徳川2代目将軍・秀忠は、恐妻家で有名でしたが、一度だけ
侍女相手に浮気をしてしまいます。その侍女が身籠ったせい
もあって、浮気は妻のお江にバレてしまうのでした。
しかしお江は、夫のことは戒めるのですが、「やや子には罪が
ありません」と言って、彼女が養育費を出し、育てたのでした。
この子が、保科正之です。
お江と秀忠の間には、後に3代目将軍となる家光が、おりまし
た。異母兄弟に当たる関係ですが、兄の家光は隠し子になる
はずだったこの異母弟を気に入るのです。
徳川家光といえば、しばらく男色一本槍で乳母の春日局があの
手この手で女にも興味を持たせるように工夫を凝らしたことで
有名です。なのでこの保科正之も好みの美少年だったのかと考
えがちですが、そうではなく、聡明で性格もいたって良かったと
いうことだそうです。
3代目将軍の座についた家光は1632(寛永9)年、正之を将軍
の弟だと公表し、1636(寛永13)年には出羽・山形20万石に
取り立てるのでした。
さらに家光はその後、正之を幕政に参加させます。1643(寛永
20)年には3万石を加算し、奥羽の要塞であります会津23万石
に転封して徳川御三家に次ぐ家格を与えるのでした。
1651(慶安4)年に家光はこの世を去りますが、遺言には「正之
を家綱の後見人にするように」との文言が含まれていました。4
代目将軍となる家綱はまだ、11歳。後見人は重要な仕事でした。
それから21年、没するまで保科正之はほぼ江戸で過ごし、善政
の数々を敷くのです。
最初の抜擢はともかく、その後全く失脚することなく重職に就いて
いられたのは、単なるコネでなく人柄も能力も認められていなくて
は無理です。血のつながりのないお江の養育も、良かったのかも
しれません。