「今週中に合格率80%の高校を一つ入れて志望校リストを出し直しなさい、と学校から言われちゃいまして」などなど、書文協専修学院の保護者から受験の悩みを多く聞かされるシーズンとなりました。「私立中学を受けさせるので、書道はこれでやめます」という困った申し出も少なくありません。受験体制から外れた書写書道に寒い木枯らしが吹きつける季節です。

 

 

 受験の大切さを否定するものではありません。優勝劣敗の厳しさから目をそむけさせるのが正しい、とは思いません。ただ、試験でせめぎ合って、その先に何があるの?という子供たちの疑問に答えてあげない教育を延々と続けていてはだめだと思います。教育を受けることで人が幸せにならないのではウソです。国力の維持増進のために教育があるという考えは、昔の富国強兵の考えそのものですが、文教政策を担当する政治家や官僚は、ともすればこうした考えに陥りがちです。手ごたえを得やすいですから。

 

 

 「進学指導はあっても進路指導がないのです」と悩みを語ってくれたのは、記者時代親しくしていた文部省初等中等教育局のある課長でした。「それをやるのがあんたの部署じゃないの」と言うと「笛吹いても学校現場は踊らないんですよ」と彼は言いました。文科省の肩を持つわけではありませんが、国民の湧き上がる欲望(欲求)はどうにもコントロールしにくいのですね。

 

 

 確かに、今の学校を見ていると進路指導などやっている余裕がないように見えます。偏差値、内申で振り分けるのに手いっぱい。「先生は信用できない」と子供たちが言いだす始末。どう応えるか、なかなか答えは見つかりません。進路指導とはつまり、突き詰めればいかに生きるか、ということですから。

 深く生きることとリンクした書写書道の学びでありたい、とは思っています。