からだはうす「時の徴(しるし)」 -4ページ目

身体と自然 16

身体と自然 16



「全身に漲る力」が男の本領である。「愛」はその「力」を誘発し、男たちはがぜん張り切る。生物としての原始エネルギーを象徴する「暴力」と「性」、そこに「愛」が加われば「暴力」は身を滅ぼし、「性」はとことんゴージャスになる。「愛」ほどきわどいものはない。



ところで、男の子が転んだとき「さあ立て!男の子だろ!」という言葉を聞くことがある。人々は、「自分で立って、はじめて男なんだ」と、その歴史的な言葉を理解する。そして、その言葉に男たちは一生脅かされる。



勃たなければ男じゃない。彼らの頭の中では自動的に漢字変換が行われてしまう。暴力的な漲りはいらないが、性の漲りには徹底的な未練がある。悲しいかな、その未練のためにありとあらゆる方法で精力剤が研究開発され、売られている。



男の性と暴力との関係で言えば「武器」を忘れてはなるまい。食の糧を得る道具の発達は今や核弾頭ミサイルという大量破壊兵器に至った。人間の歴史とは同胞への殺戮の連鎖と言っても過言ではない。。その「武器」がどうしてこうも男性器に似るのだろう。筒から発射する弾丸、この世界から「武器」を無くすには、すべての男を去勢するしかないと思うほどに両者の出所は近い。



武器と言えば、近頃日本の男性的エネルギーが怪しい。集団的自衛権、武器輸出、特定秘密保護法等の改正が進む。これらの法改正の背後には暴力的な「力」を是認する意識が働いている。人類史の流れを見て、生きていくことの必然として戦争が是認されがちだが、もったいなくも、絶対に戦争はしないという、人類にとって最も勇気のいる決意を安部政権は捨てようとしている。
安部首相は長州派閥の血統を引き継ぐが、いったい明治の頃に戻ろうとでも思っているのだろうか。



幕末、それまで260年の太平に萎えしぼんでいた日本の「男気」は洋上に浮かぶ黒船のもうもうと煙を吐きながら屹立する煙突を見て、最初は腰を抜かし、そして、奮い立った。なにしろ、最高身分でありながら、本業の戦をしたことが一度もないのが江戸時代の武士だったわけで、彼らは外国からやってきた煙突と大砲に「男」を見た。きっと下半身が震えたことだろう。僕はそう思う。
男たちの下半身の目覚めによって明治維新は遂行された。「男の出る幕」が切って落とされたのだ。



外国勢の「男気」を真似て文明開花に踊り、富国強兵に突き進む。日本は欧米のあらゆるものをパクりにパクった。明治は日本の歴史上最も男性原理が際立った時代であった。が、その原理そのものもパクリであった。いや、戦国時代もあったではないかという意見もあろうが、あの時代は所詮お山の大将、ガキ大将同士の陣取り合戦、どっちの大将につくのが有利だろうかなどと考える、ふざけた余裕があった。農繁期には互いの合意で休戦したくらいである。下半身の震えには届かない。



西欧は大航海時代を経て大植民地時代の盛りである。日本は西欧の男性原理を徹底的に真似た。そして、二つの大戦での勝利。このとき、日清日露の戦いに勝利したことがその後の不幸を招く要因となることに気づくものはいなかった。日本という国は、戦争に限らず、戦いの構図において力ずくの圧倒的な勝利というものが昔からないのである。



日清日露の大戦も相手のオウンゴールによって得た勝利であった。欧米列強に玩具にされていた清、革命前夜のロシア、両国とも戦争などしている場合ではない状態の国内情勢だったのである。



しかし、曲がりなりにも大国に勝った軍部の権力は増大していく。それが、やがての無茶な太平洋戦争へとつながってしまった。内政においても、近いところでは民主党が政権を取った時も、その後にまた自民党が政権を取り戻した時も、勝利の要因は時の政権の自滅(オウンゴール)だった。他国の自滅による勝利、他党の自滅による勝利。これが日本国の勝利の方程式である。ところが、当の権力側は自らの実力だと思い込む。



このような錯誤がもたらす結果は悲惨である。現在の安部政権に参集している政官財とマスコミに錯誤の自覚はない。明治男は気骨があったと聞くが、日本が男性原理を前面に出して外に向かう時、そこには大きな落とし穴が待っている。日本は欧米と違って男性原理が作り上げてきた国ではない。昔あった特攻隊のような無謀な戦略を用いるセンスは男性原理の稚拙さを示すものである。


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身体と自然 15

身体と自然 15


子宮を持つ女性は子を産むことと育てる(乳を飲ませる)ことがその役割としてあるが、男性は生殖のスタートダッシュで役割を終える。生物の雌雄の機能設定は基本的にそうなっている。


象だってコトが済めば群れから追い出される。人間男子の子育て参加は社会的要請における人為である。それはあくまで補助的なものである。ということは、子孫を守るという主題のために男性ホルモンが最初からインプットされている訳ではない。子孫となり得るものを作るまでの生物機能である。

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受精した瞬間から子宮は育て、守り、産むという作業を一人行う。ここに「女性は子宮で考える」という言葉の根拠があると僕は思う。それは、子を宿し育て産んだ経験があるかないかとは関係なく、生物的プログラムとして女性性を象徴する。


では男性はどうだろう。女性が子宮なら男性は睾丸かペニスか?それをひとつにして答えは是である。生物的プログラムとして「男性はペニスで考える」のだ。男性は生殖行為が済んだ途端に次なる放出に向かう。溜めては出す、これが死ぬまで繰り返される。


たとえ機能不全に陥っても頭の中のペニスは萎えることがない。多くの女性が理解に苦しむところでもある。発情期を解除したのは人間の意図に依るものではないにしても、こののべつ幕なしの発情には生物的に男が男であることの証明がかかっているのだ。


男性の生物的身体の特徴は女性に比して骨格が頑丈で筋肉質で力が強い。そして、形態的に生殖器が外部にぶら下がっている。女性は自らの内部に子宮という「家」を持つが、男性に「家」はない。男性は外なる世界にむき出しで放り出される。保護のない外的世界での活動を支えるために頑丈さとパワーが与えられた。


男性はうろうろぶらぶらと外に出かける生き物である。体は家にあっても頭の中ではあっちにこっちにぶらついている。それは、形態的に股の間にぶらぶらしている器官と重なるものである。さらに、そのぶらぶら君が膨張したとき、つまり、「精」が漲ったとき、男は自らのアイデンティティーに安堵するのである。しかも、そのアイデンティティーが拡張した形で全身に「力」が漲ったとき、男性としてのリアリティーは確かなものになる。


「外部世界とぶつかり合う」ことで得られるリアリティーは単純なところでは強靭な肉体パワーに保障される。男たちのファイトが暴力性を帯びるのは、外なる世界に対して自分の存在を認めさせるための「力」の誇示としてある。


もっとも、「精」の漲りと「力」の漲りは双子のようなものなので、肉体的ぶつかり合いの隙間をぬって「精」の放出がなされる。その典型が戦争という「力勝負」についてまわる残虐な集団レイプである。究極の精神的緊張と力いっぱいの肉体的興奮は「精力」を掻き乱しながら直結する。


僕自身そんな体験はないが、日常世界を見渡せばギリギリの興奮をしたあとに、その余韻を「精力」に回しているであろう人がいることは想像がつく。もっと言えば、性行為そのものの姿に人間男子ほど暴力性を表す生命種はいないのではないだろうか。


どこまでも硬く強く、そして、その先に享楽とエクスタシー・・・、男にとって「暴力」と「性」は原始エネルギーとして密接に結びついている。文化的な素養では理解し難く、また、ホルモンや脳科学の研究からでも納得できない女性たちの男性の振る舞いに対する疑問には、上述した「力」のエネルギー的関連があるのだ。

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身体と自然 14

身体と自然 14


人間の叡智は「自然」からいただき、「自然」を真似、「自然」を工夫することで発達してきた。この列島でもいつからか大陸原産の稲の作り方が伝わり、人々も集団化していく。それにつれてリーダー的存在(集団の中心)も必要になっていった。


リーダー的存在を思うとき、現代に生きる僕たちはすぐに男性の力と才知を想像する。僕たちが教えられてきた歴史が男性を中心に展開したものだからだが、はたして原始の時代もそうであったろうか。



まだまだ自然が人間の前に立ちはだかっていた頃の話である。恵みは常に自然からいただいた。労力としては圧倒的に男性がその力を発揮したことは確かだと思われる。だが、稲の実りは自然に委ねるしかない。


実りをもたらす「自然」は驚異であり、豊穣は奇跡であった。ならば、自然と同じ驚異と奇跡を有するものがリーダー(中心)となるだろう。はたして、それは「産む身体」をおいて他にはなかった。


父権的な族長が登場する前は母権社会であったであろうとするのは歴史学でも常識であるが、それは生物学的生態としても至極当たり前のことである。



子の誕生は生物として最大の営為である。人間以外の生物を見ればよくわかる。ほとんどすべての生物が種の保存のための営為である。サケの産卵のための遡上など可哀想なくらいである。人間は種の保存以上を望む奇種であろう。それでも、子の誕生が人生最大の喜びとする人々もたくさんいる。ここに「自然身体」の原点がある。原始、子の誕生は大いなる実りとして理解されていたのである。自然と「産む身体」はそれほど分化していなかった。



喜びと奇跡をもたらす「産む身体」への崇敬は縄文期の土偶にみてとれる。発掘された土偶の中におびただしい数の妊婦の像が見つかっている。古来より埋葬品とは聖なるものの象徴である。その品々は祈りであり供儀でもあった。また、魔除けとしての装飾品も大切に扱われた。


平均年齢が40歳に満たない時代の出産は大変であったろう。人々は妊婦と子の無事を願って、また、はからずも亡くなってしまった母や子を弔うために、こうした妊婦の土偶を作ったと思われるが、そうしたことも踏まえたうえで「産む身体」は神聖視されていたと思わずにはいられない。母(自然)とはすべての生みの親のことである。それが、聖性をもつものでなくて何であろう。



言語が整う前の話である。子の教育は父母がするのではなく自然が教えてくれる。子は父母の動きを見てその対応を学ぶ。日本的身体感性はこうした原始の関係性を内在化して磨かれていったものと僕は考えるのである。


列島大地に内包された女性的原理は日本民族が男性的エネルギーにシフトする以前に集合的な無意識領域に忍び込み、万全の体制を備えていったと言えるだろう。



地球規模でみれば「産む身体への崇敬」から「生きる身体への執念」のシフトは数万年をかけて徐々に進行していった。すべての生みの親である「自然」に従順を強いられる在りように業を煮やしたのは男性的原理である。生まれるのを待っているだけでは自然に支配されっぱなしではないか。生きる意欲としての男性原理は「冒険」に任を託した。



「冒険」には反自然も含まれる。余りに自然と連動した身体生理を有する女性に反自然は無理である。よって「冒険」は男性的原理を代表するものとしてあるだろう。


原始の時代、奇跡(出産)を指を加えて見ているしかなかった男たちのエネルギーが頭をもたげたのである。男性的な原理は、まず個(自分)を自然から引き剥がしにかかった。「私」という概念の登場である。


それは人間がはじめて独自の中心を得た瞬間であろう。ここから言葉が生まれ、コミュニケーションが多様になり、時間と空間の認識が変わり、内と外がはっきりし、過去と未来が遠望できるようになる。。


子供の成長過程に重なるこれらの事柄はみな「私」(子共そのもの)の構築に関与することからして理解されるだろう。つまり、人間は自然とは違う形で創造する方向に向かったのである。

身体と自然 13

身体と自然 13



母なる列島に頼り切った民族の幼児性という負の側面も含め、僕は圧倒的な女性原理に包まれた国として日本をみる。それは日本の女性が強いとか偉くて、男性が弱くだらしないというような一方の性の優位を語るものではない。


それは10万年以上も前に日本に渡って来た人々から、次々と上陸してきた来た人々がこの列島風土に暮らし続けてきて今に至る、その血肉から心の髄まで染まった色合いのことである。



原始時代の人間にとって、特に男性にとっての奇跡は子供の誕生であろう。子供を産むのは女性である。そして子供は母の乳により育っていく。男には産むということの機能も実感もないのに対して、自然の摂理により近い性として女性はいる。


太陽や月との関係において地球はあらゆるものを生み出してきた。水も風も雲も虹だって地球が生み出すものである。僕たちは地球そのものと地球が生み出すすべての現象を指して「自然」と呼んでいる。すなわち、地球自然とは「生み出す」ものである。



メスは原始単性生殖生物の直系であり、オスはその系からの枝分かれである。オスの分離によって生命世界はダイナミックな展開をみせはじめるのだが、「自然」とは「生み出すもの」である限りその中心は女性的原理であると言ってよい。


女性の身体メカニズムが潮の満ち干や月の運行と連動しながら、体内季節も日替わりの体内気候も有していることを見れば頷けると思う。

女性は身体生命の流れが自然に即したかたちで変幻する。しかし、自然はオスたちに生殖に必要な精子の保持のみを受け持たせた。


オス及び男性身体には生むという自然メカニズムがないのである。人間の男の生きる原動力となったのは過剰な性欲本能であった。極論だが、その方が分かり易い。


まだ人類が種として右往左往していた原始の時代、信じ難い出来事は人間の側に起こるのではなく自然の側に発生した。男たちにとって女性は「産む身体」という意味において自然の側であった。「自然」と「産む身体」は同じレベルで圧倒的な驚異であったに違いない。


列島の「自然精神」と「生む身体」(女性)は畏怖すべき存在として、見えないかたちで民族体内に刻まれていく。そのような見立てから、日本の自然の豊かさがいろいろなものの誕生として裏付けられる。それは女性原理の色合いが濃く浸透しているということになる。


そして、その女性的原理が日本民族の集合的な無意識領域に深く根を下ろしているとみるならば、得体の知れないものに「おんぶに抱っこ」する安心感も、無責任な事なかれ主義も、そのルーツは極め付きの「自然信仰」にあるのではないだろうか。


原始的アニミズムをもっと昇華した形で生き続けてきた「自然信仰」、その本質は「母性崇拝」とも呼べるものである。



自然(母性)を言祝ぎ、準備をして、ただ「生まれるのを待つ」ことに労を尽くす「自然信仰」の道は、当然ながら言語形成にも影響を及ぼした。日本の言葉は自然(母性)と個人を厳密に分ける言語的理性を鍛える方向にはいかなかった。



男性的な原理であるところの、個を立ち上がらせる言語(意識)が発達しなかったのは、「みんなと一緒」が重要だったからだ。「みんなと一緒」の「みんな」には他者のみならず「自然」が含まれているからである。


どこかで毛嫌いしながらも吸い込まれなびいていく「みんなと一緒」の場、日本民族の集団性に対する価値観はここに極まる。



言葉も独立を図る言語野からではなく小自然たる身体が大自然から紡ぎ出したものであった。それが日本の「うた」(言霊)の由来であろう。
日本は「~から独立を図る」という意思と経験が民族的にも個人的にもなかったのである。

身体と自然 12

身体と自然 12

「見ればわかる」ということは「言葉にしなくてもよい」ということではないが、日本人は「みる」ことの深い洞察に長けていた反面、言葉の力は情緒に流れていった。それを、自らの気持ちを土地と自然風景の移り変わりに結びつけての「うた」にみることができる。万葉集をはじめとして、古事記も、その後の数多の和歌集も。

日本人は歌って、謡って、詠ってきたのである。貴族だけに限らず、東国から派遣された防人のような一般の人まで歌を詠んだのである。
俳句や短歌もそのわずかに限られた文字に凝縮された深い思いを描写するが、それらは声に出して響かせ相手を越えて彼方(聖なるものや自然)に届けるものとしてあった。或いは、天地自然の姿にわが身の思いを重ねて湧き上がる情の浄化システムとしてあった。歌はほかならぬ「言霊」として理解されていた。


それこそ、自然と身体のエネルギーの調和なくして歌は生まれないのである。「言霊」とは、生きてる自然と生きてる身体の交響曲としての「うた」である。


彼らは土地そのものを言祝いだ。いろいろな歌に数々の地名が登場することからも察することができる。そこにも大地や故郷への愛着が見え隠れする。


だが、雲や月や草木花に喩える表現が発達する一方で、僕たちのロゴス(理性)は眠ったままである。現在の人類が地球上に現れて100万年、その何処かのポイントで人類は自らを自然から引き剥がしはじめた。自意識というものが強化され脳内には「客観」が殻を破って登場してきた。


人類は自分とそれ以外を分け、モノに名前をつけ、宇宙自然の摂理に人工的な仕組みを組み込んでいったわけだが、わが民族の文化文明の組み込み方はどこかなし崩し的なところがあるように思えてならない。
そのなし崩し的な感覚を別の言葉にすると、何か得体の知れないものに「おんぶに抱っこ」している妙な安心感である。


最近では、東日本大震災以降のエネルギー政策などに顕著にみられる。あの福島原発の事故の教訓は完全に風化してしまった。過去に対しても未来に対しても見事に責任を回避するその習性はどこからくるのだろう。問題が発生したとき、解決の道よりも、問題そのものをなきこととして処理しようとする事なかれ主義。


その事なかれ主義を支えている心性こそが列島環境と一枚岩になっているところの身体感性の負の側面ではないだろうか。民族がとりあえず単一で、海に囲まれ敵が隣り合わせにいなかったことも大きな要素だったと思われるが、ゼロから論理を組み立てたり、物事に対して「何故だろう?」という疑問からの突き詰めた回答を得ようとしない思考のパターンが最大の要因ではないかと僕は考えている。


そして、この思考のパターンこそが良くも悪くも日本の歴史を作り支えてきたのだと。得体の知れないものに「おんぶに抱っこ」する安心感、それこそが母なる列島に頼り切った民族の幼児性を示すものとしてある。

言葉にきちんと表現しなくても「見ればわかる」というのは、ほかならぬ母親のわが子に対する視線だったのである。

身体と自然 11

身体と自然 11


今と違って昔は、とにかく身体を動かし手足を使う労働しかなかった。報酬や収穫を得るための仕事以外にも、生活の一部始終が身体を動かすことで営まれた。そして、人間の等身大の力に答えてくれる柔らかさを日本の風土は備えていた。



要するに、日本人がよく働く民族なのは、働くことの大切さと意義を知恵として持っていたからではなく、人々の作業に多少なりとも成果をもたらしてくれた大地と海があったからである。みんなで力を合わせて土地を耕し水を引いて田や畑を作り、海では貝や魚を獲った。



加えて海山の景色は各季節ごとに彩りを変えて人々を引き付ける。ここに土地への愛着は極まる。つまり、大地に希望があったからこそ人々は身体を動かすことをいとわなかったのである。



僕はそうした大地と人間のエネルギー交流が日本人の勤勉さや真面目さを作り出していったと考える。仏教や儒教が民衆へと根付いた背景にはそうした身体感性があったからではないだろうか。しかし、大地や海からの等身大の贈り物は常に貧しさの範囲であったことも確かである。



貧しさから抜け出そうとする民族的移動も叶わぬまま、人々は生まれ育った土地に眠る先祖と共にあった。合理化された近代都市の形が人々の意識や生活を変えてしまったが、それでもつい昨日まで田舎の村のあちこちでは毎日草をむしる老婆の姿が風景に溶けていた。そして、日を置かずして先祖の墓に花を手向ける姿も。



日本人の身体感性は列島大地と結びつく。
どんな生命個体でもその当初から独自なものは何ひとつ存在しないことを考えると、日本民族の独自性も人の意志選択によるものではなく、地理地形や気候環境や出来事との相関で出来上がってきたはずだ。



「母なる大地」というが、恵みと豊かさと柔らかさ、いわば女性的原理を吸い込んだ日本の民族身体は精神にもその特徴を示す。それは、身体内感性の共通性をもってして、自己主張、或いは、自我の発達が軽んじられてしまったことである。


要するに「見ればわかる」範囲で是しとしてしまったのである。

身体と自然 10

身体と自然 10



ところで、一概に「身体で覚える」といっても、それは「見てみる」「聞いてみる」「嗅いでみる」「触ってみる」「味わってみる」の五感を総動員したところのこころみの「みる」なのである。この五感に切れ味を持たせることが身体を整えるということになる。匠の神技は五感の熟練からもたらされた。



祓い清めることによって場をしっかり整えるということは、人間においては身体を整えるということ。場とは身体を含むものでなければならない。



自然風土がヒトの身体を作る。それぞれの民族の身体的特徴は長い時間をかけたそれぞれの環境との創作物である。が、生きていく、生活していくというレベルにおいて身体内感性は外側に発動する意識や思考とタッグを組みながら、独特の習慣、文化を形成していく。日本列島は身体の研ぎ澄まされた五感を産むのに手頃な土壌であったのだ。



それは、自然に対して人々が寄り添いながら生きていける範囲にあったということである。人々が住む家は山の麓、谷あい、森の端、川の傍にあり、それぞれの集落をつなぐ道は地形に沿って作られた。川は直線に流れない。森の中も、山の中も真っ直ぐに往来ができない。よって、道はくねくねと曲がる。



僕の田舎もそうだが、少しでも高低差があると道は曲がる。高低差がなくても曲がっていたりする。沼地をかわし、高台を避け、森を迂回し、すでにある家々をよけながら道ができていく。それらの形は山に寄り添い、森に寄り添い、川に寄り添っているように見える。



日本の気候は一夜にしてジャングルと化すような熱帯や灼熱の砂漠や凍てつく大地ではない。まだ道具が粗末な時代であってもかろうじてなんとか身を守ることが可能な程度の過酷さであった。


身体生命を脅かさない自然の中では体内五感の許容度も広がるだろう。
それは、身の危険を察知する、或いは、獲物を嗅ぎつける外界に向けた鋭敏さではない。虫の音を情趣豊かに聴くことのできる耳などはその典型ではないだろうか。



もちろん数多の災害はあった。しかし、復興してきたのである。それは人間の努力を自然に反映させることができたからである。手作業の努力や工夫が報われる自然環境であった。手頃なコンパクトさをもつ自然は手間ひまかけるとそれに答えてくれる。それが自然との交流となり、自然エネルギーは自ずと身体にも流れ込んできた。



僕は武道のことはよくわからないが、合気道や柔道を創始した達人たちのビデオ映像を見ると、あのお爺さんたちの身のこなし方は、日本列島の呼吸を会得した身体リズムなのだと思う。


自分ではない何かに対する信頼が満ちているように思えてならないのだ。

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身体と自然 9

身体と自然 9



世界には紀元前数千年に文明が開いた地がいくつもある。
日本でも紀元前1万年には人が棲んでいたらしいが、それなりの人数が極東の小島に集まるには長い時を要したのだろう。
歴史が動き始めたのは紀元を跨いでからである。

...


それまでに、西の風に乗って朝鮮半島や大陸から流れてきた人や技術や食の糧や生活の利器があった。南方から海流に乗ってきたものもあったろう。
地理的に日本はどん詰まりである。これは日本的身体感性を考えるうえで重要なポイントだと僕は思っている。



風は西から吹いてくる。文明も西からやってきてやっとこさ我が列島に上陸する。東のどんづまり、そこから先へは流れない。それこそ吹き溜まりとなる。
上陸した情報や技術や品物の多くは大陸生まれの大陸育ちである。ほおって置けばぐちゃぐちゃになっていく。しかも、そのまま使うには使い勝手が悪い。



それはこじんまりとした柔らかい列島には合わない。ではどうしたか。
日本は他民族に征服されたことがないので、異邦人の風習を強制させられることがなかった。ということは、日本に流れてきた情報や技術や品物を自由に日本化することができた。つまり、日本風にアレンジしていった。ここに日本技術の特徴である「アレンジする力」が目覚めていった。



仏教にしても言語(漢字)にしても、近くは明治開国の西洋化にしても見事なアレンジを施し日本化していった。そうしたことに支配層と被支配層との極端な軋轢もなかった。そういう意味で日本はいつも一枚岩であった。それは情報が常に一方通行だったということ。ネットの広がりをもって初めて僕たちは双方向、多方向の世界を経験することになる。



難しいものは簡単に、大きなものは小さくして、より細部にこだわっていく。工芸品の極彩美、その肌めの細かさに頷けるだろう。広げたり付け加えるのではなく、もののエッセンス(ときには精神性のみ)を搾り出してコンパクトに収めていく。枯山水の竜安寺の石庭のように。



「身体で覚える」ための最初は「真似」である。真似るためには見なければならない。こうして「みる」力と「真似る」術を土台にして身体的感性の感度が磨かれていったのだ。



列島の自然から発せられるエネルギーは直接身体に内在化され、そのエネルギーは眼と手から「場と時間とに結合したもの」の内部を凝視し、工作していった。日本人の技術導入の卓越さは西から入ってくるものを受け入れ、真似て、アレンジして、独自のものに仕立て上げていくプロセスにある。
明治開国以来のアジアの他の国々との違いは眼と手にあったのだ。

身体と自然 8

身体と自然 8


長らく低迷している日本の経済状況の中で、盛んに叫ばれるのは「ものづくりの国、ニッポン」である。政治家は何も考えずに、単にこれまでがそうであったから、つまり、車や船や電化製品などを作って輸出して発展してきたことを指して、或いは、中小企業や町工場の作る製品のレベルが高いことを、今更に持ち上げて「ものを作ろう!」と連呼する。



政治家も官僚も財界も経済発展をしたのは自分たちリーダーがよかったからだと思ってはいないか。
たぶん彼らはそう思っているだろう。日本の繁栄は自分たちの力だと。
しかし、数字的な経済繁栄の裏で政治改革も行政改革もまったくのその場しのぎをしているうちに、農林水の第一次産業はボロボロになってしまった。それは生きてる自然を扱う産業であるのに。
それでも日本のGDPは世界第三位にある。そんな地位にあぐらをかいている政官財への文句は置いといて、



こんな資源もない極東の小国がなぜそれほどの豊かさを手に入れることができたのか。この「身体と自然」という拙論は、神話を復活させることではない。その「なぜ」を探ることにある。それは、現代の僕たちの自国への理解や民族性への理解を深めることを狙いとしている。



日本の繁栄はひとえに国民が「よく働く」からである。それはその通りである。
働く時間も長いが労働の質も高い。良いものを作るとかお客さんに喜んでもらうとかの労働意識が末端まで行き届いている。だが、僕たちは「日本人は勤勉な民族である」という理解で終わってはいないだろうか。その稀にみる勤勉さはどこからきたのだろう。



日本では人と自然の間に拒否反応がなかった。
過酷な冬も待っていれば、春が芽をふき、豊穣なる秋へと巡る「時」への信頼感があった。狩猟採集に適した山と貝や魚が豊富な海が接近している。四季がはっきりあって気候が温暖、水に恵まれ土壌が豊かである。海に囲まれて外敵が侵入しにくいし、外への脱出や侵略もしない。列島の大きさもほどほどだ。



飢饉で何も収穫がなかったからといって隣の部族を襲撃して略奪しようにも、その環境において列島は似たようなものであった。人間が暮らす条件としてここまで揃えば我慢に余りある。つまり、日本の自然環境は手を掛ければ掛けただけの形になり得る手頃さであったのだ。



そうした環境には「柔らかさ」がある。その代表が「木」であり「土」である。
石や岩や砂ではなく、細工がし易い柔らかい素材の中に棲んでいたということが、共同の作業を首尾よく可能にさせた。
この「柔らかさ」は日本の国土を包むオーラだと僕は考える。



「木」の国の湿り気は肌をも潤す。肌め(木目)が細かいという言葉もある。潤いの肌などと聞けば、身体内にうっとりするような感触が蘇えりはしないだろうか。
日本の自然環境は素材を生かし易いものだった。「素材を生かす」とは自然生命をそのまま生活や身体内に組み込むことに他ならない。


「食」にかんしては言わずもがなだが、名刹の大伽藍の柱や梁に使う大木にまで数百年後を見通して収縮やたわみを考え組み立てられた。千数百年を経て、法隆寺はいまだ健在である。古代の棟梁たちは木は切られても生きていることを見抜いていたのである。なんという「しなやか」な眼力と知恵だろうか。

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身体と自然 7

身体と自然 7


祓い清める作法は言葉を変えれば「掃除」することだ。日本では神社仏閣をはじめ、職人の仕事場や道具の手入れでも、稽古場や、道場でも「掃除」はまず第一義の作業となる。新人研修にトイレ掃除などをする会社もある。



日本において、なぜそれほどに「掃除」が重要視されたのか。古事記的にみれば、それは清めることから神が出現するということになる。僕ふうに言えば、ごちゃごちゃと乱雑な場では神の現われを見逃してしまうからである。



神が、或いは、聖なる時間がどのように現れるかは予想がつかない。日本の神は誰でもわかるような堂々とした姿で登場はしない。
神社やお寺に行けば、それぞれの偶像を拝む。しかし、日常で目の前に座す神様を信仰する人はいない。初詣をみればわかる。


日本人の神意識は、神々しい山々を別とすれば、ほのかな光の陰影や一瞬木々を揺らす風、わずかに聞こえる闇の音の察知にある。神はほんのちょっとした場の動きや風景の隙間をぬっておとづれるのである。その瞬間、連続しているはずの意識体が一瞬脱落する。



僕は昔からその瞬間を「人さらいの風が吹く」と表現しているのだが・・・一瞬の非日常において、身体も意識も心もリセットされる。そのための場作りが「掃除」なのである。時空を新しくするための「掃除」は自らの心身と場に神を招くための祈りの作法である。



「掃除」は生産的でも創造的でもない。面白くもなんともない。それは人の意図や意識以前の、つまり欲望を鎮める時間として設定される。そのために、かつてはどんな場所でも新規参入者は「掃除」を課せられたのである。そうした場を清める行において、神を見いだす眼と感じる肌を鍛えていった。それが一般に習慣化した「掃除」の意義である。



日本の「みる文化」は目を洗い清めるイザナキの行為に象徴されるような形で身体化していったと僕は考えている。駄洒落でもないが、場や身体が洗われることによって聖なる何かが現れるのである。



現在、学校では生徒が掃除をすることはないと聞く。
それは、子供から大人へと成長するときの通過儀礼を省略したということ。

見ることの深遠を記憶(生きた感覚)から記録(映像画面)に変換した。


僕たちは子供たちが大きくため息をする少しの時間さえ奪ってしまった。日本の伝統文化は単なる見世物になっていくだろう。いや、そう言えるのなら、世界の出来事がすべて見世物になっていく日は近い。

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