いわき市  元 市議会議員  山本健一 活動ブログ
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航空母艦信濃の最期

航空母艦信濃が沈んだのは、
大和の後かと、何気なく思っていましたが、
大和が沈む前に、信濃は沈んでいました。

武蔵沈没 昭和19年10月24日
信濃沈没 昭和19年11月29日
大和沈没 昭和20年4月7日

信濃は、横須賀で起工、建造されていましたが、
竣工の前に、呉に送られることになりました。

東京湾で公試運転するまで建造は進んでいたので、
送られる、といっても自走で呉まで航海することになります。

昭和19年11月29日、午前3時13分、
アメリカ海軍の潜水艦、アーチャーフィッシュは
横須賀から呉に向かっている信濃に魚雷6本を発射します。
そのうち4本が、信濃の右舷に命中しました。

呉に向かっていたのに、
なんで右舷なんですかね?
アーチャーフィッシュは、信濃より陸側に占位していたのかな?

被雷地点は、浜名湖の南、176㎞の沖合。
早速、浸水箇所の防水、傾斜を防ぐために、左舷に注水しますが、
抗堪性ままならず、浸水は続き、被雷から約7時間30分後の
午前10時57分、当時世界最大の航空母艦信濃は波間に姿を没します。
沈没地点は、潮岬沖。

信濃を横須賀から呉に回航したのは、
空襲を避けるためだったようですが、
その後、呉は空襲の難に遭いますが、
横須賀は目立った空襲はありません。

呉に回すことがなければ、
戦没することはなく、
その雄姿は戦後まで残っていたでしょうに、
まことにもったいない限りです。

 

戦艦大和 武蔵

戦艦大和の姉妹艦は3隻。
大和、武蔵、信濃。

信濃は、建造の途中から
航空母艦に改造されたので、
姉妹艦といえるかというと微妙ですが、
まあ、船体は大和型なのでここでは姉妹艦としましょう。

最初に、武蔵が沈みました。
フィリピンのシブヤン海というところです。

両舷に20本以上の航空魚雷が命中し、
自慢の抗堪性(こうたんせい)にも限界があり、
世界最大の戦艦も敢え無く沈没しました。

時に昭和19年10月24日、
19時35分。

しかし、抗堪性が強いことも事実で、
1025の最初の被雷から、1935の沈没まで、
実に9時間以上、対空戦闘を継続しながら、
浮いていたのです。

アメリカの海軍航空隊首脳は、
なかなか沈まない大和型戦艦の抗堪性を考慮し、
もう一隻残る大和型を攻撃する際は、
雷撃は片舷に集中するよう、雷撃隊に指示します。

武蔵沈没から165日後、
昭和20年4月7日、
大和が沈みます。

アメリカ雷撃隊の作戦通り、
魚雷は片舷に集中し、
十数本の命中魚雷のうち、そのほとんどが左舷に集中しました。

左舷に集中した浸水は、抗堪性の発揮もままならず、
戦闘開始から、僅か2時間で、
大和は力尽き、東シナ海にその姿を没しました。

 

空母信濃については、

次回に。

 

ブログ再開!

まことに久しぶりに、

ブログを書いてみようと思いました。

 

本日令和2年11月19日、

ある講演を聞きました。

 

講演者は、

戦艦大和は不沈艦であることの説明として、

大和の抗堪性(こうたんせい)について、

お話しされていました。

 

抗堪性とは、被害を受けても、

戦闘能力を維持する、

やられ強いというような意味です。

 

お話しされていた方は

抗堪性という言葉は使っていませんでしたが、

以下は、まあ、抗堪性のことですね。


大和は片舷に魚雷を受けて浸水しても、

反対側の注排水区画に注水してバランスを保ち、

横倒し、転覆を防ぐんですよ、

とのこと。

 

そんな説明、受けるまでもないなあ、

と感じていたところ、

隣の比較的若い人が、

へぇっと感心至極でした。

 

むむ、そうかこの程度のお話でも、

中には感心してくれる人もいるのかと、

わたしはそちらに感心しました。

 

ということで、

不肖山健のお話でも、

へぇっと感心してくれる奇特な人がきっといると思い、

綴ってみようと思った次第です。

 

次のブログに大和の抗堪性は如何に、

を書いてみたいと思います。

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