2017年11月に「今のありのままの自分で行くしかない。というか、ありのままの自分で良いのだ。と決着はついた」とこのブログに書いてからあっという間に2年半が過ぎた。
長年頑張っていた禅修行だったがその後2019年の一年間はほとんど座ることはしなかった。でもその間も禅修行は日常を生きていく中で進んでいたようである。久々に、今年の2月になって座ってみると以前よりシンプルな心持ちで座ることができる「今のありのままで居る」ということが私のあり方全体に浸透してきたのだろう。面白いことに長時間坐禅しても以前のように無理して頑張って座っている感じがなく座れる。格好つけない今の自分のままでいるというあり方が深まってきたようだ。
昔は雑念が浮かぶと「あっ雑念がまた浮かんでしまった。こんなことでは悟りにはほど遠いなガッカリだ」等とこだわっていた。今はまったく取り合わないでいられる。以前は坐禅している最中に、より良くあらねばとばかりに余計なことをしまくっていたことが今更ながらよくわかる。坐禅中に自分を自分で内省して(意識で)良い方向にコントロールしようとしていた。少しでも良い坐禅をして(自分をコントロールして)悟りやより三昧と言われるような境地に近づけるようにしようと頑張っていたのである。理性・観念で思い描いた悟りや三昧はあくまでも思考が理想像として勝手に作ったものである。それは絵に描いた餅であって本物の悟りではなかった。
思い起こせば中学生の頃読んだ本に「自分が理想的な人間になろうと思ったらそうなるように努力していればそうなって行く」とあった。向上心があると言えば聞こえは良いが(臨床心理学的に)内省して(意識的努力で)より良くあろうとすることは、今のありのままの自分を否定することでもある。それにこれは表面的な見た目の自己改革になりがちだ。ご多分に漏れず私もそれ以降いい格好しいになってしまっていた。そしてそれは生命体としての宇宙的な働き(自然治癒力の流れに)逆らうことでもあったのだ。
さらに幼少期まで遡ってみれば物心がつく頃からトイレットトレーニングをはじめとして、家庭に学校に、そして成人すれば職場に社会に適応するするようにと、しつけられ教育される。家庭や会社や社会の価値観の枠組みに沿っていくことは条件付きの自己肯定感をもたらす。そんな条件付きの価値観は比較で成り立っている。例えば勉強ができる、スポーツが得意、美人である、仕事ができる、社会的地位が高いなどは他と比べてのものである。そして個人はそれらの価値観に適合しない相反する自己の部分に対して否定感を持つことになる。
カウンセリングや心理相談に来談される方には自己否定感の強い人が多い。「ありのままの自分はなまけもので、、」「自分には価値がない」などと思ってしまう。家庭や学校、社会や人間としての理想像、カリスマやヒーローやヒロインと比べて自分がダメ人間ではないかなどと自己卑下や劣等感を持っている。生まれてからこのかた「居るだけでいい」とか「そのままでステキだ」「ありのままの自分が好き」等というような無条件の愛情(肯定感)を感じたことがないのだ。例えば、親が子供に期待しすぎて条件付き価値観を押しつけすぎると「子供は居るだけで大切にされている」という感じを持てなくなる。逆に本当の自分は価値がないのだろうと思ってしまうのである。
無条件の自己肯定感は人の心の基礎部である。これが弱いままに育つと条件付きの価値観に固執せざるを得なくなる。その結果、例えば美人であっても年を取ってしまえばもう私には価値がないとなる。「勉強ができる。優秀である」ことにアイデンティティを持っていた子供が大学に入って目立たなくなってしまったら、もう死ぬしかない。とまで追い詰められたりする。他人とだけでなく自分とも対立しそこに争いが起こってしまう。社会的な価値観や共同体での枠組みは必要なものではあるが、条件付きの価値観にこだわり一体化してしまうほどに、他者否定と自己否定が強化されて自他ともに折り合いがつかなくなってしまうのである。
無条件の自己肯定感を再獲得するためには、限界ある人間としての自分を好きになったり、今の瞬間の格好つけないありのままの自分を大切にする必要がある。今は詳しくは書かないがおもしろいことに、人がいき詰まったり挫折したときにこそ、この無条件の自己肯定感への道が開かれるのである。
ところで条件付きの価値観の最たるものはデカルトの言った「我思う故に我あり」の我(自分・自我)である。でもお釈迦さんは約二五〇〇年前に瞑想によって、その我(自分・自我)が実は観念上のもので実態としてはないことに気がついて仏教として広めた。「我思わざれば我無し」なのである。あるがままの今の瞬間を禅修行によって極めてみれば自我・自己は観念上のものであって実際の自分はいないことがはっきりする。悟ったわけではないが事実と思考(想像・思い込む)を区別できるようになったので、確かに今の瞬間に生滅している事実しかなくてあとは記憶や想像、思い込みによって心の地図を作ってやりくりしていることがわかった。
しかしそれにしても江戸時代の禅僧良寛さんが71才の時、東北大地震で被害が大きかった友人に送った見舞の手紙の中の一文にある「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」というような法の道に徹したあり方。良寛さんの逸話や伝説からすると確かにそのように生きた人のようだ。宇宙自然の流れのままにあるのみ。これこそが無条件の肯定感の極みといえるのだろう。
お釈迦さんの教えの元は「人生は思い通りにならないもの(一切皆苦)である。よって(煩悩などへの)執着(とらわれ・こだわり)を捨てることで苦しみを消し去ることができる。ということだが。それにしても良寛さんのように、ここまで自分をなくせるものなのか。人間が普通に考えること、「災難を避けるには、生き延びるためにはどうしたらよいか」などと理性で考え工夫することを全て否定しているようだ。このようなあり方の人が増えれば科学や医療は発達しなくなるだろう。確かに地球のため宇宙のためにはそれが良いのかも知れないが。
私としては、確かに良寛さん的な心持ちで居られるようになりたい。でもやはり蒸し暑い夏にはエアコンは欠かせないし、いざ病気になったら最大限より良い医療を受けたいと思ってしまうだろう。
自己肯定感に関してはカウンセリングや心理面接場面でクライアントと心の問題の解決を工夫する中から見えてきたものを中心に書いたページもあります:カウンセリングで見つける(無条件の)自己肯定感