子供の頃は「好きなことをやればいい」と言われると、あまり迷わずに何かかしら夢を描けたものだが、大人になって現実を知った上で、好きなことをやろうと考えた時、よく「自分探し」と称して道に迷ってしまう。

やりがいとか充実感が無くても、せめて好きなことや得意なことをやって食っていけるなら、それはそれで幸せの土台になるだろうと、ひたすら情報を集めたり過去の人生を振り返ったりするのだが、長い間「何でも受け入れなければ成長できない」という考え方で生きていたせいか、好き嫌いの感性が鈍って何が何だかわからなくなっている感じがする。

というか、そもそも「自分の好きなこと」は探して見つかるものではないことに気付き始めているような感覚だ。


結局は、過去の人生で、「気付けば夢中になっていたこと」が「好き」なことであり「得意」なことにもつながっている。


そんな単純なことに気付かずに自分探しをしていたのだが、一日が終わった時に、もどかしい虚しい気持ちを感じてしまうと、つい焦って余計な概念を持ち込んでしまう。

でも逆に、過呼吸になるくらいの苦しみがあった方がありがたいとも思う。

喜怒哀楽を感じられず、理屈だけで自分の人生を設計し、他人の人生を批評するよりは、自分が実感として得た気付きに信念を持って生きた方が幸せだし、成長できる気がする。

極端に苦しむとヘコむが、その分極端に楽しめることが見えてくることもある。


苦しみをネガティブにとらえてしまうと何も学びにならない。

他人の揚げ足をとるのは自分が不幸だからで、おそらく幸せな人は自分の人生を大切に生きているから、他人の言動も素直に教訓として見れるのかもしれない。

自分の嫌いな一面に腹を立てていると、他人の同様な一面にも腹を立ててしまうものだし。


いつかは寿命が尽きるのだからというネガティブな発想からではあるが、そこから恐怖心を捨てて前向きに努力できることはまだまだあるような気がする。

不景気意識が強くなって極端に消費が落ち込んでしまうのか。


やっぱテレビのあり方次第で多少なりとも世の中がとらえるべき視点は変わるでしょ。


それくらい幅広い影響力持ってるのに、呆れ果てるような報道しかしないのは何でかな。



ただでさえ落ち込んでいる遺族の実家に大勢で押しかけたり、雇用問題もありのままの事実だけ伝えればいいものを、わざわざ野次馬集めて無駄な批判討論して、国民の不安をあおるようなことばかりしてさ。


今さらそんな汚いやり方で注目集めようとしたって、新聞雑誌やテレビ離れも進んでいくわけだし、ネットで必要最低限の情報さえ得られれば、余計な各々の先入観なんか必要なくなるからね。

マスコミの表現を真に受けるような人も減るでしょ。


まぁ、その代わり掲示板で悪口に奮起する奴らは規制する必要があるけど、何とかしてくれよ!って言ったところで国は聞く耳持たないし、期待通りのことはやってくれないわけで・・。


薬のネット販売を規制するとかあんなのはただ迷惑なだけで、そもそもその前に優先的に解決すべきネット問題は他にあるし。


だからもうそういうもんだと思って、マスコミに踊らされず、政治に頼らず、できる限り自己責任で社会の善悪を見ていった方がかしこいし、ネットではその選択が自由にできるのだから、その辺の可能性は追求していくべきだよね。
不安や恐怖を感じる時は「希望」を持っていることの裏返しだと思うようにしている。


逆に、希望が無ければ不安や恐怖も感じず、投げやりな状態になる。


まぁよく言われることかもしれないけど。



本当に絶望的な時は涙が流れるどころか、感情が一切表に出なくなる。


無気力というか、心の空洞化状態。



じゃあそういう状態になったら、人間としてもう終わりかというと、そうでもない。


すぐ感情的になって不安や恐怖に怯えていた人が、絶望的な感覚を味わうことで、無意識に発想が転換されて、開き直りの理性だけで行動できるようになることもある。



当然、絶望的な経験はしない方がいいけど、絶望的な状況になっても、その苦しさから得た気付きを大切にしていれば、プラスに働くことはある。


マイナスを無理にプラスに戻そうとするのではなく、マイナスにマイナスを加えるぐらいの気持ちで、開き直ることは必要だと思う。