「The Star」はイエス・キリストの誕生、ファーストクリスマスのストーリーを動物たちの観点から語るアニメーションフィールムです。
私たちの住むこの田舎町にできた新しい映画館がとてもラグジュアリーだと聞いたので、お兄ちゃんたちが「Justice League」を観たいと言って来た時、私もこの新しい映画館をチェックする傍ら、まだ「Justice League」を観るのには早すぎる末っ子を連れて「The Star」を観てくることにしました。
結構長い列の後、やっと映画館に入っていくと、聞いていた通り、ファーストクラスでした。
一つ一つの席が本革でしかも大きいこと、そして背もたれを倒すと足掛けも出てくるので、気持ちよく映画が観られます。
末っ子と私以外まだ誰もいなかった映画館に入り、席を見つけてドリンクを置き、次はバッグを置こうとした時に末っ子の「このボタン、なんのボタンだろう?」という声が聞こえたのと同時に、末っ子が席に付いているそのボタンを押す動作を横目で見たかと思ったら、壁につけられてあった警報機がなり出し、「何をしたの!?」「わかんなぁい!」とパニックする親子二人。
とりあえず、ロビーに出て、息子がなんかのボタンを押したことを言わなければ、と出ていくと、全映画館で警報がなっていることに気づき、全部の映画館から観客がぞろぞろと出てくる状況に出くわしたのでした。係員から全員避難するようにとの指示が出て、映画の途中だった人たちも、映画を見始めたばかりの人たちも、映画をまだ観ていない人たちも寒い外に追いやられたのでした。
幸い、さほど寒い夜ではなかったのでよかったものの、末っ子は自分のせいだと信じ込んで、パニックが怒りに変わり、「なんで、あんな所に警報のボタンがあるんダァ!」と怒っていました。それで、私もやっと「末っ子が押したのが警報のボタンなわけがない」と思い、すごくパーフェクトなタイミングで警報機がなり出しただけだったことに気づきました。末っ子が押したボタンは全部の席に付いていて、警報ボタンをあんな所につけるわけがない、もしそうなら、子供達みんなが押しているだろう、と気づいたのです。
それで末っ子に「とっさに咎めたこと」を謝り、末っ子のせいじゃないと何度も何度も言い聞かせた後、やっと少し安堵感が見られました。それでも、「もう、あのボタン押さない!」と言っていました。笑
消防員が4〜5人やって来て、中をチェックし、安全を確認した後、私たちは再び中に入ることができました。
先ほど見つけた席に戻り、「末っ子に背もたれ倒せるよ、試してごらん」と言ったのですが、本人はよっぽど怖かったのか、「いや、いい。」と言い張るので、「ほら、大丈夫だよ」と倒してあげると、安心できたようです。
こんなハプニングがあった後ですが、映画は楽しめました。
聖書のストーリーの部分も、ちゃんと聖書に沿ったものであったし、その他ユーモア、そして、「赦し」のレッスンが入っていたのもよかったと思います。主人公のロバ、ボウを殺そうとする犬たちが危機にあった時、ボウは迷わず自分の身を危険にさらし、敵であった犬たちを救います。
「優しさ、憐れみ、自分の身を顧みない犠牲が懺悔の心を導きだす」という教えが脳裡に浮かんで来ました。
それは、イエス・キリストが私たちの為にしてくれたことと同じです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、
彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、
和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、
私たちは神を大いに喜んでいるのです。
ローマ書 5:5−11
イエス・キリストが敵であった私たちの為に十字架にかけられ、私たちの為に血を流され、私たちの代わりとなったことを心の底(魂)から理解できるとき、初めて懺悔の心が生まれます。その痛みが心に感じられるとき、初めて感謝の心が生まれます。
クリスマスは、私たちの為に死ぬことが目的で生まれて来たイエス・キリストのバースディー。
今年のクリスマス、クリスマスの本当の意義を考えて、多くの人がイエス・キリストを受け入れることを祈ります。