子供の頃は「好きなことをやればいい」と言われると、あまり迷わずに何かかしら夢を描けたものだが、大人になって現実を知った上で、好きなことをやろうと考えた時、よく「自分探し」と称して道に迷ってしまう。
やりがいとか充実感が無くても、せめて好きなことや得意なことをやって食っていけるなら、それはそれで幸せの土台になるだろうと、ひたすら情報を集めたり過去の人生を振り返ったりするのだが、長い間「何でも受け入れなければ成長できない」という考え方で生きていたせいか、好き嫌いの感性が鈍って何が何だかわからなくなっている感じがする。
というか、そもそも「自分の好きなこと」は探して見つかるものではないことに気付き始めているような感覚だ。
結局は、過去の人生で、「気付けば夢中になっていたこと」が「好き」なことであり「得意」なことにもつながっている。
そんな単純なことに気付かずに自分探しをしていたのだが、一日が終わった時に、もどかしい虚しい気持ちを感じてしまうと、つい焦って余計な概念を持ち込んでしまう。
でも逆に、過呼吸になるくらいの苦しみがあった方がありがたいとも思う。
喜怒哀楽を感じられず、理屈だけで自分の人生を設計し、他人の人生を批評するよりは、自分が実感として得た気付きに信念を持って生きた方が幸せだし、成長できる気がする。
極端に苦しむとヘコむが、その分極端に楽しめることが見えてくることもある。
苦しみをネガティブにとらえてしまうと何も学びにならない。
他人の揚げ足をとるのは自分が不幸だからで、おそらく幸せな人は自分の人生を大切に生きているから、他人の言動も素直に教訓として見れるのかもしれない。
自分の嫌いな一面に腹を立てていると、他人の同様な一面にも腹を立ててしまうものだし。
いつかは寿命が尽きるのだからというネガティブな発想からではあるが、そこから恐怖心を捨てて前向きに努力できることはまだまだあるような気がする。