心身一如 - 臨床心理学から禅仏教まで -

心と身体の理想のあり方を求めて:カウンセリング、催眠療法、夢、フォーカシング、禅。臨床心理学から禅仏教までの心理技法や心の修行法の工夫と研究。


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未だ悟ってはいないし、悟りに向かうときの忘我体験のさいにあるような、自分がなくなって雨が自分の中に降ってた。とか月が自分だと思えた。などというような体験はない。

 
でも今のありのままの自分で行くしかない。というか、ありのままの自分で良いのだ。と決着はついた。禅修行をはじめた当初の、坐禅で悟って立派な人格者やカリスマとなって皆に賞賛されたい。との目標とは真逆の所にたどり着いてしまった。なんだかなぁ。という気もするが楽である。
 
今の瞬間には手が着けられないのだというのはわかった。今の瞬間は意識では、とらまえることはできないけど、危険な物が近づいてくれば身体がかってに避けるのと同じに、無意識にそれなりに(適切に)対応できてることもわかった。だから考えなしに動くことは増えて以前より楽にやれる。
 
一般には禅修行が深まると落ち着きが出てより理性的になるようなイメージがあると思う。ところがこの点も私の場合は真逆で、歳のせいもあるかもしれないが、私の場合、坐禅修行で感情が出やすくなって喜怒哀楽が強くなった。だから苦しい時は以前よりずっと苦しい位になる。そんな時はフーフーハーハー苦しいまま座ったりしている。苦しくても知性使って楽になろうとはしないでいる場合が増えた。以前よりあるがままで居られるかも。
 
すると苦しいのが自然になくなったりするし、ふと適切な対応作を思いついたりもする。以前より精一杯生きてる感じで、その分窮してフーフーと苦しくもなるが窮すればすなわち変ず、変ずればすなわち通ず」ということが起こりやすくなったようだ。
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私が本格的に禅修行に取り組み始めたのは16年ほど前になる。けれどもその禅修行においてずいぶんと間違った修行をしていることに気づいたのは3年くらい前である。それまでのおよそ13年間は間違った方向で修行していた。例えば2014年の03月の禅の修行日記にはこう書いてある「…去年は私の長い禅修行の中で、ようやくハッキリとした、雑念のほとんど収まった三昧を体験できた。でもそれなのに4月半ばに禅修行で一番必要である菩提心が折れてしまって、その後どうにも本格的な修行に戻れずにいた。…」
 
雑念を収め三昧を体験するという修行方法は「坐禅して雑念をなくしていくのが禅修行である」というふうに一般的にもよく知れ渡っている。けれどもこれは本当の禅修行からすると間違った修行方法なのである。雑念をなくそうとすることは意識的努力によって無の状態を作り出そうと努力することである。そのために坐禅中において意識は「しまった雑念に遊んでいたな」「今は雑念ないかな」「これで良いのかな」などというように良い状態にあるかどうかをチェックし続けなければならない。そんなふうに意識によって雑念が出ないようにチェックしたりコントロール(計らい)したりする自分をどこまで行っても手放せなくなる。これは自我を立てない禅の修行方法としては大間違いなのである。
 
また、ようやく雑念のない三昧に入れるようになったとしても、今度はいつでもそれが維持できるようにと、さらに気を張って意識的努力をせねばならない。それは心のエネルギーを多大に消耗する。これによる心の疲労やストレスは相当なものなので、私のように意志力のない者に限らず、禅修行が徹底できなくて挫折する方が普通かもしれない。(…逆にこのような手法に一生懸命取り組んでいくうちにもう疲れ切ってしまって、意識的努力が破たんする時がある。後でも述べるがこれによって、一種の忘我状態に陥りその後に自己の仏性に目覚めることはある…)
 
臨済宗には、数息観によってある程度三昧に至れるようになった後に公案に取り組むという修行方法(いわゆる禅問答)がある。理屈がまったく通用しない公案によって、学校で学んできた「よく考えて答えを出す」などというような論理的思考を突破して、悟り体験を得ようとする手法である。また先にカッコつきの中で述べたが、臨済宗の禅問答(公案禅)に限らなくても、禅の修行上において、公案に取り組むのと同じような一点集中が自然に立ち起こることがある。そしてそれが持続するうちに忘我状態に陥り、その後に自己の仏性に目覚めることこともあるのだ。
 
おもしろいことに、このような偶然的な悟り体験は間違った修行上においても起こりうる。それは逆説的に、それが間違った修行であるからこそ、理屈が全く通用しない禅問答と同じに自我意識をお手上げ状態にするからである。間違った教えからでも悟り体験に至る人はいるにはいるのである。
 
私が学んできたのは、臨済宗の公案を拈堤(ねんてい)する修行方法とは違った曹洞宗系の「只管打坐」といわれる方法である。しかし私の場合は指導者から、先に述べたような間違った教えを受けたこともあって「只坐る」というのが本当にはできていなかった。私だけでなく周りを見てみるに禅の世界では、中途半端だったり的外れだったりする修行方法が数多くある。私以外にも、何十年も間違った方向の修行をまじめに続けている人も数多くいる。
 
禅は「不立文字・教外別伝・以心伝心」などというように元来、言葉を超えたあり方である。そもそも禅の始まりの話として『お釈迦さんが霊鷲山(りょうじゅうせん)で説法したさいに、無言で花を一輪手にして大衆にむかって見せた。このとき摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだ。それによって以心伝心で摩訶迦葉に法が伝わった』という故事がある。

 

そんな伝え方ではじまった仏法を、言葉という事実(そのもではない)を指し示すために用いるものでもって伝えるのは至難の業なのである。それは例えば、みかんを食べたことがない人に、みかんの味をわからせようとすることと同じである。みかんの味をわかってもらうには実際にみかんを食べてもらえばいい。みかんの味を言葉でどんなに上手に説明しても本当の味(事実)は伝わらないのだ。ところが、禅の悟りについてはそれが眼に見えないものであるせいか、言葉で説明されたもの(絵に描いた餅)の方を本物であると勘違いしてしまいやすい。これは、みかんの味なら自分で食べたみかんの味より、言葉で説明された味の方が本物だと勘違いしているのと同じことなのだが。

 
言葉を用いた禅の教えは、そのほとんどが「悟りに至るため」の方法論だけで終始してしまう。でも方法論だけではどうしても「~する」という枠内にとどまるしかない。心の動きを止めようとすると、その止めようと「する」働きがさらに心を動かす。また、心の動きを止めないようにすれば、その止めないようにと「する」働きがさらに心を動かす。そんな観念の世界の堂々巡りに陥りかねない教えが実に多いのだ。
 
けれども私自身は、間違った修行を長年続けたことについて、騙された感じや無駄したなどと後悔するような気持はまったくない。それは教えを受け取る側の私自身にも大いに問題があったからである。最近、ケン・ウィルバーの『無境界』という本の、禅に関する部分を再読した。そのさい「ここはとてもうまく言語化しているな。うんうん」とすごく納得いった部分があった。そこには昔読んだ時にも、ここが大事と思って引いたマーカー線が残っていた。ページの上部には、その線を引いたのが今から20年以上も前の平成7年5月と記してあった。呆れることに、そのマーカー線を引いた部分の禅の教えを、私が本当にわかるまでに20年以上かかったということになる。
 
ケン・ウィルバーの名著だけでなく他にも、これまで正しい教えの法話を耳にしたこともあったであろうに。私がそれらの真意をしっかりと受けとめて来なかったために、自らの修行方法に間違いがあることにも気づけなかったのだ。ケン・ウィルバーの本に記されてあった20年以上前のマーカー線の証拠から見てもそうと認めるしかない。
 
極端化していうが、小学生のころ科学画報という月刊誌を読んでいた私は、次第に科学的、合理的にする(やる)というあり方に目覚めていった。そしてそのようなあり方中心で30代後半まで生きてきたのである。「あるがまま」という言葉は、とうに知っていて、それが大切と思ったりもするのに本当には解ってなかった。何かあるとすぐに良い悪いで判断して、表面的にでも、うまくやる(する)にはどうしたら良いかなどと恰好つけることを考えていた。禅の教えにしても、そんな私の価値観やあり方に近いような教えを好んで取り入れてきたように思う。
 
最近ようやっと「する」と対極にある「ある」が本当にわかるようになってきたようだ。歳のせいで自然に無為に近づいたということもあるかもしれない。でもそれだけではない。そのきっかけは、3年前に静岡県掛川の井上貫道老師のユーチューブの動画を見て「お、この人は本物ではないか」というようなものを感じてからである。その後ネット上にアップされてある井上老師に参禅した人によるブログを見つけ、その中の「修行して解脱するんじゃないです。すでに解脱してるんです。そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です…井上貫道老師語録」というのがしっかりと心に入った。

そういえばケン・ウィルバーも『無境界』の本の中で、こう言っていたのだった「永遠の現在(統一意識・法)とは自分がつかもうとする前のこの瞬間だからだ。それは自分が何かを知る以前に、知っているもの、何かを見る以前に見ているもの、自分が何者かになる以前の自分である。それをつかもうとすることには動きが必要である。それをつかもうとしないことにもまた動きが必要である。どちらにしろたちどころにそれを見逃してしまう」と。
 
言い換えてみよう。すでにそうで「ある」もの(事実=仏性)に到達する道はない。ということは良い境地に達しようとか悟ろうなどと「する」ことは、逆に悟りから遠のいてしまうことになる。強くいえば逃げ出していることになるのだ。煎じ詰めれば、禅においては「する」というあり方は全て間違っていて、禅は「ある」でなくてはならないといえるだろう。
 
私は先に述べた井上貫道老師のお弟子さんにあたる先生の所に参禅するようになって一年半くらいになる。そこでの「既に事実であるから、坐り方に手段は要らない、知識も要らない。なので、何かを解明しよう、掴もう、観察しよう等々意図的に何もせず、ただ坐る」という教えを元に、ようやく「只ある」というあり方が少しづつわかるようになってきた。
 
私はカタツムリより遅い歩みで「する」というあり方中心から「ある」というあり方中心へと20年以上かけて移行してきた。でも私のように器の小さいものにとってはこれもありかもと思う。(内容は省くが) 睡眠時に見る夢で、その内容はいろいろ変化しながらも、まさに私の在り方の転換がなされているような、繰り返し見る夢があった。そして去年には、その繰り返し見る夢に終止符を打つような夢を見た。それは、以前のようには挫折しないで、坐禅に取り組んでいけるようになった私の新たな禅修行と並行していた。よくはわからないが、遅い歩みには遅いなりの、深い事情があるのかもしれない。
 
参考HP:『自分を知るための心身相関図 催眠・禅・意識の勘違い坐禅の仕方と悟り,見性,大悟,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

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正月休みに久々に自宅で長時間を4,5日連続して坐った。去年の秋口から坐る時間が少なくなっていた。「見性体験をするために頑張って坐らねば」という考えがなくなってしまって、なんだか坐っても坐らなくてもいいや。みたいな感じで過ごしていたのだ。

 

見性とは関係ない身体的なものだが、最近は坐禅しないでいるとお腹がこわばってきて、そのお腹のこわばりに引っ張られて上半身が苦しくなって片頭痛までしてくる。それで苦し紛れにちょこっと坐ったりするくらいで過ごしていた。それが久々に正月に連続して坐ったら体感的にはスッキリした感じになった。

 

ところで、外の音を聞こうとする前に音があって消え去っていたり、お茶を飲めばかってにお茶の味になって、それも瞬時に立ち消えていたり、ふと思いついてもその思いはもうなくなっていたり、などと「今の様子しかなくて、それ(今)は既に消え去っている。手が付けられるものではない」というのがかなりわかった。そのせいか色々蒸し返したり、頭でうまくコントロールしようとすることなどはなくなってきた。「もうすんでいるのだから仕方ない」とあきらめの境地レベルだが。

 

禅修行においても、頑張って自我を滅したり雑念をなくしたりなどと、自分を高い境地にもっていこうとはしなくなった。坐禅するときも姿勢を整えて坐ったらその後は、たまに姿勢の崩れを直すくらいで、前より何もしないで、その時その時の様子でいられる。知らぬ間に何かやっているかもしれないけれども。

 

一時期は、この今の(自分の思いも含めた)ありのままの様子しかないのだから、もう見性体験しなくてもこれでよいのでは、とまで思えた。やはり先の事がふと思い浮かぶ時は気持も不安になるし、嫌なことを言われれば腹も立つ。この辺りのことは、それになり切ってこだわりがおきなければ、瞬時に変化して済む。

 

でも他の人が、絵にかいたような見性体験を語っているのを見聞きすると「自分もあんな経験が一度くらいはないと本物とはなれないかも」と、自分の今の様子しかないのがわかっているはずなのに、これではダメではないかと羨ましくなったりと、こだわりができる。そこで平気でいられなくなるという事は「確かにそうだな」と本当の決着までいってない証拠といえる。

 

 

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見性して悟ったわけではないが、私の禅修行に一区切りついた気がする。何十年もたってだがようやく本当の禅修行の道に入れたともいえる。

 

「なんだ、今の様子しかないのか。じゃ今のありのまままの自分であればいいんだ」とわかった。この「今の様子、ありのままの自分」というのは、私の性格とかに限らない、より拡大解釈したもの(自分)である。仏教で六根といわれる、眼耳鼻舌身意などが身体が環境と連動して勝手にやっていることを含めたものだ。

 

例えばそれは、今、部屋の外の音が勝手に聞こえて消えているとか、前を向いて歩くと、見ようとしなくても面前の景色が次々と現れては去っていく。お茶を飲んだら自然にお茶の味が立ち起こり消える。ふと心に浮かんだ思いや感情も「あ、こう思ったな。こう感じたな」と思う時には消えさり、こう思ったな、こう感じたなと思っている今しかない。そんな全ての事実(様子) のことである。

 

私は過去に心理学方面の体験学習の努力を重ねて、かなり自己肯定できるようになったと思い込んでいた。秘かに、より優れた人格者となるために人生の前半では心理学を学ぶことで理論武装を計り、後半では禅の悟りの境地によってそれを達成しようとしてきた。

 

ところで、見性をしようとか悟ろうと思って努力をすることは、今のありのままの自分を否定してより違ったところ(高い境地)に行こうとしていることになる。私が心理学で身につけた自己肯定は本物ではなかったのだ。禅修行でより高い境地に至ろうと努力することで知らぬ間に今の自分を否定しつづけていたから。

 

自分を捨てるのが禅修行の始まりである。だから自分を立てて、そこから成長させようとすることは本当の禅修行にならないのだ。そんな捨てるような自分は元々無いのだが・・・などと自分を否定していったら、アレレ(欠点丸出しの今のありのままの)自分を肯定するに行きついてしまったよ。

 

悟ろうとすることも間違いだったとは。せっかく見性体験をして人に自慢したかったのに。なんだかなあ・・である。

 

参考HP:『耕月寺』

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これまでブログで日常での禅修行と題打ってかなり長々と私の禅修行遍歴を書き留めてきた。でもここに来て、それらが「全て無駄な努力だった」いやそれ以上に「邪魔をしている動きだった」とまでいえそうな事態に陥っている。それは井上貫道老師の言葉にある「修行とは何もしないこと、何かに向かうと修行じゃなくなる」というのが、理屈上ですけどかなりハッキリわかったからだ。

今朝の坐禅中に「あぁ、良い悪いではないのに、どうしてすぐに”うまくやるには”とすぐ動き出して悟りに到達しようとしてしまうんだろう。困った」などとなってしまった「これも意識的な動きだ。さらにまた、どうすればと出てきた。また少しすると次には、これで良いのかな」と出てくるというふうに。例えていえば、うなぎを右手で握って捕らまえようとしたら、ぬるりと逃げられたので今度は左手で握ろうとしてまた逃げられて、それでまた右手で握ろうとする。それを延々と繰り返すみたくなってしまったのだ。

そんな苦しい座禅を続けていたら、ふと「事実は認識する前に既に始まり終わっている。ということは、それから意識でなんとかしようと思っても全て手遅れなんだ」とあらためて思った。また「そういえばベンジャミン・リベットの実験だと、意識は0.5秒遅れて、でもそのタイムラグには気づかないで、今まさにはじめて手を動かしていると勘違いしている」というのがあったなと思いだした。それらはかなり前からわかっていたことなのに、全部はわかっていなかったのである。

その気づきから私は「なんだ、手がつけられないのか」とあきらめの境地がまた一段深まった。どこか素直でなくて我が強い私にとっては禅修行においてもその部分が頑張って修行をしていたのだ。頑固なそこを諭すのに長い時間が必要だったということのようだ。

「禅によって悟りたいと思う」というか「すでに悟っていることを自覚したい」と願うなら禅修行しないことにははじまらない。でも禅修行を(頑張り)はじめると、井上貫道老師のいうように禅修行ではなくなり、悟りから遠のくばかり。これは凄い逆説。

『坐禅の仕方と悟り,見性,大悟,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ』:http://zazen.blog.jp/
『マインド・タイム~脳と意識の時間 ベンジャミン・リベット』
http://zerogravityjapan.com/kbc/intro/38/mind_time.html
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夏から根を詰めて禅修行に取り組み始めたので、それに関すると思われる夢をよく観る。禅にかぎらず何かに真摯に取り組んでいるとそのことに関連する夢をよく観るようになるのだ。真摯に取り組んだことに関する夢を観ることは私に限らず多くの人が体験することである。

今回紹介したくなった夢は、読んでもらった方にはかなり笑ってもらえるような滑稽なちょっとお恥ずかしい夢である。私自身はいたって真剣なのだった。でも、そんな真摯な動機からではあっても、こんなに滑稽な間違ったやり方してるよ。と夢が私にアドバイスしてきたのである。

禅修行では「大死一番」とか「絶後に蘇る」などというように「悟り体験」には一度自我が死んで生まれ変わるくらいの体験が必要であるといわれてもいる。といっても事実は、元々自分なんてないらしくて、自分があると勝手に思い込んでいたのに気がつくのが悟り体験でもあるらしいのだが。

{夢:上手くやるための死んだふり}
私は自分を死んだように見せかける工作した。
でも生きていてその私は、襟にフリルの付いたような派手な衣装で着飾っていた。
それが葬儀を行うだんになって結局バレてしまって追い詰まってしまう。
私は暗い方の隅に行って向こう向きになる。
そして後ろからくる警察官か誰かにか、観念しましたとばかりに後ろ手を回す。  

☆この「自分が死んだふりをしていた」というおかしな夢は、私が禅修行で、今まで(無になろう、自分をなくすようにしようなどと)努力していた事を、そのお前の努力はこんなことになっているんだよ、と、物語ふうな感じでわかりやすく教えてきたのである。

☆私は先に書いたように大死一番とか絶後に蘇るくらいにならなくては悟れないんだ、そうなるように持っていくのが禅修行なのだ。などと勝手に思い込んで、そのための努力工夫をしていた。でもそんな私の努力は間違っていて、死んだふりをしているのと同じ結果になってるよ。と夢は言っている。確かにとにかく私は上手くやりたいという思いが強い。癖にまでなっているのだ。そこで禅修行でも「上手くやるためには、、」という回路がすぐ働いてしまうのだ。この夢でそれがハッキリわかった。なんという無駄な努力をしてきたことか。ふりをしたって役立つわけないのに。

☆やっぱり私は自分がかわいいというか本当には死にたくないのかも。

☆けれどもそんな私もついに気づかれて追いつめられてしまった。両手を後ろ手に回して観念したところが今でも印象的だ。ようやくそんな見せかけの努力を手放す時がきたのかもしれない。滑稽な中でもこの点は希望が持てるかも。

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腰の痛みやだるさで落ち込んでいたりしてこのひとつ前のブログを更新したのは11月22日の日曜日だった。そして次の23日月曜日は朝から丸一日の坐禅会に出席した。長丁場の坐禅会で座り続けて腰がこれ以上悪くなったら嫌だなぁと恐る恐る出席したのである。

ところが不思議な事が起こったのだ。丸一日の坐禅会終了後の帰り道すがら、腰がスキっとして足も軽やかなのである。どういうことかよくわかならいが、今日の坐禅会で腰を立てた姿勢で長時間座れば本当に腰はだめになるかもなどと思ったくらいなのが反対に治ってしまった。

腰足回りの血流がとても良くなったのは確かだ。坐禅の合間には足腰を少しストレッチしたりはした。でもそれらは自宅でも何時もやっているパターンだし。一つ考えられるのは腰痛にはストレスが影響すると言われていることだ。今回の私の場合もかなりそれがあったのかもしれない。でも坐禅会で長時間坐っているうちにそれらが解消されたのかもしれない。それにしても不思議。

私はそれまで座禅を長時間やれば必ず腰はより悪くなると勝手に思い込んでいたのだ。その為に坐禅会を休んだほうが良いかもと思ったりもした。もし本当に休んでいたら大事をとって良かったなどと思ってしまっていたかも。むしろやった方が腰が良くなるなんて思いつきもしなかっただろう。こんな思い込みの中で生きているのが私なのだ。

ところで悟りとは「自分が有ると勘違いしていることにはっきり気づくことである」といえる。人の持つ思い込みとしては最大のものといえるものを禅修行によって剥がすことに取り組んでいるのだ。そんな私に「心配するでないぞガンガンやりなさい」との励ましをくれたのかもしれない。

そういえば当日の朝、坐禅会場近くの駅を降りて会場に向かってスマホ見たりしながらボケっと歩いていたら、ベタッと私の頭で音がした。上を見上げるとそれ程背の高くないプラタナスの並木の枝から真っ黒なカラス様が私を見下ろしている。お前を狙って落としたんだよ、と言いたそうな目で。彼が私のちょうど頭の真ん中にウンチを落としたのだ。私は人目もはばからず路上で、ありったけのテッシュペーパを取り出してそれこそ無心に拭き取りました。その緑色のウンチは私のかなり薄くなってきた頭髪に絡まって拭き取るのが大変でしたよ。

私はカラスの便器にされてしまった。いやそのウンがついたので腰痛が治ったのか。それとも「スマホ見ながらなにポケーッと歩いてるんだ。もっと気合入れてしっかり坐ってこい」ということだったかも。でもいざ坐る時には「何にもしないで坐りなさい。身体の機能のままに過ごすのが坐禅です」と言われてるんで、意識的に頑張ることもしてはいけないんですよねぇ。
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私のライフワークでやりたいことは催眠に関する本を仕上げることと、悟り体験をすることの二つである。そのひとつである、催眠療法に関する本を電子本ではあるけれど、今年の9月半ばにまとめ上げることができた。

後は私の最後の心の修行でもある禅修行のみだ。よしっ悟ってやるぞ!と歳くってるのに、気合だけは立派に、9月からはガンガン坐禅してきた。そしたら寄る年波か、悲しいことに二、三日前から左腰の辺りに痛みが出てくるようになった。座りすぎた疲れだろう。そして今日は足腰のだるさも伴って嫌な感じ。「ちゃんと座れなくても修行はできるよ」と自分を慰めてみたりしたが、ガッカリして気持が行き詰まってしまった。腰を休めなければ、仕方ないなぁと、つらい気持ちの中に昼寝をした。

そしたら、意味深げな夢を見た。

{夢:川掃除、小動物の遊び、バッグ}

山村である田舎の家のそばにある渓谷にいる。その淵になった場所は実際の川より幅広い。

そこの川面を見ていると大きめのカエルが板に乗って波乗りしている。カエルは器用に板の端をちょっと踏み込んでターンしたりとサーフィンしているのだ。他にも小動物が同じように波乗りして遊んでいるようだ。

ちょっと乱暴そうなチンピラたちも泳ぎに来ている。でも、そこには前々から物静かな男性が数人時々きていたのである。そしてこの場所や小動物の遊びなどを大切に見守っていたのだ。

近所の 幼なじみの吉己ちゃんたちが川を掃除に来た。私はこのとても大切に思える場所を荒らされないようにしないと、と思う。帰り道その物静かな男が私を送り出してくれる。川は掃除によって綺麗になっていた。

その渓谷からの帰りの山道は実際よりもっと険しく、途中が崩れかけたりしている。その道の途中には中、小のバッグがいくつも捨てられていた。

☆川や渓谷は私の心的エネルギーの流れを表しているのは確かだ。
☆バッグは私の心の入れ物であって、知識や経験などを集めてそれに入れておくことで役立たせてきたのかも。それを禅修行で捨てることができるようになったのか。バッグを捨てた分物事にこだわらないようになれたのだったら良いけど。
☆川が綺麗になったのは禅修行が進んでいるということか。
☆カエルのサーフィンはユーモアがあっておもしろいが、どんな意味合いがあるのかよくわからない。両生類のカエルは意識と無意識(水中と陸上)とを行き来できるという象徴性がある。そのカエルが川(心的エネルギー)の流れに乗りながらも自分が乗っている板をちょいと刺激してその動きを変化させ楽しんでいるのだ。
☆夢は私を慰め励ましてくれてるようでもある。カエルのサーフィンによって教えをたれようとしているようでもある。
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この所ようやく日常での禅修行が定着してきた。暇な時間があるときは長時間の坐禅や歩禅をおこなっている。また動中の工夫も継続できている。

以前は「よしやってやるぞ」と禅修行に打ち込むのだが、何ヶ月かしたら飽きてしまって「やらねば」と思っても全く身体がその気にならなくなり、次第に禅から遠ざかってしまっていた。

おかげで思いに走ることもずいぶん少なくなってきた。本当に長い間、常に「上手くやること」「失敗しないようにやること」に心を砕いて頭で常に考えたり、気を配ったりしてやってきた。そればかりが正しいやり方と思い込んでいたのだ。

最近では『静岡県少林寺住職 井上貫道』の説法が特別分かりやすくてまた一つ目を開かされた。とてもわかりやすい上に要点を突いた法話なので興味のある方はぜひ読まれてください。

『意根を断つ今一度坐禅について』前編:http://www.nakanojouganji.jp/kihou/12inoue1.htm
『意根を断つ今一度坐禅について』後編:http://www.nakanojouganji.jp/backno/50inoue2.htm

YouTubeの動画でも話が聞けます。
悟りへの道 井上貫道老師 初登場(スピリチュアルTV)
普勧坐禅儀 座禅の基礎 井上貫道老師(スピリチュアルTV)
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★2014-02-26 日常での禅修行 4-1

驚いた!今朝起きたら、腰が悪いせいか長年続いている足の踵の嫌な痺れがほとんどと言っていいほどなくなっているのだ。歩くと足腰が非常に軽い。昨日は逆で、いつもはそれ程でない右足の踵まで痺れが出た。それで「椅子で座る坐禅も腰には負担なのだな。私は坐禅がもうできなくなるかも」と悲しくてガッカリ感に包まれていたのだった。

それでも懲りないで横浜の弘明寺にある、みうら湯でスパ銭禅をしながら、電動マッサージをやってみたり、自分で考案したリラックス体操をやってみたりした。正式な坐禅は無理でも呼吸法があるさ、などと慰めたりしたが、心は鎮まりながらも気持ちが暗かった。

そんな時ふと思い立って、リラックス体操の前屈ポーズで今までになく凄い頑張って足腰を伸ばしたのだが、それが良かったのか踵の痺れはありながらも、みうら湯からの帰りの足取りは軽かった。家について夕食をとって後、ちょっとリラックスしてから夜の修行に出かけようと思って横になったら今までで最高の心地良いリラクゼーションに包まれた。身体丸ごと全体を感じながらの得も言われぬ気持ちよさだった。

外に出かけて公園のベンチでの椅子禅では、仙骨周りに痛みが走ったが「エイ」と背筋を伸ばして座って、最近感動して涙を流しながら読んだ、大智老尼の説法に出てくる「只の呼吸」になるようにと試みた。午前三時頃夜の修行を終えてビデオデンタルTSUTAYAにちょっと入ったら室内がキラキラととても綺麗だった。

そして一晩眠って今朝になったが嬉しい事に踵の痺れがほとんどなくなっていたのである。このところ日常での禅修行にかなり没頭している。そこで持病の腰痛を悪化させて禅修行に挫折しないようにと、身体もよくほぐしたりしながら修行を頑張っているのだ。そしたらありがたいおまけがついた。

★2014-03-17 日常での禅修行 4-2

去年は私の長い禅修行の中で、ようやくハッキリとした、雑念のほとんど収まった三昧を体験できた。でもそれなのに4月半ばに禅修行で一番必要である菩提心が折れてしまって、その後どうにも本格的な修行に戻れずにいた。その菩提心が今年の正月から強く蘇り、その勢いでほとんど毎晩4~5時間公園禅をやっている。ヨコハマの港に隣接する公園をあちこちと歩いたり公園のベンチに腰掛けて坐禅しているのだ。

何度も言うが、私ももう63歳で後がないこともあって、今まで以上に一段と真剣ではある。今は菩提心が燃えている。禅修行は24時間の格闘技であると井上老師は言う。娑婆心を捨てろとも言われていて今回は日常的な楽しみはほとんど捨ててしまった。夜の公園めぐりの禅修行以外(仕事で心理面接を行う以外)は全て禅の修行時間となってきた。しょっちゅう楽しんでいたのDVD映画鑑賞もやめてしまった。昨日からクイーンエリザベス号が大桟橋に来ているので趣味のカメラで取りに行きたいなとちょっと心がブレたが修行だと決めた。大智老尼は道狂になれと言われたらしいが私もそうなるように務めている。

おかげでかなりハッキリした禅定といえるような心境にもなる。ここに来るまで長い時間かかったのでこれを逃してなるものかと思う。

★2014-07-28 日常での禅修行 4-3 呼吸は奥深い

正月から日常での禅修行を頑張って続けてきた。動中の工夫と静中の工夫があって、じっとしている(静中の)時はとにかく呼吸の『吐く息、吸う息』に集中するのである。寝ながら呼吸に集中する寝禅もよくやっていた二月と三月には「呼吸ってすごいんだなあ!」というようなおもしろ不思議な体験をした。

2月21日の夜。寝床に入ってから呼吸の吸ったり吐いたりをつづけていたら、呼吸するたびに不思議にお腹が伸び伸びとどこまでも伸びて行く。息を吐くたびに腸がグジュグジューとなって伸び伸びのびていくのが気持ち良い。そんな呼吸の途中で眠りに入った時にこんな夢を見た。

野良猫のかたまりがあって、それがホグレていく。
その猫を抱きしめているとジワーッと本物の猫に戻っていくのだ。
長い野良生活の緊張から固まっていたのだった。
とても愛おしい感じ。

野良生活の緊張から石化していた猫がホッとして安らぎ、身も心もほどけていく。夢の中の猫のほどけにパラレルして私のお腹がどこまでものびていく感じ。とても心地良かった。夢がこんな感じだようとか、こんな意味があるよーなどと補足してくれたのか。

3月7日の夜。寝ながらの呼吸法していたら、またおもしろ不思議な感覚になった。その時も寝床に入りウトウトしたりしながらも、吸う息吐く息に集中していたらいつの間にか全身が心地よく包まれたような感覚になった。とても心地良いのはもちろんだが、これは胎児の時の感じじゃないかと思えた。

こんな体験から呼吸の奥深さがかいま見える。ただし簡単にはそうならないのが難点。ちょっとやそっと呼吸法やっただけでは刃が立たない。私の場合はだが、とにかく四六時中呼吸に集中していてやっと起こってくるものである。

それに禅の修行からするとそこは本筋ではない。そんなことにこだわらず、とにかく朝から晩まで「只吸ったり吐いたり」していられるようになる必要がある。でもまだ、そこまで徹底するのはいくらなんでもつまらなそう。ついついこうやってブログ書いたり。そういえばこのところちょっと緊張感が途切れて寝禅もやってない。寝床に入ってからは呼吸よりスマホに集中している。(^_^;)菩提心、菩提心。

★2014-11-29 また夢が禅修行の成果を教えてくれた

今年はおもしろいことに正月から始めた日常での禅修行が、11月も終盤の今になってもちゃんと続いている。こんなに長く挫折しないで続いているのははじめてだ。春過ぎ頃には挫折するのが私の常だった。実は今回は歩行禅をやりすぎて5月に膝を痛めた。それで挫折しそうになったのだが、なんとか乗り切れたのだ。

先週は予約クライアントが少なかったのを良いことに、坐禅週間と名づけて、できるだけ多くの時間坐わることにしてみた。まだ24時間すべて徹底とはなっていないが。お楽しみのビデオ映画をTSUTAYAで借りてきては観てしまうのだ。それでも坐禅は一日平均五、六時間位やった。そんな私に夢がまたメッセージをくれた。

『2014-11-15夢:田舎のみんなにお前が一番だと認められる』

夢の中で「お前が一番すごい」と田舎の幼なじみなど全員が言っているという。

幼なじみの一人が司会者となっていて、そこに大勢集まっている田舎の皆に、私のことを「みんなで賞賛しよう」と声をかけている。部屋の向こう側に集まっている皆がオオーと返事をする。

すると一人のおかっぱ頭の四、五才の女の子が登場して、皆の前で自由に踊ったりする。彼女の歯は直されている途中のようでキャップのようなものをかぶせてある。

「故郷に錦を飾りたい」ではないが、こう言われるようになりたいというのは現実での私の若い頃からの長年の願い、野心であった。それを夢が解決してくれたのだ。おもしろいことに昔から私が精一杯頑張っていると、ちゃんと夢が褒めたりしてくれる。でも夢は「この皆の前で自由に振る舞う女の子のようなあり方が本当の賞賛を受ける価値がある」のだと言ってそう。私は奥歯がボロボロで歯の治療を受けているのでこの女の子は私である。私の心の理想的なあり方を現しているのであろう。
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