食べて 寝て ときどき勉強

食べて 寝て ときどき勉強

資格試験を目指しながらの日々を思うままに綴っています。

不合格を伝える行為は、気を遣う。



「合格しました」と聞けば、どんな嫌いな相手であれ「おめでとう」と社交辞令を言えばいいだけである。



相手が暗い顔をしているとか、手が離せないほど忙しい場合を除けば、合格を伝えるタイミングはさほど選ばない。



だが、不合格の場合は違う。



普通の大人であれば、「不合格」と聞けば、何か励ましの言葉でも言わなければならないと思うだろう。



聞いた相手は、「余計なことを言わないほうがいいな」とか、でも「何も言わないのもいけないな」など、いろいろと考えるものである。



そう考えると、自分が発する一言で相手に余計な心労を与えると思い、言うタイミングに躊躇する。



相手が残念な表情をすると思い浮かべるだけで、「また今度でいいか」となる。



私は今回、ずっと応援してくれた上司(会社のトップ)に不合格を伝えられずにいる。



そろそろ、と思っていた頃、会社で大きなことが起こった。



上司がまさに事態の対応にあたっており、いよいよ伝えるタイミングを逃した。



一社員の不合格なんて、会社全体から見れば些末なことである。



本当に良い人である上司が、大変な最中、私の失態に一瞬たりとも気を取られてしまうのが申し訳ない。



早く1年たって、来年の分とまとめて報告することはできないだろうか。

『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』という本に、羽生善治さんが講演や対談で話したことが書かれている。



人間、誰でも生きていれば大きな決断に迫られることがある。



棋士である羽生さんは、将棋を通じて一般人の人生を凝縮したような決断を若い時期から経験している。



勝負師としての経験から語られる言葉は非常に興味深い。



本の中で「長い物差し」「短い物差し」の話が出てくる。



これは経験から得るものであり、物事を習得するのにかかった時間が基準となる。



短い物差しだけではなく、長い物差しなど、目標に挑むためには、様々な種類の物差しが必要であると説く。



受験や資格の勉強をしていると、短い物差しだけが価値であるかのように錯覚する。



「現役合格」「一発合格」「短期合格」と、塾や予備校を中心に短い物差しの視点で煽り立てる。



もちろん、短い時間で結果を出せる力は高い能力だと認める。(負け惜しみではなく…)



日本では、「医学部9浪です」なんていうと、注目を浴びるが、これは多様性の少なさの証である。



海外に目を向けると、社会人を経験してから大学に入る人もたくさんおり、年齢だとかチャレンジした数で珍しがられる傾向は少ないはずである。



不合格が続くと、早く合格した人間が正しく価値があり、自分がどうしようもない人間に感じることがある。



ダメだった経験のおかげで、自分は長い物差しを手に入れられるんだと信じていきたい。(これは負け惜しみ)

試験勉強を中断してやりたかったこと。



試験とは関係のないジャンルの本を読むこと。



手持ちの本ではなく、読んだことがない本を見つけるため図書館に向かった。



目的ないままに自分の読みたい本をぶらぶらと探す。



本のタイトルが目に入るたびに、自分のメンタルの状況がよくわかる。



やはり思っているよりも心の疲れはまだ残っているようで、難しいテーマや重たい内容の本には、心が拒否反応を示す。



選んだ本は2冊。




ヤマザキマリさんの『たちどまって考える』を手に取り、気付いた。



この本はコロナ禍の話であるが、私は社会がスピードを落としたコロナ禍、全然立ち止まっていなかった。



福祉の世界は、コロナ禍でも動きを止めることはできず、いつも以上の忙しさが押し寄せた。



リモートワークも福祉の現場には一部しか適応ができない。



自分にとっては、今が立ち止まるタイミングなんだと気付いた。



ゆっくり立ち止まって、本を読みながら自分と向き合ってみよう。