未だ言い残したことがあったので、再再論する。


古来、日本語では、主語を指し示すのに、助詞は必ずしも必要ではなかった。

平家物語の冒頭、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」では、主語は沙羅双樹の花の色

だが、これには、助詞はくっついていない。

助詞は、主語となる言葉にニュアンスを付加するために付け加えられたのだと思われるが、現代文では、砕けた表現を除いて、必ず「が」や「は」や「も」がつく。

それで、これらの助詞は主語を指し示すものとして扱われるが、それでもニュアンスを付け加えるという役割がなくなったわけではない。

「が」は、それが付随した言葉が文中で一番重要な語であることを示し、「も」は、別のあることがあり、主語も同様だというニュアンスを表す。

それでは、「は」はどんなニュアンスを付加するのだろうか、というのが本稿の主題である。

 

結論を言うならば、「は」は対比を示す。

バラは赤いが、菊は黄色い というように。

 

しかし、「は」を使った構文には、対比するものがない文ほうが多い。

その場合も、対比されるものが、暗黙の裡に存在すると考える。

たとえば、災害などで、交通機関が遮断されてしまった時など、誰かが、

「鉄道は、動いている」と言ったとすると、「鉄道」は、暗黙裡に他の交通手段、たとえば、バスとか、タクシーと対比されている。そして、他の交通手段に注意を向ける働きがある。

次の例でさらに考察してみよう。

(i) 財布は、カバンの中にありませんでした。

(ii)財布は、カバンの中にはありませんでした。

下の文は、上の文に比べて、「に」のあとに「は」があることが違っている。

この「は」は、主語を示すものではなく、単にニュアンスを当てえるものなので、英などに翻訳すれば、同じになるだろう。

但し、くわえられるニュアンスは同じもので、上の文では単にカバンの中になかったと言っているデカなのに対し、下の文ではカバンがほかの探すべき候補、たとえばポケットの中などと対比されている。だから、カバンの中になかったから、ほかの場所を探してくださいねといっているように聞こえる。

そして、財布が見つかった時、

財布はポケットな中にありました。と言う。

このとき、ポケットは他のものと対比する必要はないから、

財布はポケットの中にはありました。ということはない。

 

ただし、「は」が与えるのはあくまでニュアンスであって、意味ではない。

ニュアンスには強弱がある。だから、非常にそのニュアンスが弱くて、ほとんど感じられない場合がある。

たとえば、AはBである。というような文。

この場合、主語はAであり、現代文では、主語に「が」か「は」か「も」が付く。

「が」はそれが付く単語が、文中で一番重要な単語であるというニュアンスがある。

したがって、Aが一番重要な単語ということになる。

しかし、多くの場合個のような文ではBのほうが重要な情報である。

従って、がを使うのはふさわしくない。

また。「も」も他のものと同様であるというニュアンスがあるので、そういう状況で使われるのでない限りふさわしくない。残ったのは、「は」だ、という消去法で「は」が使われている。

だからAはBである という文において、「は」は単に主語を示す助詞だと思って差し支えないだろう。

 

 

とうとう政府が外国人労働者の受け入れを実施すると言い出した。それに対し、巷では早くも反対の声が上がっている。政府の方針は、これから労働力が不足していくのは、人口動態から目に見えているからであって、言い出すのが遅すぎたくらいだ。一方巷での反応も、これまでの日本人の歴史から見て、当然予測できたことだった。政府が外国人労働者の受け入れをなかなか言い出せないでいたのも、この反発を恐れていたためだろう。それでも政府が外国人労働者の受け入れに踏み出したのは、この先の労働者不足に相当危機感を抱いているためだと思われる。

外国人労働者を受け入れるにせよ、受け入れないにせよ、双方にメリットとデメリットがあり、単にデメリットがあるから拒否するというのではなく、双方のデメリットとメリットを勘案して判断すべき問題だろう。

ここで考慮しなくてはいけないのは、外国人労働者の受け入れに関するデメリットは、欧州で移民がいろいろな問題を引き起こしていることなど、具体的な事例がいくつもあるのに対し、労働者不足は、少子高齢化社会という未だかつて経験したことがない事態に起因しているものだけに、未だ現実のものとしては、立ち現れず、推論するしかないことである。

どうしても、目の前で起こっていることのほうがインパクトが大きいわけで、メリット、デメリットを勘案する際は、このバイアスのことを考慮することを忘れ打てはならない。

 

以上のことを踏まえて、私の意見は、やはり外国人労働者を受け入れるべきである。

但し、それはこれまで欧州などで起こっている移民の問題を踏まえての上でのことでなければならないということは、言うまでもない。

 

そこで、外国人労働者を受け入れる条件として、以下のことを提案したい。

(1) 就労ビザを発給する時点で、就職先が内定していること。

(2) 日本に来る時点で、健康であること。

(3) ある一定の条件を満たすまで、日本での身元引受人が必要なこと。

理由を示すと、

(1)は、就業ビザを持っているのに、失業している外国人がいないことを保証するためである。

(2)は来日していきなり健康保険適用で医療を受けるということがないようにするためである。

医療を受けるにしても、ある程度健康保険の掛け金を払った後にしてほしいという希望はある。

(3)について設営すると、まず身元引受人とは、個人でなくてもよく、法人でも構わない。また、身元引受人は、就業ビザ以外でも、観光ビザ以外で入国しているすべての外国人に適用する(ただし、大使館員のような外国政府の関係者は除外する)

想定される身元引受人は、就業ビザなら、受け入れ企業、留学なら通学先の教育機関である。

そして、身元引受人は、責任もって受け入れ外国人を管理しなければならない。と言って、外国人を四六時中見張らなければならないという意味ではない。常識的な範囲内で動静を把握しておこうということだ。無断欠勤や欠席が続いた場合は、何か事件に巻き込まれた可能性もあり、安全管理という見地からも必要なことと思われる。

労働ビザで在日している場合は、解雇や自己理由で退職した場合は、身元引受人は該当政府機関に届ける必要があり、失職した外国人の就労ビザは、雇用保険の失業保険金が支払われる間に新たな就職先を見つけることができなかった場合は、就労ビザが失効するようにすべきである。

これは(1)と関連して、無職の外国人が在留するのを防ぐためである。

また、(3)の条件中に書いた、一定の条件を満たすまで、というのは、一定の期間と、若干の試験を想定している。試験内容は、日本語の能力と日本人のものの見方を想定している。どうせ仕事をしていく上では、日本人を相手にせねばならないのだから、外国人労働者にとってもこの試験は負担にならないはずである。また、外国人を管理する側にとっては、当該外国人が、日本社会になじめるかどうかを試す試験である。

日本の生活になじめない外国人が増えると、彼らは同国人同士で集まって暮らすようになる。すると、日本の中なのに、日本でないような地域が発生することになる。これは治安や国内法の貫徹という観点から、危険なことになる。ただ、外国人が日本社会になじめるようにするには、日本人のほうからも、外国人を社会的に受け入れる努力をしなければならない。

表題を英語に訳して I am coldといったら、怪訝な顔をされた、という話が英語の本に載っていた。(いわゆる日本人の間違えやすい英語といった類の本)

間違いの原因は、coldという単語にあるらしく、それは、寒いという意味としては現在は使われなく、心が冷たいという用法で使われるらしい。

しかし、私はそもそもこの日本語を直訳したしたこと、否、元の日本語に問題があると考える。

私は寒い はウナギ文なのだ。

ウナギ文というのは、レストランなどで、「君は何にする?」と聞かれたときに「僕はウナギです」と答えるあれだ。これはもちろん I am ウナギ ということではない。日本語では、動詞が明らかなとき、です/だ で代用することがある。それがウナギ文と呼ばれているものだ。

私は寒いも、別に体温が下がっているとう意味ではないだろう。

ウナギ文を使わないでいえば、私は寒く感じるということだろう

I feel cold と言えば、coldの問題があるにせよ、そこまで誤解を受けることはなかっただろう。

 

アメリカと北朝鮮の首脳が近く会談する予定だということが、驚きをもって伝えられている。

しかし、このことはそれほど意外なことだったのだろうか。

北朝鮮が昨年末、核兵器の開発を完成させたとして祝典を行った時点で、その予兆が感じられたのではないだろうか。さらに、金正恩委員長が今年はもっと驚くようなことが起きるだろうと言った時点で、その予兆はもっとはっきりしたのではないだろうか。トランプ大統領があっさりと受けたことは少々意外だったかもしれないが、それ以外は北朝鮮の予定通りの行動だったのではないだろうか。

北朝鮮の意図を図りかねて、経済制裁が効いたためではないかという人がいる。それもある程度は理由のうちかもしれないが、北朝鮮が制裁に耐えかねて方針の転換を余儀なくされたと解釈してしまえば、今後の情勢の予測を誤る可能性がある。

そもそも、北朝鮮は、軍備と経済発展の双方を目標にすると掲げていた。しかし、昨年の一連のミサイルや核実験など軍事一辺倒に突き進んでいく様を見れば、とても経済に力を入れているようにはみえなかった。これは軍事と経済発展とを同時並行的に進めていくということではなく、ある時は軍事を、ある時は経済に力を入れるということを交互に繰り返すということだったのではないだろうか。そうであれば、昨年、外部からは疑問の声が寄せられているものの、一連の核戦力の開発を完成させたことにしたということは、次に経済発展に舵をきることは十分予測できたことだ。

しかし、テレビや新聞の報道を見ていても、そういう見方をする人はほとんどなく、北朝鮮が核戦力の保持を最優先課題としているという見解に拘っている人たちは、金正恩あるいは、北朝鮮指導部は、独裁体制の常として、体制の維持にしか関心がなく、人民の幸福などは二の次だとの先入観にとらわれている。

また、金委員長が、先代の先軍政治を排除して党中心の政治に戻したことや、一連の軍幹部の粛清をみれば、彼が軍事を最優先にしているとも思えない。むしろ軍が経済活動に手を出し、一種の利権集団と化していることに危機感を抱いているのではないか。

とはいえ、アメリカと鋭く対立している現状では、軍をおろそかにするわけにはいかない。

その意味でも、アメリカとの対話を求めているのだろう。

ここ数日、北朝鮮との戦争が起こるかもしれないという話題がテレビや雑誌でかまびすしい。

実際に起きれば、日本にミサイルが飛来する可能性も無くはなく、こういった報道は国民に恐怖心をあおるには十分なのだが、その割には、何か現実味のないどこかほかの世界のことのようにも思えてしまうのはなぜだろうか。

一つには、長年戦争がなかったため、平和ボケしているというのもあるだろう。しかし政府の対応がその感覚を助長している面がある。今のところ、一般人へのミサイル対策はJアラートのみだ。これが津波になると、警報が出た後、非難する場所や避難訓練など様々な対応がなされている。せめてミサイルが飛んでくる可能性の高い米軍基地の周辺などに防空壕を掘るでもしたら、もう少し切迫感が伝わってきたようにも思う。

このアンバランスな感覚は、どこから来るものだろうか。

 

もう一つ、妙な事は、テレビなどで話されていることは、悲観論を述べるのせよ、楽観論を述べるにせよ、北朝鮮に核兵器を持たせないようにするには、これが最後のチャンスだという切迫感である。そして、いったん北朝鮮に核兵器保有国であることを認めてしまえば、東アジアの軍事バランスが崩れ、取り返しのつかないことになるという焦燥感が、最悪軍事行動もありうるというという観測にもつながり、ミサイルが飛来するという恐怖につながるのである。

そして、この最後の機会という判断に異を唱える人はいない。いろいろなことを言っている人がいる中で、ある一点で奇妙なことで一致している場合、そこを疑ってみるというのは、大事だと思う。

また、このように人々が差し迫った危険について議論している時こそ、少し引いて、長期的な観点から、問題の本質を洗い出すというのも重要である。

 

兵器の観点からいうと、人類は古来、盾と矛という二種類の武器を使ってきた。防御と攻撃である。長い間、この二つの相反する兵器は拮抗していた。しかし、核兵器が登場してからというもの、これを防御する有効な手段がなく、均衡は完全に崩れてしまった。また、核兵器は甚大な破壊力を持つことから、一旦核戦争が起これば、攻撃された側のみならず、人類の生息環境に多大な影響をもたらす。このことから、核抑止力という考えが生まれてきた。しかし、圧倒的な核兵器を持つ米国の圧力をもってしても、北朝鮮の核武装を阻止出来なかったこの核抑止という考えが有効なのか、疑念がある。もう一つは、人々の恐怖心に訴えて、核を廃絶しようとする運動である。しかし、人は、核が恐ろしいからこそ、核を持とうとするものである(核抑止論)このため、この運動は成功していない。それどころか、現存の核は認めて、それ以上核を増やさないという、核拡散禁止も条約こそ締結されたものの、実際にそれにほころびが出ていることは、周知のとおりである。

その結果、軍事的にはどういう世界になったかというと、高性能な武器を持っていることが軍事的優位に立つ条件ではなくなった。貧弱ではあっても、相手に届く矛さえ持っていれば、「いざとなれば、あなたと刺し違えて死ぬ覚悟です」といえる胆力を持っているほうが、交渉では優位に立つ。これが、北朝鮮のような経済的には弱小な国がアメリカを相手に堂々と渡り合える条件を作り出しているのである。平等と言えば平等であるが、危険なこと極まりない。

 

こうした状況を打開するには、たとえどんなに困難であっても、盾と矛のバランスを回復することが必要だと考える。そのためには時間が必要だ。いま、北朝鮮と対決しようとするのは、最悪の時期である。アメリカが焦っているのはわかる。もう少しでアメリカの主要都市が射程に入るミサイルを北朝鮮が開発しようとしているのだから。しかし日本についていえば、もうすでに射程に入っている。アメリカの国益と日本の国益は違う。にもかかわらず、アメリカと歩調をああせてヒステリックに騒ぎ立てるのは、どういうつもりなのか。北朝鮮の脅威はかつてない次元に高まったといいながら、実際は何も準備はしていない政府は何を考えているのかと、いぶかしがる日々である。