2011年3月11日
この日を忘れない。


夜勤前,私はぎりぎりまでねていたくてねてた。そこに大きな地震

かろうじて,たっていられたけど,なんか違うと思って急いで窓をあけた。でもそれ以外何も出来なかった。急いでテレビをつける.なんか、違う.千葉テレビ。
次に思ったこと,施設は大丈夫だろうか?仕事場は?とにかくいかなきゃ!怖かったけど私はたまたま,ちみといたから大丈夫だった気がしていた.
家族にメールで安否確認.
大丈夫だってきた。
でも津波がくるよ!気をつけて!だって。なんだかこのときは自分の命より利用者の命だと思ったし東京湾は大丈夫だろうと思ってた。
早速向かう。家の前の仕切りが曲がってる以外大丈夫じゃん.と思ったけど違った。私の住む中町はやや液状化があるだけで地面がひび割れてるくらいだったけど新町に向かうたびに道路がボコボコとしてる。泥...海みたいなにおいがすごい、と思ったら湧き出る泥。傾く交番。バイクが泥にはまる。歩いて向かえばよかったと後悔。やっとで施設の前にたどり着く.待って、いつも入るところが盛り上がって入れない!液状化でぐちゃぐちゃになってすごい段差と泥になっていた.
思っていた以上にすごかったのかと街にでておもい知らされる。

そして施設についたら,隣の施設に移動していた.普段デイルームの場所に寒々といる利用者たち.あるだけの毛布をわたす。電気が通らず水もでない。おまけに外に見える東京湾では火があがっている(のちにこれがコスモだとしる)ただごとじゃないんだ。
そして夜勤はみんな床に雑魚寝してもらったあせる寒かっただろう。時折ある余震のたびに利用者の安全を確保する.
なんとか夜勤を終えて朝いえに向かう.やっぱり道路はがたがただ。帰るとちみがいた.電車が動いてなかったらしい。そしてテレビにうつるガレキの映像。
津波そんなにひどかったのかこれがほんとの映像か.
地元は大丈夫か銚子は?香取市は?神栖は?旭は?途端に現状がわからなくなる。
そして余震。ガスも水も使えない.浦安は液状化でライフラインが途切れているという現状がわかってきた。
でもわたしは生きている今までのなやみなんてちっぽけになった.いまできる生きるを精一杯生きなきゃと思った。

そこから2週間友達や彼氏にお世話になって銭湯にもかよった,ライフラインは下水道が一番時間がかかるらしい我が家は昨日から全部普通の生活になったけれどまだまだ浦安には復帰してないところたくさんある.

約2週間施設の利用者は雑魚寝でプライバシーなんてほとんどない状態で過ごしていただいていた.ほんとにわたしは働くことしかできなかった。心のケアなんて話をきくくらいしか出来なかった


実家の香取市は瓦がたくさん落ちていた。おうちが半壊してしまったところもある.神栖の通りもおくのほうは津波がきたそうだ
家族でごはんのあの通りが.


水がどれだけ大切なものかどれだけたくさん使っていたか学んだ
自然からの恩恵はすごいのだ


まだ東北をはじめ多くのかたを思うと普通の生活に戻っていいのかなと思う

節電といわれながら夜は怖くてまだテレビをつけたままでないと眠れない。

お金というかたちでしか支援できなくていいのかというおもい


だけど通勤途中の寿司屋に
「がんばろう浦安」
ってかいてあるのを見た

生まれ育った街ではないけれど社会人としての一歩を歩んでくれていた街.
まだまだ復興に時間はかかるけどがんばろうって思う
このまちには夢の国があるのを忘れていた。東京ディズニーリゾートを早く開園してほしいって人がいるのは確か。でもこの街はあとちょっと復興に時間がいる.

経済も大事だしそこに住んでいる人達の生活も忘れないでほしい.

天災には勝てないけど歩み寄ることはできる

まとまりのない文書になってしまったけど、地元の香取市も浦安も両方大好き.私はこの街から復興にむけてがんばっていこうと思う

そして至るところに地震の爪痕があるけれどあえて私は写真には残さず心にしまっておこうと思う。