このブログは正直、読んでいて楽しいことは全くありません。
同じ経験や思いをされた二世の方は当時のことを思い出し、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが申し訳ないです。

そのことを踏まえた上で読んでいただければと思います。


今後、内容的に一般公開すべきでないことは限定記事にしますのでよろしくお願いします。









子供の頃の父親の顔と言えばしかめ面しか記憶がありません。
いつも鬼のような顔をしていました。

今考えると父もまた精神不安定状態だったのかもしれません。
証人を離れてからは家族で暮らすことは出来ませんでしたし、どうしようもなく実家に住んでも結局喧嘩別れして終わり、の繰り返しでした。
酷い時には罵られ、顔面に唾を吐きかけられたこともあります。
私は父親を殺してやりたいとさえ思ったことがあります。


叔父や叔母に当時、家に帰りづらいなどの話しをしてもどうして兄弟全員そう感じるのか、根底は理解が中々出来なかったようでした。

私も、同じ立場の人にしか私たちの気持ちは絶対に分からないだろうと思っていましたし。


自分たちの努力が足りずに低所得は相変わらずでしたが、それでも長男と私は何とか漂流しながらも生きてました。




二男は兄弟の中で最後まで証人を続けました。

高校を卒業し、割といい所に就職して3年くらいは働いていたと思います。
祖父や祖母にも給料から旅行をプレゼントしたりと祖父母にとっては一番の自慢の孫でした。

証人の中でも将来を期待されていたようで、両親にとっても唯一自慢できる子供でした。
もっとも、私はもうその時期には離れていますので叔母から聞いた母親談ですが。

色んなことが狂い始めたの就職した会社を辞めてからだと思います。
辞めた直接の理由は「役職がつき仕事が忙しくなったことと、人の上に立って指導したりすることが苦痛だった」と後になって聞きましたが、実際のところは本人にしか分かりません。

やはり一般の会社で働いていると集会に行くためにはかなりの無理が必要になります。
元々おとなしく、人前で発言することも苦手な二男は証人の世界でも、どちらの世界でも生きづらかっただろうと思います。


会社を辞めてからは夜中にスーパーなどに食品を配送するアルバイトをしながら、しばらくは証人の活動を続けていました。
証人の人たちは精神を病む人が多いそうですが、二男も例外なくそうなりました。

多分発病したのは今から20年近く前だと思います。

自然と集会や奉仕に行かなくなり、消滅しましたが突然性格が変わったかのように気が大きくなり「東京へ行って成功者になる」などと訳が分からないことを言い始めましたが、当時は誰も病気だなんて疑いもしませんでした。
今思えばあの時に誰か一人でも気付いて治療を受けさせていればこんなに長期間苦しむこともなく、完治していたかもしれないと後悔だらけです。

大反対者である母の弟も、若いころ精神を病んだことがありましたが、家族がすぐに気付き初期の段階で適切な治療を受けたおかげで、現在でも警察官として頑張っています。
定年まで仕事を全うできると思います。

それからは二男も病気による問題行動を繰り返しました。
家族以外の親戚中に電話しては脅したり暴言を吐いたり。
された方は本当に恐怖に感じていたようです。
自力で他県に行っては行政機関で問題行動を繰り返し何度も警察沙汰を起こしたそうです。
地元の刑事さんが初めて「これは典型的な統合失調症の症状だからすぐに病院に連れて行くように」とアドバイスをくれたそうです。

問題を起こし、その度に両親の住む地域の警察署に送られては病院に入り、症状が収まって自由になるとまた同じことを繰り返すだけです。
現在は躁鬱病と診断されているようですが、本人に自覚がなく治す意思もないのか、保護士の方を追い帰し薬も飲まなかったりの状況のようです。
母親が言っている話しなのでそれが事実かどうかは分かりません。

両親は「無理矢理病院に引きずっていくことは出来ないから」などと言っていますが、私は違うのではないかと疑いを持ち始めました。

証人の中では精神医療従事者や精神保健の治療者一般に対して批判的考えが非常に大きいらしく、典型的なエホバの証人は、精神科医や心理学者に相談するのは全く馬鹿げたことであるとか、ひどく悪いことだと信じているらしいと言うことを最近になってようやく知りました。
心配ではあるものの、自分の生活もあり正直言って何もしてあげられることがないのが現状、両親に任せていても適切な治療すら受けさせていないのではないかと気がかりです。


おそらく発症して初期の段階だったと思うのですが、当時二男が派遣会社でバイトながら社員と同等の様な仕事(派遣されている子の送り迎えをしたり)をしていた時期があり、どうしても人がいないので手伝ってもらえないかと頼まれ、私もその会社の派遣でパチンコ店でバイトしたことがありました。
その時の所長に「お前の兄さんちょっとおかしいんじゃないか、全然寝てないみたいだし顔つきや目つきに恐怖を感じるときがある」と言われたのです。
実際に私も二男が派遣先に迎えにきたことがあったのですが、終了時刻になっても二男が来なかったため、派遣先の数メートルしか離れていないお店で時間を潰していたら、いるべき場所にいなかったと言うだけで怒られ、田舎で交通機関も1時間に1本しかないような場所で平然と車を降ろされました。
当時まだ20歳前ぐらいだった私は、自分の精神も幼かったこともあり、何故兄がそこまで怒るのか、どうしてこんな所に平気で放り出すのか理解も出来ず、ただ家に帰るバスと電車の中で泣きながら帰るだけでした。
その時に私が気付いて、両親ではなく親戚に相談でもしていれば現在とは違う状況があるのかもしれないと後悔ばかりです。

後悔しても決してその時に戻ることは出来ないのだから無駄だと頭では分かっていても、どうしても後悔せずにはいられないのです。



最後まで二男の心配を続けた母方の祖父も2年半前に88歳で亡くなりました。
祖父は「宗教をしていなければ病気になることはなかった」と亡くなるまでずっと言っていました。


そして、エホバの証人の独自の思想によって現在も、あるいは発病してからずっと適切な治療を受けさせていないのであれば私は一体どうするべきなのか非常に悩んでいます。


















私は元から証人の教えを信じることが出来ず、親のためにやっていたようなものなので、中学2年生ころになると宗教が嫌で嫌でたまりませんでした。


うちの地区の中学校は文系の部活がなく、体育系しかなかったのですが、学年250名くらいいるうち、部活に入らないのは10人いるかいないかです。
入学して時間が経ってくると部活を辞めるものも出てきて、帰宅部仲間が増えてくるわけですが、初めから部活に入らないものははっきり言って変人です。

私も同級生から不思議がられました。
そして私以外の兄弟も、学生のころに部活動をさせてもらえなかったことをずっと大人になってからも口にしていました。
自分はどうしても部活に入りたかったのに宗教のせいで許してもらえなかった、と。
女子より男子の方が悩みは深刻だっただろうと思います。

私の記憶と認識では、剣道や柔道以外のスポーツそのものがダメなのではなく、部活動をすることによって休みの日は遠征に出たり、平日の集会に間に合わなかったり、土曜日の昼も練習があるために奉仕など証人の活動の妨げになるからダメだったのだろうと思っています。



集会へは自然と行かなくなりました。
集会の日にはわざと遅く帰り、家族が集会に行っている間にこっそり家に帰っていました。
帰ってきて何を言われるか、何をされるのか怖かったです。

正直言って集会へ行かなくなった頃からの中学時代の記憶がほとんど自分の中でないのです。
無意識のうちに記憶から除外してしまってるのかもしれません。

覚えていることは、家に帰ると父親が待ち構えていて、持ち物検査から説教が延々と何時間も続くことだけです。
家に帰ると鞄の中身をすべてチェックされ、同級生からの手紙、交換日記、すべて捨てられました。

世の人と関わるから娘がこんなにおかしくなるんだ、と思ったんでしょうね。

その時の父親のしつこさ、執念はすごかったです。


長男と同じく私も非行に走りましたが、タバコを隠すのに必死でした。
家の塀の隙間に隠してみたり。
それでも見つかりました。
そのうち家からずいぶんと離れたところに隠し場所を見つけてそこに隠すようになりました。

そしてタバコを買う金欲しさに悪さもしました。
今考えると本当にそれは申し訳なく、反省もしています。

私は長男のように排斥の処分は受けていません。
長男の時は初めてのことでどう対処していいか分からず馬鹿正直に報告しましたが、その後の兄弟は誰一人排斥されていません。


私は中学卒業と同時に親元を逃げ出しました。
母の弟が警察官をしており、県内の移動に便利なように県央である隣の市に住んでいて、子供もいなかったのでそちらに住まわせてもらいながら高校に通い始めました。
本当は中学卒業と同時に美容学校に入りたかったのですが、もちろん認められるわけもなく、そんなお金もあるわけもなく。

私はただ甘えていただけだけです。
叔父と、叔父の奥さんには迷惑をかけすぎました。
当時叔父の奥さんは今の私と同じぐらいの年齢だったのですが、今の私に同じことが出来るか、と思うと出来ません。
自分とは血のつながりもない他人の子供をそこまで面倒見れません。

子供で、甘えていた私はそれすらも分からず、問題ばかり起こし、結局叔父の家からも出ていくことになり、実家に戻りました。
しばらくは電車で1時間半ほどかけて高校に通っていたのですがすぐに続かなくなりました。

盗みを繰り返し、人様に迷惑をかけてばかりでした。
そして2年生の夏に高校をやめました。
公立の高校に受からなければ自分の人生のすべて終わると思っていた高校をです。

その後は年齢18歳、学歴を高校卒業と偽ってパチンコ店やいろんなところで働きましたが、住むところには本当に困りました。
遊び仲間の友達の家を転々としながらバイトに通う生活をしていましたが、いつまでも友達も付き合ってはくれません。
その当時の友達にも本当に迷惑をかけました。

結局行き着いた先は住むところを持っている男の人に依存することでした。
19歳、20歳の頃からずっと当時付き合っていた人と一緒に暮らしてました。
男の人を選ぶ基準が一人暮らしであること、でした。


そのような生活を7、8年続けて当時一緒に暮らしていた男性の転勤についてまわって転々としました。
そして今の福岡県で旦那と出会いました。

私は親類もいない一人ぼっちの人としか結婚も出来ないだろうから、一生結婚は無理かもしれないなとどこかであきらめてました。
結婚となると相手の家族や親せきも関わってくることです。
エホバの証人の子供となんて普通の考えを持っている家族なら許してくれるはずがないからです。
それまで誰にも親の宗教のことは話したことがなかったのですが、結婚したいと言ってくれた旦那に初めて自分の口で話しました。
びっくりしていましたが、旦那も、お義母さんも認めてくれて5年前に結婚しました。
子供はいません。
子供を作ることに恐怖があります。
自分がまともに育てられる自信もなく、同じことを子供にするのではという思いがどこかにあるからです。




















中学生頃になるとそれぞれ自我に目覚め、証人の教えよりも世の人たちとの交わりの方に楽しみを見出し始めます。

両親は私たちの育て方を誤ったのでしょう。
32年も熱心に教えを信じ続け、人一倍厳しく子供たちへエホバの証人の教えを叩き込んだのに、振り返ってみれば誰一人残っていませんでした。
二男は分かりませんが、少なくともほかの3人の兄弟はエホバの証人の教えを一度も信じたことがないのではないかと思います。
もちろんハルマゲドンに対する恐れの気持ちは多少ありましたが。


長男は中学に上がったころから両親に反抗的な態度をとるようになり、家に寄り付かなくなり、世間で言う非行少年グループに属し徘徊するようになりました。

あせった父親は長男を探し回っては引きずり戻し、また逃げ出すの繰り返しです。
少年グループといる所を父親から引き離され連れ戻されるのですから、仲間うちでの長男の立場も辛かったのではと思うのですが、幸い長男にとっては世の人の友人の方が温かかったようです。

長男はそれからもずっと中学時代このような生活を続けていました。
そんな中でも兄弟の中で一番学力の低かった長男を心配し、街中で塾を開いていた(対象はエホバの証人の子供だけでしたが)証人の兄弟の塾に毎週抵抗する長男を連れて行っていました。
それすらも逃げ出して警察のやっかいになるなどを繰り返していましたが。

私たち兄弟は、金銭的な問題もあり、公立高校に合格しなければ高校にすら行けないという恐怖がずっとありました。
大げさな、夜間の定時制高校でも通えばいいではないかと思うかもしれませんが、その頃の私にとっては公立高校の受験に失敗したときには自分の人生のすべてが終わると思ってました。

今思えば父親も矛盾しています。
その時の父親の心境を確認したいぐらいです。

高等教育は必要ない。
しかし現代に生きる上でせめて高校だけは出ておかなければいけない、金銭的余裕がないために公立に受かってもらわないと困るから、と証人の兄弟が開いている塾に送り迎えするのですから。


そのような父親の努力の成果か、長男は無事公立高校に合格して通い始めます。
しかしすぐに問題を起こします。

校内での喫煙が発覚し、謹慎処分を受けたのです。

証人である両親にとってはただの喫煙ではなく大問題です。
今はどうか分かりませんが、当時は排斥に当たる重大な罪だったからです。

最初の子供、初めての問題であったために対処に悩んだ父親は馬鹿正直に会衆の長老たちに報告したそうです。
長男に悔い改める意思がないことも。

そのため長男は排斥処分を受け15歳にして親元を離れることになります。
何故そのような極端なことをしたのか、私が大人になって消滅してからもしばらく理解できずに悩みましたが、排斥されたものはたとえ親兄弟でも必要以上の接触は避けないといけないのですね。
なんという教えなのでしょうか。
これが愛にあふれる宗教なのでしょうか。


会衆で長男の排斥処分が発表される集会の日、私たち他の兄弟は(確か母も)集会を休むように父から言われ、父一人で出席しました。
その場で父は泣いたそうです。


結果、長男は父が探してきた東海地方の住込みの自動車部品工場で働くことになります。
驚くことに、出発の日、その土地まで父が一人で送り届けました。
どんな神経なんでしょうか。
我が長男です。
まだ大人になりきれてもいない子供を一人見知らぬ土地に置き去りにすることに対し、その時宗教への疑問を感じない時点でもうすでに重度のマインドコントロール状態であることは間違いありません。










つづく







両親がエホバの証人になったのは私たち兄弟4人がまだ子供のころですから、私たちは当然反抗したり自分の意思を示せる年ではありません。

その年の子供は親がすべてです。

何をしているのか自分たちには理解できなくても当然のように親と一緒に集会や奉仕に行っていました。




小学生のころは本当に嫌な思い出がたくさんあります。


JW二世の方は必ず通る道だと思います。


小学校の七夕集会では全校生徒体育館で行事をしている中、証人の子供たちだけが体育館の外に椅子をならべて終わるのを待っていました。

うちの両親は信仰に反するために出来ないことを、子供たち自ら担任へ伝えることを望みました。
小学4年生くらいの七夕集会では、私はどうしても担任に自分から伝えることが出来ず、ほかの生徒と同じように体育館の中で行事に参加しました。

証人のほかの子供たちからは白い目で見られ、当然親に報告され大問題になりました。
今思えば他の子供たち同士が見張り合っているスパイのようです。


友達の誕生日会に呼ばれ、行きたいと伝えましたがもちろん行かせてもらえるわけもなく、そのころは団地に住んでいたのですが団地の5階から、お友達がみんなで歩いてお友達の家へ向かっているのが見えるのです。
それをうらやましく見ていました。

それ以外でも信仰上の理由で出来ないことは当然数え切れないほどあり、全校集会の朝礼の際、校旗が掲げられた前では起立出来ず1人座ったままだったこと。
校歌、国家斉唱、その場面での起立さえもできないこと。
同級生からの好奇の目にさらされました。

証人の家庭はほとんどが経済的に困窮した家庭が多く、うちも当然そうでした。
収入の少ない家庭には集団予防接種や、その他お金のかかることを免除される制度があったのでしょうか?
いつも印鑑の押された空の封筒を持っているのが恥ずかしく必死に隠したものです。
母子家庭ならともかく、なんで両親揃った家庭なのに貧乏なんだと思われるんじゃないかと。
友達に親や自分たちがエホバの証人であることを知られたくないと思いましたが、今思えば友達は皆知っていたはずです。
その親たちは噂話で「○○ちゃんところは変な宗教してるみたいよ」と話していたはずですから。


その当時、うちの学区には団地が多かったのですが、奉仕に行けば友達に見つかります。
団地の上の階から「yukaちゃーん、何してるのー?」とクラスメートに声をかけられました。
恥ずかしくて恥ずかしくて、見られたくなくて隠れたりするとまた親に怒られます。

小学生時代、父親と一緒に奉仕で回っていたときのこと、同じ学年の女子の家にあたりました。
その子には年の離れたお兄さんがいて、父がいつものように話を始めると「気持ち悪いんだよ!帰れ!くそ親父!」と罵られ、私と同じ年の女子は玄関の奥でにやにやしながら私たち親子のことを見ていました。
被害妄想かもしれませんが、私にはそう見えたし、自分の父親が息子ぐらいの年の人にそのような暴言を吐かれるのを聞くのはショックでもありました。


兄弟のうち、長男次男私は確か12歳ころに皆バプテスマを受けました。
両親は誇らしそうでした。
当の私は、何も分からないままに親が喜ぶからとそれぐらいの気持ちでした。







今では少なくなったようですが、当時は集会の時におとなしくできない子供がいると、小さい部屋がありそこで鞭を打たれました。
子供の鳴き声が会場中に響きます。
いつもそこで叩いていたのは、奥さんだけが証人で旦那さんに迫害されている状況の子供たちだったような記憶があります。

見せしめのようなものです。
それを聞くと他の小さい年の子供たちは皆、「自分もちゃんとしないと叩かれる」と身構えます。
立派に話しを聞いているように見えるかもしれませんが、叩かれたくないが為にちゃんとしていただけです。

私たち兄弟4人は集会場で鞭をされたことはありませんが、家に帰るともちろん打たれました。
それが嫌で集会中必死に寝ないように、話しを真剣に聞いている「フリ」をしていました。
それでも寝てしまったりしたときには「家に帰ったら鞭だからね」と言われ、集会終わるな!と心の中で思ってました。

うちでは電気コードを束ねたものを使っていて、やられると蚯蚓腫れができ、本当に痛く怖かったです。
ズボンをおろし、自分からお尻を差し出すまで、父親は何時間でも待ちます。
3時間でも4時間でもです。
恐怖の時間です。
頑張って一度痛みを我慢すればこの時間から解放されると思うのですが、怖くてできないのです。
この鞭の制度は子供が小学生の間は続きました。
思春期に差し掛かり、体にも変化が起きてきます。
そうなると自然となくなったので心底ほっとしたものです。

今思えば、ほかの兄弟はわかりませんが、私は「最初から最後まで」一度も証人の教えを理解できませんでした。
ただ親がしているからしょうがなくやっていただけです。























父はすぐに証人にのめり込みます。





元々父方の親戚は近くに住んでいるのにも関わらず、ほとんど交流もありませんでしたが、問題は母方の親戚でした。





証人になってからしばらく(数年?)経ってからようやく母の両親、兄弟に「実はこういうことをしている」と告白したようです。

当たり前ですが、お決まりパターンの親戚一同で大反対です。
無理もありません。

母方の両親は熱心な仏教徒で朝晩必ず仏壇の前でお経をあげ、毎月お寺に行くような人たちでしたから。
自分の娘家族が家に来ても仏壇に手も合わせない、偶像崇拝だなどと言い出すのを黙ってみているわけがありません。


しかし、これは証人が巧妙です。
周りの人たちからの反対がくる、これはサタンによるものだから屈してはいけません、と予言するのです。
予言?馬鹿か(笑)
当たり前に起きることを言ってるだけです。

しかしそれでさらに「言う通りになった」と信じ込みます。



子供のころは恐らく今よりも証人の中での基準が厳しく、うちの父は真面目すぎたため、特に厳しかったです。

娯楽は一切なし。
テレビも映画もなし。

唯一日曜日のちびまる子ちゃんとさざえさんを14インチの小さいテレビで見ることだけが楽しみでした。
それすらも内容によっては見せてもらえない時があり、どれほどがっかりしたことか。

母方の実家に泊りに行くとこっそり2階でテレビを見れたのでそれだけが楽しみでした。


夏休みになると遠方に住んでいる母の妹夫婦も長期休みを利用して、2週間程毎年帰省していました。


子供が寝静まると毎回始まるのが親子、兄弟けんかです。
内容は毎回同じ。

「お願いだから変な宗教をやめてくれ」

聞かないと分かると
「○○さん(父親)はいいからおまえだけはやめてくれ」
泣き落としにかかりますが、一切何も通用しませんでした。

驚くことに母方の親兄弟とこのような話をしているとき、うちの父親は参加していないように記憶しています。
子供たちと同じ部屋にいて、ひたすら時がすぎるのを待っていたのか?

隣の部屋だったので会話の内容は丸聞こえだし、子供心に本当に良く覚えていて、最悪の思い出です。
記憶ではこの親兄弟集まると夜中にけんかのような懇願をするというやりとりは10年以上続いていたと思います。



証人は愛にあふれていて、この教えを学ぶと家族も子供も皆幸せになるなどとふざけたことをいいますが、これのどこが幸せなのでしょう?

家族不和をまねいているだけではありませんか。
しかし当の本人たちは「サタンの巧妙なやり口に耐えなければならない」と思っていたのでしょうね。



証人になったばかりのころは、とにかく父の方が熱心で母はどちらかと言うと父がやっているからだと思っていました。
現に自分でも「私は○○さん(父親)ほど深く信仰できてないかもしれない」と口に出したことがあったそうです。

子供の頃の私は、それだけを心のよりどころにしていたかもしれません。
いつか母だけはやめてくれると。

つまりそれは離婚を意味するのですが、それでもいいと思っていました。
離婚してばーちゃん家でみんなで暮らしたらいいと。








つづく