4 ところで、前記の「原子爆弾後障害症治療指針について」によれば、治療上の一般的注意として、「原子爆弾被爆者に関しては、いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え、その経過及び予防について特別の考慮が払われなければならず、原子爆弾後障害症が直接間接に核爆発による放射能に関連するものである以上、被爆者の受けた放射能特にγ線及び中性子線の量によってその影響の異なることは当然想像されるが、被爆者の受けた放射能線量を正確に算出することはもとより困難である。この点については被爆者個々の発症素因を考慮する必要もあり、また当初の被爆状況等を推測して状況を判断しなければならないが、治療を行うに当っては、特に次の諸点について考慮する必要がある。イ 被爆距離 この場合、被爆地が爆心地からおおむね二キロメートル以内のときは高度の、二キロメートルから四キロメートルまでのときは中等度の、四キロメートルをこえるときは軽度の放射能を受けたと考えて処置してさしつかえない。ロ 被爆後における急性症状の有無及びその症状、被爆後における脱毛、発熱、粘膜出血、その他の症状を把握することにより、その当時どの程度放射能の影響を受けていたか判断することのできる場合がある。」とされている。また、昭和三三年八月一三日付厚生省公衆衛生局長の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について」(〈書証番号略〉)によれば、「被爆者の健康診断を行うに当って特に考慮すべき点は、次のとおりである。(一)被爆者の受けたと思われる放射能の量 原子爆弾の放射能に基づく疾病である限り、被爆者の個々の発症素因、生活条件等は別として、被爆者の受けた放射能の量が問題になることはいうまでもない。しかし、現在において被爆当時に受けた放射能の量を把握することはもとより困難であるが、おおむね次の事項は当時受けた放射能の量の多寡を推定するうえにきわめて参考となりうる。1 被爆距離 被爆した場所の爆心地からの距離が二キロメートル以内のときは高度の、二キロメートルから四キロメートルまでのときは中等度の、四キロメートルをこえるときは軽度の放射能を受けたと考えてさしつかえない。2 被爆場所の状況 原子爆弾後障害症に関し、問題となる放射能は、主としてγ線及び中性子線であるので、被爆当時におけるしゃへい物の関係はかなり重大な問題である。このうち特に問題となるのは、開放被爆としゃへい被爆の別、後者の場合には、しゃへい物等の構造並びにしゃへい状況等に関し、十分詳細に調査する必要がある。3 被爆後の行動 原子爆弾後障害症に影響したと思われる放射能の作用は、主として体外照射であるが、これ以外に、じんあい、食品、飲料水等を通じて放射能物質が体内に入った場合のいわゆる体内照射が問題となり得る。従って、直ちに他に移動したか等、被爆後の行動及びその期間が照射量を推定するうえに参考となる場合が多い。(二) 被爆後における健康状況 前述の被爆者の受けたと思われる放射能の量に加えて、被爆後数日ないし、数週に現れた被爆者の健康状態の異常が、被爆者の身体に対する放射能の影響の程度を想像させる場合が多い。すなわち、この期間における健康状態の異常のうちで脱毛、発熱、口内出血、下痢等の諸症状は原子爆弾による障害の急性症状を意味する場合が多く、特にこのような症状の顕著であった例では、当時受けた放射能の量が比較的多く、従って原子爆弾後障害症が割合容易に発現しうると考えることができる。」とされている。
被告は、これらの通知は、未だT六五Dも発表されておらず、正確な被曝線量の評価方法がなく、閾値の存在も明らかになっていない時代に発せられたものであり、また、あくまで原子爆弾後障害症の治療あるいは原爆被爆者の健康診断の実施に当たって留意すべき点を述べたものに過ぎない旨主張する。しかし、現在においても右通知は効力を失っていないことはもとより、前記のように、現在においても、現実に投下された原子爆弾の被爆者についてDS八六による推定被曝線量及び閾値のみによって放射線の影響の有無を一律かつ終局的に判断することは必ずしも相当ではないし、原子爆弾被爆者の被曝線量の正確な算出には困難があるため、被爆者の諸病歴、諸現症状については、被爆との関係を考え、被爆者の諸素因、被爆時の諸状況、特に、被爆距離、被爆場所、被爆後の行動等あるいは被爆直後の急性症状等の健康異常から、その被曝線量及びこれによる原爆障害症の発現等を推定するなどして放射線の影響の有無を総合的、体質的視点から判断する必要性がある、という点では、原爆医療法八条一項に基づく認定も原子爆弾後障害症の治療あるいは原爆被爆者の健康診断の実施と共通しているのであるから、原告の現在の症状に対する放射線の影響の有無を判断するうえで、右各通知の考え方は相当なものとしてなお十分に参酌しなければならないものと考える。
5 このように見てくると、現実に長崎に投下された原子爆弾により爆心地から二ないし三キロメートルの地点でかつ爆心地方向にこれといった遮蔽物のない箇所において被爆するなどし、その傷害作用により負傷し又は疾病にかかり現に医療を要する状態にある被爆者が、たとえDS八六による推定線量及び閾値によれば、被曝線量が閾値に及ばないため、被爆者の症状に対して放射線の影響を疑われる場合であっても、被爆当時幼若であったなど放射線感受性が強かったほか、原子爆弾の爆風等により瀕死ともいうべき重篤な外傷を負うのと同時的、共時的に放射線に被曝し、しかも被爆後に放射線被曝以外の原因では説明できない急性症状を示し、かつ、被爆直後から通常の治療を受けておりながらなおその傷害部位の治癒が免疫能の低下を疑わざるを得ないように異例に遷延し長期間を要した結果、損傷が著しくなり現在の諸障害症状に至った等という事実関係のもとでは、その症状の原因として治癒能力に放射線が影響した可能性を否定することができないものとするのが相当である。
これを原告についてみると、原告は約二・四五キロメートルの被爆距離で被爆し、このことそれ自体ではDS八六による被曝線量が前記閾値に及ばない帰結となるものであるが、前記認定の原告の被爆状況及び被爆後の状況等、特に、原告には、三歳五か月時に屋根瓦の直撃による意識不明を伴う頭蓋骨陥没骨折の致命的重傷を負うと共に放射線に被曝したうえ、そのまま被爆箇所に留まってその余燼の中で生活し、避難のため被爆約一週間後に爆心地近くを通過したりもしていて、被爆後下痢及び脱毛があり、これらは放射線による急性症状と説明するほかはないものであり、かつ、右の外傷は医師の通常の経験例に比較して治療が困難であったもので、しかも、少なくとも富江町に疎開した後は栄養状態も悪くなく、医師の治療も受けていたにもかかわらず、結局、その治癒に被爆後二年ないし二年半という免疫能の低下を考えなければ説明が付かない程に異例の長期間を必要としたなどという諸事情があること、そして前記認定の頭部外傷から現在の疾病に至る諸経過等を総合考究すると、原告の頭部外傷は、通常の外傷に比較して治癒が遷延し、その結果脳の損傷が著しくなり、右片麻痺に至ったものと推認され、また、その原因として治癒能力に放射線が影響した可能性は否定できないものというべきこととなる。
第三 結論
以上によれば、原告の現在の疾病は、原子爆弾の爆風の傷害作用によるものであり、かつ、原告の治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受けているために現に医療を要する状態にあることを認めることができるから、原告の本件請求は理由がある。
(裁判長裁判官 江口寛志 裁判官 井上秀雄、同森純子は各転補のため、署名、押印することができない。裁判長裁判官 江口寛志)