前の記事で書いたように、6月にボランティアに入った所は既に重機が入り、安全が確認された場所での作業を行いました。


ボランティア担当の方は、この場所だけを見て帰ってしまえば、なんとかなりそうだと思ってしまう。まだ手のつけられない場所を見て、これで終わりではなくまだまだこれからの場所があることを知ってほしいと仰っていました。なのでボランティアを終えた一行は東松島市を離れ、石巻港や大曲地区へバスで向かいました。



石巻港をバスで通ると、鉄骨で出来ているはずの市場がボロボロ。
かろうじて道路は通れるようになってはいるけれど、まだまだ手付かずの壊れた家や瓦礫がたくさん散乱しています。


大きな川が地盤沈下で水面が上がり、すぐにでも増水しそうな様子。

見慣れた牛角がめちゃくちゃで、泥まみれの半壊。

校庭の様な場所にずらりと並んだ土葬の墓標。



そして、大曲地区。

公民館の背の高い時計は、津波が到達した時間で止まっていました。
公民館から海側を見た景色は、波が全てさらっていき、何も無かった。
テレビで見た景色。
ただただ瓦礫が横たわり、海が見えないのに大きな船があるという不自然さ。
大事故でも起きたかのようなズタボロのトラック。強力な引き潮で、海の方に傾いた電柱。


どれほどの威力だったのか…目の前に広がる世界は、想像を絶するものでした。


大曲の公民館には沢山の方が非難していて、ここでは危険だと、そこより少し遠くの小学校に避難する途中で津波にさらわれ、亡くなられた方も沢山いらっしゃったそうです。


家やトラックをあんなにしてしまう自然の力を目の前に、どれほど怖かったのだろうと思い、本当に悲しくなりました。



7月10日の新聞を見ると、まだ手付かずの瓦礫が6割あると書いてありました。


震災から4ヶ月経ちましたが、まだまだボランティアの手が必要です。


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市で募集していた、宮城県の東松島市へのボランティアのバスパックに父と娘で参加してきました。


6月3日の夜に出発し、現地に4日の朝到着し、夕方に出発するという短い日程でした。

この日の参加人数は大人12人。20~70代くらいまでの男女。やれたことはほんの僅かでした。
曖昧な部分などもあるとは思いますが、現地で行った仕事や見てきたことなどをお伝えしたいと思います。


夜山梨を出発し、辺りが明るくなってきた頃、窓に目を向けるとすでにブルーシートのかかった屋根が見え始めていました。
そこから現地まで更に3時間ほど走りますが、そういった光景はずっと続き、改めて東日本大震災の被害の大きさを感じました。


しばらくして仙台を通りかかったころ、高速道路からすぐ傍の田んぼに瓦礫やたくさんの車が流れ着いた跡があり、TVで見た現実を目の当たりにしました。
海岸からは何キロも離れているであろう場所。ここでも多くの方が亡くなったそうで、胸が痛みました。


陸前赤井駅のすぐ近くのボランティアセンターに到着し、バスの外に出るとヘドロから発せられる、ツーンと鼻を突く強いにおいがして、ついに来たんだと、気が引き締まりました。


12人で依頼のあった家庭へ歩いて向かうと、デコボコの道路、一階部分が完全に潰れたアパート、ヘドロが流れる側溝、傾いだ家、支柱が埋まって斜めになった校庭の大きなフェンス、錆びた自転車、塩害で茶色くなった木、電車の来ない線路…
始めて見る光景ばかりでした。

津波だけでなく、大地震の爪跡の残る街。

そんな中、グラウンドで小中学生が野球やサッカーをしていました。
このようなことが出来るようになって、少しずつでも元気になっているのだと思い、ホッとした瞬間でした。


一件目は津波の力で斜めになった木を真っ直ぐに治したり、塩害でやられてしまった木の根を取り去るなど、比較的時間のかからない仕事でした。
依頼者さんはとても喜んでくれて、来て良かったと思えました。


二件目は、すでに一階の床を全て外して基礎が見える状態になっているお宅でした。

海岸からは3キロ程離れた場所だそうですが、津波が襲ってきたときは胸の高さまで海水がつかってしまったそうです。

基礎の部分にたまったヘドロを取り去る作業を行うのに、ヘドロをかき集めてバケツリレーで運び、ある程度無くなってから水を流して、その水をちりとりですくって捨てて……その繰り返しの作業です。

私は1.5畳程の範囲を担当し、そこで大人三人が格闘し、やっとのことで終わらせることができ、午前中が終わりました。


午後は同じお宅の畑の一面に流れて来たヘドロを土嚢袋に詰めて運ぶ作業。依頼者の夫婦とボランティアで汗だくになりながら行います。


これも繰り返しの力仕事で、土嚢袋が山積みになりました。


出来る限り頑張ったのですが、それでも全てを終わらすことは出来ませんでした。

帰る間際、ご主人からお礼の言葉をいただきました。その中で

「もしあなたたちに何かあったら次は私たちが。」

とおっしゃいました。こんな状況に置かれていて他人の事を思いやれるのかと、本当に頭が下がります。

ふと、CMで言っていた『日本は強い国』というフレーズを思い出して、なんだか日本はまだまだ大丈夫なような気がしてしまいました。

最後は私たちが見えなくなるまで見送ってくださいました。


正直、大人12人でたったこれしか出来なかった。そんな思いでした。
一体あとどれ程の人たちが人の手を必要としているのだろうか。
それを思うと果てしなく、終わりが見えない思いです。



でも人が集まって、こうして毎日毎日少しずつでも進めて行けば、時間はかかってもいつか終わりは来るんだと思いました。
今回やれたことは本当に僅かなものでしたが、人の力の大きさをこんなにも感じたのは始めてでした。


もっと被害が大きく、まだ人の手が入れない場所も見て来ましたので、次の記事で続きを書こうと思います。




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会津若松•喜多方に復興支援の一環として行ってきました。

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東北道は、郡山に入る位から屋根にブルーシートが掛けられた家が目立ち始め、震災は広範囲に渡っていたんだと改めて思い知らされました。


案の定、会津の観光地は閑古鳥が鳴いている状態で、ゴールデンウイーク後ということもあり、土産物店のおばちゃん達も、眉を曇らせ『暇だよー』の一言。


それでも会津若松はいつもと変わらず元気でした。


鶴ヶ城は、リニューアルでとても綺麗になりました。


喜多方ラーメンも相変わらず激ウマ!
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大内宿では屋根の葺き替え作業も見られてラッキーでした。
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皆さん、会津は大丈夫。
初夏のキラキラした会津にこぞって行きましょう!!

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