自分のルール | 光の記憶 魂の記憶 まさよのブログ

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不思議なこと、光のこと、愛のこと 神さま綴り 

 


娘を見ていていつも思います。

あー疲れるだろうな、疲れる生き方だなぁと。

例えば 身体の不自由方専用の駐車場に 健康な人が平気で

停めているのをみると「信じられない どうしたらそういう事が出来るの

だろう」と 一人でプリプリ怒っています。

若いお母さんが 補助輪付きの自転車に乗った4歳くらいの男の子に 

赤信号なのに渡らせているのをみて「どうして幼い子を赤信号で

渡らせるのだろう、大人は子どもに正しい事を教えなければ

いけないのに」と また一人でプリプリ。

わたしはその都度、そんな事でがいちいち腹を立てていたら

自分の身が持たないよ。

自分のルールと人のルールは違うのだから 

その人は自分のルールの中でOKなんだよと諭します。


先日娘は 大学の友人たち数人で高速バスでディズニーランドに

行ってきました。

仙台の大学は9月まで夏休みなので、バスの乗客の殆どが学生だった

らしく娘は帰って来てから 「お母さんショックな事があったんだ。」

と言いました。

「”運転手さんに有難うございます” とか ”お世話になります”って

誰も言わないんだよ。 友達も誰もだよ、皆とっても良い子なのに」

と少しカルチャーショックのようでした。

「長い時間運転してくれるのに、”お世話になります”お疲れ様でした”

”有難うございます”って、普通言うよね?」 と言います。


わたしもバスなどに乗る時は 「お世話になります」 

降りる時は 「ありがとうございました」 と必ず言いますが、でも

わたしが言いたいから言っているだけで、それを当たり前だとは

思ってはいません。

人は誰かに感謝する時 本当に有難いと思うから自然に

「ありがとうございます」って言葉が出てくるものだと思います。

それはもちろん強要したらいけないし、何より感謝をする事は

そういう事だと思うのです。

人に感謝の言葉を述べる時は 「そうしなければ」 ではなく

人は有難いと思うから 言うのだからと娘に話して聞かせました。

見た目も中高校生にしか見えない 二十歳にしては幼い娘ですが

実を言うとわたしも若い頃はそうでした。 

一人で勝手に自分の正義を振りかざして、自分が正しいとプリプリ

怒っていました。
 
でもある日気付くのです。 

自分のルールを誰かに当て嵌めて、関係ないことで腹を立てる事が 

とても疲れる事に。 

いいんです。 自分のルールは自分のルール。 

相手のルールは 相手のルールなのですから。

そんなに自分を窮屈にしなくてもね良いのです。







今日は東京から sakuraさんが来て下さいました。 

神聖曼荼羅レイキを伝授させて頂いて、帰りの新幹線まで

少し時間があったので、塩竃に行って塩竃神社と御釜神社に行って

来ました。 

おかげさまで 初めて御釜を見ることが出来ました。

「お正月でなければ見れないのかなぁ」と呟いたら sakuraさんが

立て札を見つけて、「まさよさん社務所に言えば見せてくれるみたい」と。

社務所に声を掛けたら 一人100円でみせて下さり御釜の言い伝え

や歴史まで教えて下さいました。

御釜神社のお釜は 大雨や日照りでも溢れる事も水が枯れる事もない

不思議な御釜で、吉兆 凶兆の前触れには、お釜の水の色が変わる

のだそうです。

司馬遼太郎の「街道を行く」でも紹介されたので、とても小さいですが

ちょっと有名な神社です。





                    

前回のブログに載せた定義如来西方寺の布袋さんは

大阪の 舞羽さんと一緒に定義山に行った時に写した布袋さんです。 

左手に ほわっと温かくそして後からじんじんするように感じる

エネルギーにしていました。

何も言っていなかったのに、皆さんが同じように感じて下さっていて

びっくりしました。 

紙出しや パソコン タブレットでも大丈夫みたいですが、携帯だと

どうも分かり難いみたいです。
                   
皆様の今日も 無事にお元気でお過ごし下さればと思います。

「どうぞ今日も良い日とされて下さいませ」

ありがとうございます。