあそんなもんだろう。

今年の目標は年間200冊くらい本読んで、200本くらい映画を見ることだ。どうなることかな。