今回は、大伴家持(おおとものやかもち)の少しユーモラスな歌をとり上げたいと思います。家持の価値観や人間性が感じられる興味深い歌です。
時は天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(西暦749年)五月十五日、家持32歳のときの歌です。
当時、家持は越中国(えっちゅうのくに = 富山県から能登半島を含む北国一帯の地域)に国司(くにのつかさ)として赴任していましたが、都から連れてきた史生(ししょう=書記官)の一人に、尾張少咋(おわりのおくい)という男がいました。
この男、単身赴任の淋しさに耐えかねたのか、現地の遊女 左夫流子(さぶるこ)という女性にすっかり夢中になり、入れ揚げた挙句、都に残してきた妻をさしおいて、彼女を現地妻のように扱っていたようです。
それのみか、少咋(おくい)は、毎朝、左夫流子(さぶるこ)の家から役所に出勤していたようで、その姿を里人たちに見られ、物笑いの種となっていました。
その様子が、家持の歌に次のように詠われています。
里人(さとびと)の 見る目恥(は)づかし 左夫流児(さぶるこ)に 惑(さど)はす君が 宮出(みやで)後風(しりぶり) (巻18-4108)
【大意】まったく、この私まで恥ずかしいよ。左夫流児(さぶるこ)に血迷って、君がいそいそと出勤していく後姿を里人たちが笑っているのを見ると。
【語釈】○惑はす君 :左夫流児(さぶるこ)に血道をあげる尾張小咋のこと。○宮出(みやで):国府への出仕 ○後風(しりぶり):後ろ姿
心配した家持は、部下の尾張少咋(おわりのおくい)に、まず当時の法律である「七出(しちしゅつ)」と「三不去(さんふきょ)」を引き合いに出し、正当な理由がなければ妻を離縁できないことを教え諭します。
「七出(しちしゅつ)」とは、妻を離婚できる条件を定めたもので、(1) 五十歳になっても男子が生まれない、(2)姦淫、(3)舅姑(しゆうとしゆうとめ)につかえない、(4) 悪言して他人に害をあたえる、(5)盗窃、(6)嫉妬、(7)悪い病気 の七つのうち、妻が一つでも犯せば離婚できました。反対に、これらに該当しない場合は離婚できません。該当しないのに離婚すれば、夫(おっと)は一年半の徒刑(とけい=懲役)に処せられました。
次に「三不去(さんふきょ)」ですが、次の三つのうち、妻が一つでも満たせば、「七出(しちしゅつ)の事由があっても離婚できません。
(1)妻が舅姑(しゆうとしゆうとめ)の喪(3年間)に服した場合 (2)貧賤(ひんせん)のときに妻を娶(めと)り現在富貴(ふうき)となっている場合 (3)妻の実家がすでにない場合
さらに重婚は、現地妻でも禁止で、男の重婚は徒刑(とけい=懲役)1年、女の重婚は杖刑(じょうけい=木製の杖をもって背中または臀部を打つ)百回の刑でした。
また歌の題詞には、次のような言葉が残されており、この問題に関する家持の考え方がうかがわれます。わかりやすく現代語訳で示します。
「謹んで考えるに、以上の数か条は、世に法を敷く基盤であり、人を徳へ導く源である。したがって義夫の道とは、人情としては夫婦は平等とする点にあり、ひとつの家で財産を共有するのが当然である。どうして古い妻を忘れ新しい女を愛する気持ちなどあってよかろうか。そこで、数行の歌を作り、古い妻を捨てる迷いを後悔させようとするものである。」
注:上記の現代語訳は、『越中万葉百科』高岡市万葉歴史館 編 笠間書院 より引用。
家持はこのように語った後、今度は長歌を詠んで、少咋(おくい)の心情に直接語りかけます。
大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神代(かみよ)より 云(い)ひ継(つ)ぎけらく 父母(ちちはは)を 見れば尊(とうと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし 現世(うつせみ)の 世の理(ことわり)と かくさまに 云ひけるものを 世の人の 立つる言立(ことだ)て ちさの花 咲ける盛(さか)りに はしきよし その妻(つま)の子と 朝夕(あさよひ)に 笑(え)みみ笑(え)まずも うち嘆(なげ)き 語りけまくは 永久(とこしえ)に かくしもあらめや 天地(あめつち)の 神言(かむこと)寄せて 春花(はるはな)の 盛(さか)りもあらむと 待(ま)たしけむ 時の盛りそ 離れ居(い)て 嘆かす妹(いも)が 何時(いつ)しかも 使(つかひ)の来むと 待たすらむ 心(こころ)寂(さぶ)しく 南風(みなみ)吹き 雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて 射水川(いみづかは) 流る水沫(みなは)の 寄る辺(へ)なみ 左夫流(さぶる)その児(こ)に 紐(ひも)の緒(お)の いつがり合(あ)ひて にほ鳥(どり)の ふたり並び居(い) 奈呉(なご)の海の 奥を深めて 惑(さど)はせる 君が心の 術(すべ)も術なさ (巻18-4106)
【大意】
大汝命 (おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の神代(かみよ)から言い伝えられたことに、「父母を見れば貴く、妻子を見ればせつなくいとしい。(うつせみの)世間の道理だ、これが」と、このように言ってきたのに、これが世の人の立てる誓いの言葉であるのに。ちさの花の咲いている盛(さか)りの時に、いとしいその妻である人と、朝夕に時には笑顔、時には真顔で、ため息まじりに語りあったことは、「いつまでもこうしてばかりいられようか。天地の神々がうまく取り持ってくださって、春花のような盛りの時も来るだろう」と、待(ま)っておられた盛りの時なのだ、今は。離れていて嘆いておられるあの方が、いつになったら使いが来るのかとお待ちになっているその心は淋しいことだろうに、南風が吹いて雪解け水が溢れ、射水河(いみずがわ)の流れに浮かぶ水泡(みなわ)のように、拠(よ)り所もなくて、左夫流(さぶる)という名の女に、(ひものをの)くっつき合って、(にほどりの)ふたり並んで、(なごのうみの)心の奥底までも迷っている君の心の、なんともどうしょうもないことよ。
注:上記の現代語訳は、『越中万葉百科』高岡市万葉歴史館 編 笠間書院 より引用。
【語釈】○言立(ことだ)て :誓いの言葉。○はしきよし:いとおしい。なつかしい。○神言(かむこと)寄せて:神が言葉によって助力して。○溢(はふ)りて :あふれて。○寄る辺(へ)なみ:身を寄せるところもなく。より所なく。○いつがり合(あ)ひて:つながりあって。からまりあって。
あおによし 奈良にある妹(いも)が 高々(たかたか)に 待つらむ心 然(しか)にはあらじか
(巻18-4107)
【大意】奈良にいる奥さんが、爪先(つまさき)だって、今か今かと待っているだろうに。妻の心というのは、そういうものではないのか。そのいじらしい心を哀れと思わないのか、君は。
いかがでしょうか。家持は、都で待つ少咋(おくい)の妻の心に寄り添い、あたかも彼女になり代わって、相手の心に切々と訴えます。
それにしても、当時、家持は大国である越中国の国守の地位にありました。その国守みずからが、部下である一書記官の身の上話(みのうえばなし)に、これだけ親身になって、長文の歌まで作って関わってくれるでしょうか。普通ではなかなか考えられることではないと思います。
これは家持の生来の性格、すなわち感受性が高く、とても繊細で、常に相手の心に深く寄っていくという姿勢・生き方が関係しているように思います。
たぶん家持には、都で待つ少咋(おくい)の妻の心が痛いほどわかり、情景が見えるほど、それが胸に迫ってきたのでしょう。国守という立場を超えて、本当に居ても立っても居られない気持ちで、この問題に深入りしたような気がします。
上の長歌を読めば、少咋(おくい)は、貧しい暮らしから妻と助け合って、家持の下で、史生(ししょう=書記官)という地位にまで出世していたようです。
ならば、やっと「春花の盛り」の時を迎えた今こそ、今まで支えてくれた妻とともに日々の生活を楽しむべきではないのか。それなのに、射水河(いみずがわ)の流れに浮かぶ水泡(みなわ)のように浮かれて、左夫流(さぶる)なんて娘に、紐(ひも)の緒(お)の縺(もつ)れるように、にほ鳥のように二人仲良くくっつきあって、奈呉(なご)の海の底までのめり込んで血迷っている君の心は、もうどうしようもないほど愚かだ。家持の嘆きはもっともです。
家持は続けて詠います。
紅(くれない)は うつろふものぞ 橡(つるはみ)の なれにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (巻18-4109)
【大意】紅(くれない)は見た目はいくら美しくとも、すぐ色あせるものだ。くぬぎで染めた着古しの衣(ころも)に、優るところなどありはしないのに。
【語釈】○紅(くれない) :左夫流子のこと。○橡(つるはみ) :団栗(どんぐり)の皮で染めた薄墨色のことで、少咋(おくい)の妻を表す。
これを聞いた少咋(おくい)は、心動かされずにはいられなかったのでしょう。家持の説得を受け入れて、都から妻を呼び寄せるため、使いを出すことにしたようです。
ところが、家持の説得の二日後に、急転直下、事態は予想もしない方向に進みます。
題詞によれば、「先の妻、夫の君の喚(め)す使(つかい)を待たず、自ら来たる時よめる歌一首」とあり、越中にいる少咋(おくい)が、都の妻を呼び迎えるための使いを出したのに、その使いも待たずに、何と妻自(みずか)ら、都から早馬に乗って、左夫流子(さぶるこ)が本妻気取りで振るまっている館(やかた)へ、里中鳴り響くばかりに乗りこんできたのです。
左夫流児(さぶるこ)が 齊(いつ)しき殿(との)に 鈴(すず)懸(か)けぬ 駅馬(はゆま)下れり 里(さと)もとどろに (巻18-4110)
【大意】いやはや、左夫流子(さぶるこ)が本妻気取りでお仕えしていた館(やかた)に、駅鈴(えきれい)もつけない私用の早馬で本妻が乗りこんできたぞ。里はもう野次馬たちで大騒ぎだ。
【語釈】○齊(いつ)しき殿 :左夫流子が本妻のようにお仕えしていた館 ○鈴懸けぬ :公用の使いは鈴をつけた駅馬を使うが、ここは私用なので、鈴のない駅馬を借りてきた。○駅馬(はゆま) :「はやうま(早馬)」の略。早馬のこと。奈良時代、旅行者のために街道の駅に備えてあった馬。公用の場合は駅鈴(えきれい)をつけた。
これまた、修羅場必至の大変な状況になってしまいましたが、驚くのは、当時、奈良の都から北陸の越中(富山)までの片道10日もかかる道のりを、道路事情もよくない中、自(みずか)ら私用の早馬を仕立ててやってくる少咋(おくい)の妻の行動力というか、逞(たくま)しさです。
どうやら彼女は、家持が上記の長歌で描き、かつ想像していたような、都で夫の帰りをいじらしく健気に待っているだけの、か弱い女性ではなかったようです。
大仰に誇張を交えながら、ユーモラスに詠われた上記の歌から、苦笑する家持の姿が見えるようです。
結局、家持の心配も、少咋(おくい)の妻の並外れた行動力でどうやら杞憂(きゆう)に終わったようで、一件落着といった感じですね。
いずれにしても、今から1300年前に起こった不倫劇の顛末が、こんなにも目の前に見えるような臨場感をもってリアルかつコミカルに感じられるのは、家持の歌のお陰です。
ところで、この一連の歌を読んで、私が強く感じたのは、やはり大伴家持という人の持っている深い感受性と本質的なやさしさ、情け深さです。
これは、以前に『大伴家持の歌-防人の情(こころ)となって』にも書きましたが、家持の詠んだ歌を読んでいて、私が常に驚かせられるのは、彼が相手の人間、とりわけ女性の気持ちにとても敏感で、それに深く共感できるだけでなく、さらには、彼ら彼女らに寄り添い成り代わって、その「あはれ」をすぐれた歌に昇華させることができる、極めてしなやかな感性を持っていることです。
そして、その生来のしなやかな感性と、愛する人との幾多の別れを経て培われた、彼自身の持つ情け深さ、人間的やさしさが合わさったとき、そこに対象への人間的な共感と哀歓がほとばしるような彼独自の歌の世界が生み出されるように感じます。
彼の歌が、時代を超えて、読む人々に与える何ともいえない温かさや人懐っこさは、彼の持つこうした人間的資質が、自然と歌ににじみ出ているところに由来しているのではないでしょうか。
やはり「文は人なり」。文章には、その人の価値観のみならず、美意識、生き方に至るまで、すべてが反映されてしまう。
そのことを、今回の家持の歌を読んで、あらためて強く感じました。
長くなりましたので、この辺で。