日青会にての支援活動、サポート活動、
また、法務、家庭と、時間が余裕のない状態が続いています。
被災地の現状を少しでも早く伝えたく続けてきましたが、
今の現状では続けて行くのは無理と判断致しました。
(苦渋の決断です)
尚、今後も支援活動は続けていくので、新しい情報提供等はしていけると思います。
情報が欲しい方はメールにて受け付けます。
これからも皆様の被災地への長期的な支援宜しくお願いします。
岩手日青会 拝
月末に、関東方面(神奈川二部・東京東部・東京南部)から多くの支援隊が来るという報告は、震災後一週間も経たないうちに耳にした。
この迅速なる対応に驚いたのを記憶する。
総勢20数名の支援隊が拠点区である遠野入りをした。
先日の災害対策会議にて物資拠点区と決まった智恩寺に2泊3日で活動をする。
岩手日青からは、西山、梅澤、阿部(眞)、鈴鹿がサポートに回ることとなる。
■大槌・蓮乗寺瓦礫撤去隊/11名
■火葬場読経回向/2名
■遺体安置所読経回向/4名
■石応寺炊き出し斑/3名
■物資輸送斑/8名
前日に、現地の被災情報や場所確認へ向かった支援隊。
活動当日28日はみんなの気持ちが自然と一つになっているのをヒシヒシと感じた。
朝、全員で物資の詰め込み、トラック2台、ワゴン車4台という大きな編成で大槌地区を回ることとなった。
前日の視察で物資があまり行き届いていない施設を回ることとなった。
最初に着いたのは、赤浜地区にある小学校。
ここの地区も、小さな集落故なのか・・・、あまり物資が行っていない模様。
小さな地区は本当に後回しにされている現状をまた目にした。
この小学校が拠点区となり、この地区4箇所の小さな避難所に物資を分配しているというシステム。
持ってきた物資から、必要なモノを取ってもらい、ドンドン降ろした。
漁村に見られる若者不足なのか、荷物下ろしを手伝ってくれた地元の方々は60~80代に見えた。
小学校は2階部分まで(2階までしかない)、津波に襲われ、流された車などが教室に入っていた。
無邪気に遊んでいる子供の声。
これがとても救いになっていると聞いた。
この小学校近隣の自宅に避難している人達ともふれ合うことが出来たのだが、この末端部分の避難者には物資はほとんど行っていない状況を確認した。
小さな子供を抱えた何家族が出てきており、オムツ、粉ミルク、ベビー用品を渡してきた。
他の場所では、もう間に合ってるとも言われた、オムツ、粉ミルク、ベビー用品。
まだまだ必要な人は多そうだ。
次に向かったのは、避難所となっている老後保養施設を2箇所。
ここも着いてみて色々聞いたのだが、要望した物資が中々手に入らないという。
自衛隊の方に、必要な個数と物資を書いて毎日渡すシステムらしいのだが、希望した物資がなければ何日経っても届かないという状況だった。
とにかく、吉里吉里地区に近いこのエリアの道路は酷い状態だった。
道無き道を行って、避難所まで行ったことを記憶する。
最後に着いたのが吉里吉里地区の乳児園。
保母さんが7~8名程が震災後毎日寝泊まりしているという。
子供のおもちゃ、絵本などが大変喜ばれた。
勿論、野菜果物類も大変貴重だと言うことも。
今回まわって断られ続けた物資があった。
それは、「お米」
自分も色々と2週間近く回ってきたのだが、お米は自衛隊や自治体の方々が一番最初に大量に配って歩いた印象が強い。
今回関東から来た支援隊の物資は多さは計り知れない。
地元では殆ど手に入らなかったものが目の前に沢山あったのは感動だった。
本日も、同じような班編制で支援隊は動くようである。
そして、記事を書いている頃には、無事に地元に戻られただろうか。
今回限りとせず、また来て欲しいと思う。
長期的な支援が大変重要だと思うので。
もちろん、皆様はまた来ると行って固い握手をしてくれました。
関東からきた支援隊の皆様、本当に感謝致します。
大震災から2週間が過ぎた。
2週間を過ぎても、被災地では満たされている人は誰もいないと思う。
そして、今日全国日青から伊藤会長が岩手を視察しに来た。
この現状を是非知ってもらいたく、西山と梅澤が同行した。
その日には、東北ブロック長の飛鳥上人と青森立正日青会有志が大量の物資を持って合流した。
頼もしい面々とともに沿岸部へと向った。
釜石方面の寺院に物資を置きながら、寺院ごとに一読して回る。
この日は、初めて遺体安置所で一読もした。
廃校となった体育館に多くの棺桶が置かれていた。
外も春とは思えぬ寒さだったが、その安置所の空気はもっと冷たく感じられ、何時も感じている空気とは全く違うものを感じた。
余りの情景にみんな言葉を失い、唯々涙が流れた。
釜石市内を後にして、鵜住居地区へと入った。
震災後始めていった鵜住居地区は、ほとんど片付けが行われていない状態。
2週間経ったのに、まだ何もされていない様子。
大津波の水が引いた状態がそのまま残されていた。
小さな集落は後回しにされている現状を見た。
鵜住居地区の本行寺へ向かった。
本行寺ではお寺の前頭部支柱が割れて斜めに傾いてしまったという。
宇野秀行上人の安否がきちんと確認できた。
また、境内地手前で津波が止まった様を目にした。
好天だった気候が大雪へと変わった山田地区。
物資があまり上手く回ってないな地区の印象が強い。
今回も、青森から来た大量の物資を善慶寺、瑞然寺に渡された。
2週間たって、寺族の方から少し笑顔が見れたのが救いであった。
一日をかけて、釜石~鵜住居~山田を回った。
全日青会長はこの被災地の現状をみて、色々と思い考えたことが多かったのだろう。
帰りの車の中は、今後の色々な可能性を求めての小さな会議になっていた。
この思いを中央に持ち帰り、目に焼き付けた現状を全国の青年僧に伝えるべく、色々と討議してもらいたいと切に思った。
最後に、青森立正日青会が持ってきた物資は事前の情報と、被災して2週間経ったと言う現状を考慮している物資が多かった。
この事前における行動が、被災地では大変頼もしいのとなる。
今回目立って良かったと思えたのが、医薬品、子供達の本だった。
勿論、食料物資はまだまだ必要なのは現実だ。
釜石市の発表で3/25の身元不明者の土葬は延期となった。
様々なことが二転三転する状況である。
日高寺の檀家でも秋田県で火葬されてから葬儀依頼の連絡がきたり、情報の把握も混乱している。
スーパーやドラッグストアなど、残った店に関しては通常営業されている。とはいっても、営業時間が夕方までが多く商品棚も空きが多い。
食料に関しては流通が出来てきたようだ。
津波被害のあった地域の店に関しては営業が困難で、市の物資配給所より提供されている。
日高寺のペット斎場は、燃料補給が出来ないため震災発生の11日から休止していた。
それでも問い合わせが多く、「津波で残った家のリビングで死んでいた」「庭で死んでいた」など、10日以上もペットの遺体を保管していた飼い主が多くいた。
しかし、燃料の供給の見通しがたっておらず20件以上ものペット火葬を断っていた。
被災から13日目、断る事に我慢が出来ずペット火葬場を動かす事になった。
飼い主が灯油持参で火葬をすることになった。
現在のところ3頭の犬猫を火葬し、次々と予約が入っている。
取引先のスタンドに問い合わせたところ、そろそろ灯油の見通しがでてきた話を聞く。
配達が困難なため、自分で取りに行く形での調達となる。
動物炉の燃料タンクには灯油20缶分の燃料が入り、これが安定すれば通常再開できる。
「人間でも手一杯なのに、動物まで対応は・・・・・」これが周りの現実。
しかしペットも家族同様であり、それらの大勢の声で作ったのがペット斎場ではないか。
人間の余裕や偽善がもたらした産物とでも言うのか。
私はこの事態だからこそ、悲しみを少しでも減らしていきたい。
避難所となっている仙壽院様では、少しずつではあるが避難者が減りつつある。
安否が確認でき再会を喜ぶ方はもちろんのこと、出産など数々のドラマがあったようだ。
詳しくは落ち着かなくては話も聞けない状態なので、後に芝崎上人からお聞きしたいと思う。
テレビの取材などあらゆるメディアからお寺の避難所が流されている。
山田町の避難所である善慶寺様の三浦副住職と携帯電話がつながり現状の確認ができた。
まったく外には出られないという。
店なども津波で全て無く、買出しなどが出来ないため配給所などから物資を調達するしかない。
現在も電気が来てない為、自衛隊が提供した発電機でしのいでいるという。
岩手県宗務所災害対策本部より連絡があり、日蓮宗災害復興有志ネットの皆様が岩手に入るという。
3/28~30までの期間、約20名の僧侶・寺族が活動する予定だそうだ。
一度、遠野市智恩寺様に集合しそこから各地へちらばる。
物資の運搬、炊き出しの手伝い、火葬場で供養する僧侶の派遣などしていただけるとのこと。
本当にありがたい。 私も檀家の葬儀、被災ペットの火葬、市の火葬場での供養、、、あらゆる事が山積みな今日、本当に助かる話である。
岩手日青会 事務局長 菊地錬城(釜石・日高寺)