2024/5/4に、劇団 デマチカヤナギ第3回公演「恋のラストアドバイス」を観てきました。

https://murakami-kyoto.blogspot.com/2024/03/2024324.html

 

 

概要は以下の通り。

 

全体的にテンポよくスピード感がある内容でした。

加えて、会議室サイズだからこそ演者の表情が非常にわかり、

面白いというより興味深いというのが表現が合うかもしれない、と思いました。

(逆に、演者は細かなところまで意識を向け続ける必要があるので大変かも?という気も)

 

 

さて、思ったのは、

  • ①アドバイスは一方通行、コミニュケーションは双方向、
  • ②未知への不安は動けない、
  • ③死へのカウントダウン、
  • ④リアルとバーチャル

など。

 

 

 

> ①アドバイスは一方通行、コミニュケーションは双方向、②未知への不安は動けない

 

本作では、「恋のラストアドバイス」というタイトルの通り、幾つかの恋愛関係にある男女が出てきます。

当然、恋愛のベースにはコミュニケーションがあると思います。

それだけでは、法律相談所の社長に憧れて突撃してくる人、過去に恋がらみでぶつかり合った人たち、

日本人同士だけではなく国籍を超えた恋愛なども登場し、

これら全員コミニュケーションの変化、関係性の変化がポイントになっていると思いました。

 

人が生きていくうえで、コミュニケーションは大事なのは言うまでもありませんが、

実際には、

①コミュニケーション出来ていると思い込んでいるだけかも??

②コミュニケーションが取れていないのに、それなりに問題無く物事が進む、人生の時間は過ぎてしまってる??

そんな風にも思いました。

 

ここで、①のコミニュケーションが取れていると思い込んでいるとは、

例えば、本作では自分本位で相手のことを考えていない恋愛がその状態にあると思いました。

また、②のコミニュケーションが取れていないのにそれなりに進んでしまうというのは、

相手と繋がろうとしない(繋がれない)、相手を知ろうとしないということでは無いか?と思いました。

 

本作の中では、登場人物の多くが、

「自分勝手で双方向のコミュニケーションになっていない」状態から、

「相互に思いやるコミュニケーション」に変わっていったと感じました。

特に恋愛のケースでは、「相手を思い過ぎることで生じる失敗」と「別の相手に思ってもらうことによる気付き」で人は変わっていくものだという気がしました。

 

このことは、

 多くの人は認知が偏るが、その偏りが過ちを生む場合があることを知ること

 周りの人から良い影響を受けることで人は変われるということ

と意味を広げると

人とのコミュニケーションや行動が偏りを正す大事なきっかけになるのだろうな、と。

 

日々、「コミュニケーション→失敗→修正→コミュニケーション→。。。」の繰り返し。

 

 

他にも、夫婦関係の記念日に関するコミュニケーション問題、あるいは、過去にトラブルがあった知人関係の問題。

問題が小さいうちに会話していれば大きな問題になる前に沈静化していただろうことや、

過去のいざこざも早いうちに対話していれば解決していただろうということを思わされました。

 

前者はそもそも過ちに気付いていないので問題として気付くことが難しいですが、

常日頃から関係性を大事にするには?という観点があれば防ぐことができたのではないか?と感じます。

また、後者は「未知への不安には動けない」と言う感じのセリフがあった通り、

相手が悪く思っているだろうという先入観、ある種の恐怖があると対話する行為を行えない。

というか、これは現実にもよく起きそうで、先延ばしするだろうと自分事としても捉えられる。

これも思考が偏っていることによる問題と言えそうな気がする。

 

先に書いた「法律相談所の社長に憧れて突撃してくる人」もある種の一方的な恋愛であり、

思い込みの強い状態なのかもしれない。

「あなたのために自分がこれまでこれだけ頑張ってきたのだから受け入れられるに値する人間だ」

という見方も出来る。”高学歴”なのがその前振りとなっている?

社長からすると「知らんがな」ですが。

現実でも、評価されないと感じている人って似たような傾向にある側面もあって。 

相手の興味・あるいは会社の評価軸やものさしと違う路線が頑張っても価値を理解されないわけで。

受け入れられない理由がわからないまま時間が過ぎるのでここは気をつけねばと改めて振り返った。

なお、この「突撃してきた人」も、恋愛一直に憧れたなら心理学、カウンセリング、対話術的な路線でキャリアを積んでおけば良いのに、というマジレスしておく。

 

さらに、別のコミュニケーションの壁として言語がある。

劇中でも、日本語が通じない相手に「日本語が通じない」ということを陽に示さずに、

前半で「部屋の片づけがかみ合っていない」シーンが振りになって、

その後、通訳が必要だったという流れに繋がる。

(この片付けのシーンが前振り(と勝手に思っているが)になっているのでは?と、

 終わってからの振り返りで気付いてちょっとニヤっとした)

 

言語の壁がなくなったときに、コミュニケーションが取れることでこれまで気づけなかった気持ちに気付けたことは、

今までの自分がダメだったわけでは無い、と気づけた、あるいは大人へと成長した瞬間なのかもとも思う。

これも自尊心とか、自分は上手くできないとかいう思い込みがあるのかも(そういうセリフもあった気がする)。

 

色々なミスコミュニケーションがあり、いずれも、自分中心というか狭い世界で物事を見ていたが、

色んな関わりや出会いの中で変化していく様子を観れた気がする。

一方の偏りを無くす、というのだけではなく、他方が偏っている相手を許すというのもあった気がする。

例えば、「法律相談所の社長に憧れて突撃してくる人」は、社長が相手を許したケースかもしれない。

相互理解には、どちらか一方が変化しなければならないということは無いのかも。

 

コミュニケーションは自分本位ではダメで、相手あってのこと。

そこには、心理的な壁、言語的な壁があったとしても、

相手と繋がろうという気づかいが大事。

日々変わる相手を相互理解し続け、互いを歩み寄ること。

その手段がコミュニケーションなのかもしれないとふと思った。

 

逆に、アドバイスは、特定の瞬間、一方通行、情報の伝達、だけの場合でも成り立つことも多いので、

それらの幾つかの観点でも対比できそうな気もした。(が、長くなるので考えない)

 

 

>③死へのカウントダウン、④リアルとバーチャル、などなど。

 

「死へのカウントダウン」?は何回も出てくるので重要ワードと思う。

何回も出てくるので、それぞれ意味が違うのかもと思った(が、どういう場面で出てきたかの詳細は記憶に無いので、、、)

後付けで意味を考えると、

「後悔するな」とか「挑戦しろ」とか

そういうニュアンスが込められているのかもと思った。あるいは「急げ」か。

相手の年齢・立場・状況によって意味が変わる抽象的な言葉って面白いかもと思った。

 

 

>リアルとバーチャルについて

 

①マッチングアプリの話、②LINE(だけ)で告白するのみ、③タクシーをアプリで呼ぶ、

あたりを思い出して書き出した項目。

 

特に、①、②は、便利だけど浅いという見方もできるかな、と。

最初の方に述べたコミュニケーションに関することに繋がるが、

「深い」相互理解のためには、人と人がリアルで会って対話することが大事ということかも。

コロナ渦も過ぎた後、

オンラインが便利だ・出社強制する会社はNGというような声も上がる中でのコミュニケーションの重要性を再評価してもどう?と問うているような気もした。

仕事的にいうと心理的安全性とかとも関連しそう。

 

 

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↑で書いたごちゃごちゃをChatGPTに整理してもらった。

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プロンプト:

#役割 

・あなたは優秀な演劇コメンテーターです。 

--- 

#出力依頼 

・#{入力}に書かれた文章を読み、#{制約}を満たすコメントを作成してください。

 --- 

#制約

 ・要約を最長1000字でまとめる。

 ・複数の段落に分かれている内容の項目は必ず精査したうえで要約に含める。

・一般的な話題と#{入力}の内容を絡めて、劇を観ていない人にも内容を理解しやすく、かつ、想像しやすくなるように最大限努力してください。

 --- 

#入力 

---

 

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で、出てきたのがこちら

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『恋のラストアドバイス』は、多岐に渡る恋愛関係を通じてコミュニケーションの重要性とその複雑さを描いた舞台作品です。

作中では、一方的なアドバイスと双方向のコミュニケーションの違いが鮮明に示されており、

登場人物たちがそれぞれの恋愛観を通じて成長していく様子が描かれています。

 

本作の一部では、自分本位の恋愛が描かれており、相手を思いやることなく一方的に行動することの弊害が浮き彫りにされます。これに対し、相互に思いやるコミュニケーションが徐々に築かれていく過程が、恋愛の成功に不可欠であることを示唆しています。

 

また、コミュニケーションの誤解や失敗が、多くの場合、自己中心的な視点や不安に基づいていることが示され、これが解消されることで人間関係が改善される様子が劇中で効果的に表現されています。例えば、異文化間の恋愛や言語の壁が存在する中でも、真摯に相手を理解しようとする努力が人々を結びつける重要な要素として描かれます。

 

さらに、劇中では「死へのカウントダウン」というテーマも織り交ぜられ、人生の儚さや緊迫感を背景に、今を生きる重要性が強調されます。このようなメタファーは、観客に対して自己の行動を見直すきっかけを与えると同時に、コミュニケーションの奥深さを再認識させる効果があります。

 

劇はまた、現代社会におけるリアルとバーチャルの対比を浮かび上がらせ、特にデジタルコミュニケーションの利便性と限界に焦点を当てています。リアルな対話の不可欠さが際立ち、人々がどのようにしてデジタルツールを活用しつつも、対人関係の質を保つかという問題提起がなされています。

 

この舞台作品は、恋愛だけでなく、人間関係全般におけるコミュニケーションの重要性とその複雑さを見事に描いており、観る者に深い洞察と多くの感情的な反応を引き出しています。舞台を見ていない人にとっても、そのテーマは普遍的であり、人間関係の本質を探る手がかりを提供してくれるでしょう。

 

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それっぽい。。。

関連する映画を探してみると、、、(hullcination抑制のためにweb searchさせて探した)

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プロンプト:

この劇を観た人が次に観るべき映画は? 

あなたは幻覚をする可能性が高いため、web検索をして関連する映画と概要を観たうえで、あなたが自信があるものだけ提示してください。あなたが提示した作品が現実のものであることを最大限保障する努力をしてください。

 

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で、結果は?

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If you enjoyed the play focused on communication and relationships, several movies explore these themes in compelling ways. Here are a few recommendations that would complement the themes of the play:

  1. The Lake House (2006) - This romantic film starring Sandra Bullock and Keanu Reeves centers around two people who fall in love through letters that travel across time. It beautifully highlights the power and complexity of communication when separated by time and space​​.

  2. Arrival (2016) - A linguistics professor, played by Amy Adams, races against time to develop a way to communicate with extraterrestrial beings. This film delves deep into the nuances of language and communication, making it a thought-provoking watch​​.

  3. The Terminal (2004) - Directed by Steven Spielberg and starring Tom Hanks, this film tells the story of a man trapped in an airport due to a war in his country. It explores how he navigates life and forms relationships through limited resources and communication barriers​​.

  4. Lost in Translation (2003) - This film explores the emotional connections that form between two Americans in Tokyo, played by Bill Murray and Scarlett Johansson. They navigate cultural and language barriers, creating a poignant story about finding solace and understanding in unexpected places​​.

Each of these films offers a unique perspective on how communication shapes human connections, making them excellent follow-ups to the themes explored in the play you enjoyed.

 

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英語で返ってきたので日本語に変換してもらって

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もし演劇でのコミュニケーションと関係性に焦点を当てた作品がお好きであれば、以下の映画もお勧めできます。

これらの映画は、それぞれ独自の視点から人間関係を形作るコミュニケーションの重要性を探求しています:

  1. 湖畔の家(2006年) - サンドラ・ブロックとキアヌ・リーブスが出演するこのロマンティックな映画は、時間を超えて手紙を通じて恋に落ちる二人の人物を中心に展開します。時間と空間に隔てられた状況下でのコミュニケーションの力と複雑さを美しく描いています​​。

  2. メッセージ(2016年) - 言語学教授であるエイミー・アダムスが演じる主人公が、地球外生命体とのコミュニケーション方法を開発するために時間との競争に挑む様子を描いた作品です。言語とコミュニケーションの微妙なニュアンスに深く切り込むことで、考えさせられる内容になっています​​。

  3. ターミナル(2004年) - スティーヴン・スピルバーグ監督がトム・ハンクス主演でおくるこの映画は、故郷の戦争のために空港で立ち往生する男の物語を描いています。限られた資源とコミュニケーションの障壁を通じて、どのようにして生活を送り、人間関係を築いていくかが探求されます​​。

  4. ロスト・イン・トランスレーション(2003年) - この映画は、東京で出会った二人のアメリカ人、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンが演じるキャラクターが文化や言語の壁を乗り越えて感情的なつながりを深めていく様子を描いています。予期せぬ場所で理解と慰めを見つけるという感動的な物語です​​。

これらの映画は、コミュニケーションが人間関係をどのように形成するかについてのユニークな視点を提供しており、演劇で楽しまれたテーマにぴったりの続きとなるでしょう。

 

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だそうです。

 

http://bkd-hotnews.seesaa.net/article/502177222.html

2023年3月23日、松原市で開催された「Switch」を鑑賞しました。この公演は、市が主催する自殺予防月間の一環として毎年異なるテーマで行われています。

 

 

 

オフィシャルページに書かれているあらすじは以下の通り,


進学校として有名な松沢高校の放課後。

とある教室では教員達が、悩んでいる人に気づき声をかけ、話を聞いて、

必要な支援につなげ見守る人=『ゲートキーパー』についての研修を受けていた。

そんな中、一人の教師が呟く。「私たち大人は、いつも子ども達の話を聞けているのだろうか?」と。 

教員達は今まで言えなかったお互いの仕事への想いをぶつけあい始める。

一方、演劇部の部室ではミスして惨敗した大会での反省会が行われていた。

「こんな事、大人には相談出来ない。先生なんて一番信用できない」と生徒同士で互いを責め傷つけあう中、

ついには辞める事を決意する部員まで出てしまう・・・。

同じ学校の2つの密室。大人と子ども。先生と生徒。

親と子。相反する2つが交差し、出会う時に生まれる物語とは?

ステージタイガーがお送りする、優しく、温かく、ちょっと笑えて涙が滲む、

人間の繋がりを考える演劇。


さて、ここには思いつくままに書いた整理されていない感想を記する。

この作品は、教師と生徒、大人と子どもの間に存在するギャップを浮き彫りにするものである。

この演劇は、温かく、時には笑いと涙が交じり合う人間関係を描き、観客に深い共感を呼ぶ。

登場人物が抱える悩みの源について再考する。

例えば、劇中では以下のような状況が描かれている。

  • 演劇部の部長とメンバーの間には、責任感と期待値の違いがある。
  • キャンディとレンレンには、他人に知られてはならないという秘密がある。
  • 古木は学生との関係を諦めてしまった。
  • 生徒会長は演劇部のメンバーとの間に体力差があるかもしれない。もしくは家庭での休息不足が貧血の原因かもしれない。
  • 生徒会長は他の生徒会メンバーが練習に参加しないため、責任を感じている。
  • 生徒会長は家庭内で常に良い子を演じなければならないというプレッシャーを感じている。

これらを振り返ると、「この行為をしたとき、この状況になったとき、周囲からどう見られるだろうか」,

「自分がしなければならない、してはいけないことはXXだ」という勝手な思考によるもので,

多くが無意識のうちに行われるものである.この、無意識であるというのが曲者である.

また、相手のためを思って行動することもあるが、それも自己保身につながることも多いようである。

 

特に部長のように、自分自身が自分を追い込むケースも見られる。

例えば、演劇部の部長は、メンバーの期待値を勝手に想像し、それに負けた自分が周囲から責められるのではないかと心配している。キャンディとレンレンについても、周りからどう見られるかということを勝手に想像して、見られ方について過剰に考えていたり、古木も自分には出来たはずだったという後悔の裏にある期待感があったのかもしれない。生徒会長は周りのメンバが出ないから自分が責任をもって練習に出ないといけない。親を困らせてはならないというのもあったかも。

 

これらの問題に対する解決策としては、話を聞いてあげることが一つの方法であるが、これらの問題を生じさせないための対策も重要である。失敗してはいけない、相手に迷惑をかけるなど、勝手に(時には不健全に)期待値を高めたり、自分に厳しくなることが、問題を複雑にする原因である。

 

まとめると、自分自身が無意識に作り上げたルールに固執していることが、多くの問題を生じさせている。

 

先日読んだ「成瀬は天下をとりにいく」「成瀬は信じた道をいく」という本屋大賞を撮った作品の中で、主人公が他人と異なる行動を取ることで孤立するも、それを問題とは思わず、自らの目標に向かって進んでいく。これは、私たちが「失敗は終わりではない」と捉え、長い目で見るべきだという教訓を含んでいる。

成瀬には200年生きるという目標と、それ以外にもM-1に出る目標と大津西武の閉店まで毎日地元のローカル局の中継に出続けることとという,ちょっとした思いつきで目標を決めて目指して、失敗するのは当然だ、というスタンスで動いて、

要するに周りがどう思うかよりも失敗前提で自分が納得すれば良いという思考と行動に柔軟性があるのか、と、今書きながら思った。

 

これを現実世界で実践するのが難しいとはいえ、経験を通じて他の可能性を見ることができれば、大抵のことはより小さなものとして捉えられるようになるだろう。

そのためには、「ゲートキーパー」として、他の視点を提供することで仮想的な経験を増やし、起きたことの見方を変える手助けをすることも重要である。

 

 

ゲートキーパーというと大袈裟だが、自分も立場的にそういうことができると良いなと思った。

 

12月9日にラブエリミネーションを観劇。

バタバタしてて時間がたってしまったが、その台本を見て振り返りながら。

 

 

---

 

「上演パンフレットのごあいさつ」を見て、、、

”ゴシック体で「トラウマ」と殴り書き”という箇所について、

「ゴシック体」とフォントを指定したのは何故だろうか、と。

 

調べてみると↓のよう。

 

”クリアな視認性”がここでの意図に合いそうな気が。

”黒いモヤに包まれた”の後の文章で”クリアな視認性”の意図が出てくる対比、

意図じゃない気がするが、なんか面白い。

 

ーー

 

 

いかん、台本の1ページ目の1段落目から考えすぎた。

 

 

 

ーーー

最初の最初で、前輪を修理?しているところは何かあるだろうと予測していたものの、

その後の「SNSって怖いな。すぐ繋がっちゃいますもんね」なクダリ。

 

後々のゴタゴタに関連するというフリでもあるが、

SNSを普段使わない人にとっても、SNSとはどんな影響があるかを伝えておくことで、

万人に事前情報を与えているのかも?と思った。

 

それとは別に、えりみの「峠、人死ぬんで」「無理したらめっちゃイライラするんで」

「マシントラブルなどあればまた共有してください」というセリフ。

 

今思うと、様々なフラグ立ててたんだ、と振り返って思う。

何事もイントロ大事。

 

でも、このフラグや説明に気付かなかったからと言って問題は無いが、

もし気付いたら、ストーリーの中で別シーンとの紐づけができる面白さがありそう。

これって、普段の生活で起きることも、そういう紐づけの連続かもね、と思ってみたり。

(コネクティングドッツ的な)

 

そういえば、ドラマ「セクシー田中さん」第8話 倉橋朱里ののセリフ

「そういうことなんじゃないかって思うんです。たとえば、コンビニのスイーツが美味しかった。眉がキレイに描けた。一つ一つは些細(ささい)だけど、たくさん集めると生きる理由になるじゃないですか」

を思い出した。関係無い話だが、後述する小さな?ゴタゴタに対しても、

色々あるけど、それを小さく超えた先に何かあるような気もするし無い気もする。

 

 

ーー

土曜の価値への拘り:

中盤と最後に「土曜の価値」についての拘りが出てくる。

この話題以外にも全体を通して、

「失って気付く大事さ」みたいなものが散りばめられているのかも?と思った。

 

カップル同士のイザコザ、えりみとぬりえの関係など。

 

その話で考えるとぬりえさんの「みんな普段自転車点検しているか?、、、」のくだり。

自転車以外のメタファーもありそうな気が。

 

例えば、この劇では人間関係のメンテナンスとか。

リカの家族に対する怒りもその一つ。

 

色んな人間関係のギスギスが、錆びついた自転車のギスギスに繋がる?という狙いがあるかどうかは分からないが、

そういう見方も出来そうな気が。

 

さらに、岡田の「違うパーツ、違うパーツで、どんどんなくなって、、、」のくだりで、、

なんだろう、もはや自転車の各部品がそれぞれの人たちで、

ますます自転車が壊れることと人間関係が壊れることが繋がっているかも?と。

 

先に書いたコネクティングドッツ的な話も、個人としての経験の繋がりだけじゃなく、

他人との繋がりで線が面になるのかも、とか思って、

その感覚で劇も周りも見直すと色々面白い気がする。

 

ーーー

ぬりえさんの「結局無調になれる人間がキツイ坂、超えられる」のくだり。

これ以外にもぬりえさん、いいこと言っている気がする。

自分的にはぬりえさんが一位(?)

5月5日に,京都東部いきいいき市民活動センター集会室に,Graet Good Place, グレイト・グット・プレイスを観てきました.

 

 

 

【あらすじ】

舞台は、晩春の頃。とある山の大空陽子のアジト。ここを拠点に生活する者たちが、

今夜も音楽に酒に揚げ物に楽しく酔いしれている。

そこへ迷い込んでくる<地方への移住体験>に来たOLと受け入れ先の方、

それに崖の上で何時間も立つ女。いずれもこのアジトに運命的に出会っていくのだが…。

 

 

一番印象に残ったのは,森山,仲本の間に亀裂が入り,その亀裂の修復しようとする場面.

遠くを見る目線.

(多分)仲本は一点の犬を見つめている.

(多分)一方,森本は探すような,やや遠い方向を視線を変えながら見ている.

さらに,恐怖 vs 苛立ちなどベースとなる感情の温度差など,多分,対比構造を解像度あげて見てみると面白い気がする.

 


 

亀裂の発端を妄想で言うと,

仲本の行為に対して森本が思う度合いと,仲本が自身行為に対して感じた度合いのギャップ.

仲本の中で,忘れられずに溜まっていたものが,信頼が裏切られたという思いと重なって爆発.

このとき,森本は勘違いと伝えようとするが,この度合いのギャップが大きいと聞き入れられない.

バイアスに支配された状態で生まれた大きな二項対立な構造.

 

これは,この二人の話だけに限らない.

SNSは年代によってとらえ方が異なるという年代差構造,

振り振られの男女構造,

学生運動・反体制というイデオロギーの構造.

 

つまり,何かしら人間関係がある場所(というか極論,人生)には,大したことのないことも含め対立構造が発生し続ける.

それにより,もめ事が起き,もめ事が起きたときに当人同士の解釈の度合いが違いから更にややこしいことになる.

バイアスで歪んだ解釈を落ち着かせるためには,幸せな人の周りに囲まれることでは?ということで,

その幸せな人が居る場所はサードプレイス?

 

サードプレイスは,対立構造から離れた,第三の立場,視座から利害関係無しに何かを与えてくれる人・場所(?)

なので,度合いの異なるネガティブな感情や意思は,感覚(環境)で補正できるのでは?ということをふと思った.

属するコミュニティを増やした方が良い,という話も世間にはあるが似たようなことかもしれない.

 


 

で,「このバイアスで歪んだ感情を落ち着かせる」ということの前後も劇中であったのでは?と.

 

例えば,小川すみれが服を着替え髪を切るシーン.

あるいは,町田ゆきが泥水を飲むシーン(これは違うかも)

それ以外のメンバは大抵現実に戻る方が多くて,歌の営業?に行くシーンや,

森本のキャンプ道具を手早く片付けるシーンとか.

 

みたいなことを書いていくと,サードプレイスという物理的な場所ではなく,

サードプレイス前,後を行き来するちょっとした行為が日常にあるのでは?とか思ってみたり.

そこの切り替えに気付くかどうか,か.

 


 

と諸々書いていてふと思ったのが,これメンバが対になってないか?

 

大空陽子と万代ルミコが,サードプレイスを守りたい静と動の関係で,万代が大空の代弁者的な.

森山と仲本が,Youtuberと会社員という関係で,仲本が心の中では自由な森本に憧れている(あるいは嫉妬している,あるいは見下している?)

 

みたいな.

 

小川と町田,床山と米田も何かありそう.

 

 

 


 

そもそもサードプレイスって何だろう,と.

wikipediaでは以下の通りで,今回の場所も以下にはまってて凄いなーと.

サード・プレイスの特徴

オルデンバーグが定義する“サード・プレイス”の8つの特徴

中立領域サード・プレイスは特定の個人や団体、政治組織や宗教組織に属していない場でなければならない[1]。また、その構成者は義務感からそこにいるのではない。彼らは、経済的、政治的、法的に縛られることなく、喜んでやってくる。

平等主義サード・プレイスは、個人の社会における地位に重きをおかない。経済的・社会的地位は意味がなく、ありふれていることが許容される。サード・プレイスでは参加するために、何も必要条件や要求がない。

会話が主たる活動遊び心や楽しい会話がサード・プレイスの活動のメインフォーカスである。会話のトーンは気軽で、ユーモア、ウィットがあり、優しい遊び心は高く評価される。

アクセスしやすさと設備サード・プレイスはオープンで、みなが訪れやすい環境。柔軟で親切で、集まる人のニーズにこたえるところ。

常連・会員サード・プレイスは、常連がいて、空間やトーンを形成する。その場所らしさを彼らがつくる。新たな訪問者を惹きつけて、新参者にも優しいところ。

控えめな態度・姿勢サード・プレイスは健全である。その中には無駄遣いや派手さはなく、家庭的な感じ。偉ぶったり、排他的であってはいけない。いかなる個人、あらゆる階層の人を受け入れる。

機嫌がよくなるサード・プレイスでの会話のトーンは、けっして緊張や憎悪を生んではいけない。その代わり、陽気でウイットに富んだ会話、気さくな冗談は歓迎される。

第2の家サード・プレイスにいる人たちは、しばしば温かい感情を共有する。あたかも同じ家に暮らす者同士のように。この場所に根ざしている感情を持ち、精神的に生まれ変わることを得る。

2023/3/21 松原市文化会館にて,ハンドポケット・カフェ,みてきました.

 

あらすじは,以下の通り.

http://bkd-hotnews.seesaa.net/article/497531566.htm

「過激なパフォーマンスで人気を得たミュージシャン・東野啓介は夢破れ帰郷、実家の喫茶店を手伝うことに。しかし、そこは『こども食堂』として地域の人々の居場所となっていた。心温まる再生と成長の物語。」

 

さて,思ったことをつらつらと.

 

・目標と悩みの関連性

 

①目標があると悩みが生まれる.

達成できないという悩み.

 

②目標が無くなっても悩みが生まれる. 

失敗という悩み.

 

③目標が無くなって,実家に帰ってきても悩みが生まれる. 

ある種の無力感,挫折.

 

④目標としていたものが,掘り返されても悩みが生まれる. 

過去の姿が受け入れられるかどうか,

過去の姿と今の姿の違いを埋められない壁.

 

⑤目標としていたものが,大人によって捻じ曲げられても悩みが生まれる.

好きだったものをただ行う,ということが,お金を儲けるためのものに変わったこと.

WantがMustに変わったこと.

 

主人公の「目標」を軸に,その過程と現状を並べてみると↑のようなものが挙げられそう.

これは「目標」という言葉以外でも当てはまる気がする.

例えば「行動,チャンレジ」など前向きな言葉の方が多いか.

 

①は未来志向.②も次に向かうという意味で未来志向.

なのでこれらは健全.多分.

 

③,④は過去思考.

なので,変えられない過去を悔やむ意味での悩み.非健全.

 

⑤は,過去,かつ,他からの圧力.

これが最も非健全.

 

③をいじってみる.

実家に帰ったからこそ千尋に出会えた → 健全?

 

ここで,④はYoutube?を見た奥様方がどう感じるかの話,

⑤は大人たちが余計なことをしたという行動の話.

 

自分で捉え方を変えられる悩みなのかどうなのか,

そこを見定めて視点を変えると①,②,③は悩みではなくなるかも.

 

じゃ,④,⑤に関してはLamppostの歌詞の中を読めば何となくつかめるかもしれない.

 

④,⑤については→孤独感,居場所,自分に自信を持てなかった

そのあたりの言葉から,④と⑤の状況になったと逆説的に見れなくもない.(これは無理やり)

 

いずれにせよ,変えられることにフォーカスすることは大事.

 

 

 

・寛容と不寛容の両者が入り混じる場所

 

子供たちにご飯や居場所を与えるこども食堂.

 

その子供たちのアレルギーがある食事だと,なぜか子ども食堂の人が誤る.

子供たちの喧嘩で子ども食堂の人が責められる.

 

子ども食堂の人たちの寛容さと,子ども食堂に子供を預ける?大人たちの不寛容さのコントラスト.

 

見方を変えると,古き良き日本の姿(always 3丁目の夕日的な)がある子ども食堂の受け入れと,

都会の冷たさとでもいうか不寛容な態度.

 

あるいは,柔軟性がある世界と,システム化された世界.システムエラーは許さない,みたいな.

 

ってことは,心がギスギスするというか.

 

寛容と不寛容の境界線は,時間軸,構成論など色んな切り取り方ができそうで,

とはいえ共通した二項対立が描けそうな世界.

 

 

保子さんが,家庭に余裕が無くなって寛容の場所から離れたとき,

また,寛容の場所にもどってきたのも,その居場所の居心地とも関連あるか?

 

過去が良い,今が良い,不便が良い,便利が良い,というような対立ではなく,

保子さんみたいに,自由に使い分けるというのが良いのかなと思ったり(これは強引な解釈)

 

 

・当たり前は当たり前じゃない

 

これは単純な話.

誕生日ケーキをもらえない子もいるというくだり.

 

自分自身がめちゃくちゃ華やかな子供時代というわけではないが,

当たり前のことを当たり前にしてもらえていたことは感謝だなと.ただそれを思っただけ.

 

それに限らず,何事も,当たり前なことは実は当たり前じゃない.

 

・ポケットの名の由来に

 

ボルダリングのでっぱり,休む箇所をポケットと言うとは.

 

正式名称は,ポケットホールド,か.

 

ポケットの中で手を握る,手を包み込む,みたいなニュアンスにも取れそうで,

この名称は凄いなと思った.

 

 

言葉の意味,由来みたいなものを解きほぐすと何か新しいものが見えるかもしれない.

 

と思って,子ども食堂を調べてみたら,,,劇中では資金繰りの話はでたが,以下のようなイメージはわかなかった.

 

「困窮者が集まる場所と思われる」

という一方で,

「冬休み中に毎日開催したが、来てほしい子どもが1回しか来なかった[81]」「地域の幼稚園の子供と保護者が1クラス丸ごと来店し、本当に来てほしかった子どもが来店を遠慮していた[82]」「困っている親子というより、安く健康的な食事ができるから来ている普通の親子が多い[83]」「夕食の手抜きを目的とした母親の来店が増えている[46]

ともある.

 

現実はまだまだ課題があることを改めて知る機会に.

 

貧困問題による誤解[編集]

子ども食堂への出入りが、周囲から貧困家庭との見られかねないという懸念から、本当に貧困状態にある子供はこうした食堂を利用しにくいのではといった意見があり[6][55][35]、実際にそうして出入りを敬遠する子供がいたとの報告もある[78]。同様の理由で、特に女子は来店しにくいとの指摘もあり、実際に来客の男女の比率が8対2だったとの報告もある[46]。群馬県太田市の子ども食堂でも、30人から40人の利用者を見込んでいたところが、実際の利用者は10人から20人程度であり、これも貧困世帯が対象とのイメージが広がっていることがその原因と見られている[60]

マスメディアによって子ども食堂のことが多く報じられたことで、子ども食堂イコール貧困対策というイメージが広がり過ぎ、来店しにくくなっている子供ができたとの指摘や[32][39]、親が出入りを禁じるなどの状況が生まれていると危惧する声もある[79]。前述の「気まぐれ八百屋だんだん こども食堂」も、マスメディアに取り上げられ始めた当初は、貧困対策としての視点からの報道が多かったという[19]

子ども食堂の開催希望が、その場所を求めて公民館に申し込んだところ、「困窮者が集まる地域と思われる」「貧困の子供はいない」と難色を示され、どんな子供でも楽しむことのできる場所だと説明を繰り返した末に開催に漕ぎつけたように、貧困対策というイメージから抵抗を持たれるケースもあり、日本各地で模索が続けられている[70]。子ども食堂の存在を知るには情報収集力を要し、足を運ぶには行動力や交通費を捻出する経済力も必要だが、貧困の最中にある人々にはそうした力がないとの指摘もある[80]児童虐待を受けている子どもが、親が発覚を恐れて行くことを禁じていると危惧する声もある[46]

「誰でも利用できる場所」としている子ども食堂には、「貧困や孤食など、本当に支援を必要とする子どもにどうすれば来てもらえるか」が共通の問題であり、「冬休み中に毎日開催したが、来てほしい子どもが1回しか来なかった[81]」「地域の幼稚園の子供と保護者が1クラス丸ごと来店し、本当に来てほしかった子どもが来店を遠慮していた[82]」「困っている親子というより、安く健康的な食事ができるから来ている普通の親子が多い[83]」「夕食の手抜きを目的とした母親の来店が増えている[46]」との声もある。

子ども食堂から子どもの貧困、貧困家庭、貧困対策のイメージを遠ざける例としては、店の名前に敢えて「子ども食堂」と名付けず、「子ども」だけを付けたり、「子ども」すら店名に含めないところもある[70]。また、店の名前はもちろん、活動内容自体も「子ども食堂」とは名乗らず、「こどものいばしょ」と謳っている場合もある[35][* 8]。また、貧困家庭というレッテルを貼られることのないよう、利用対象を「地域住民全員」に設定している店もある[69]。開設当初から「誰でも来店できる食堂」という概念を重視し、「恵まれない子どもたちのために」といった弱者支援のような態度をとらない店もある[84]。高齢者や障害者にも立ち寄ってもらうため、名称を「地域食堂」にするケースもある[85]

自ら助けを求めにくい子供たちへの対策の一つとしては、東京都文京区で2017年10月から始められた「こども宅食」が挙げられる。これはLINEで申し込んだ利用者に対し、食材や加工食品などを自宅あてに直接配送するという、全国的に見ても前例のないもので、利用者から好評を博している[86]

 

 

 

 

 

昨日,近鉄アート館で舞台を見てきました.

 

 

 

概要は以下のとおり(↑からの引用)

尾道直生(おのみちなお)は劇団ロータスブルームの看板俳優・向井咲矢(むかいさや)に憧れ上京。
新人劇団員として、シェアハウスで個性的な仲間と暮らしながら将来を夢見て稽古の日々。
しかしもう一人の看板俳優・綿矢航平の退団で劇団人気はドン底、公演が次々中止に追い込まれてしまう。
さらに、シェアハウスからは契約解除の話が。
さらにさらに、「夢をあきらめて故郷へ戻れ」と兄が来訪。

まさに人生、四面楚歌! 背水の陣!
直生は絶体絶命の危機を乗り越えるべく奮起するも劇団員達はどこか諦めモードですれ違うばかり。
そして頼みの綱の咲矢にも、誰にも言えない大きな悩みが…。
果たして直生は夢を叶えることができるのか?
そして本音をぶつけ合い、信じた道を突き進めるのか?

夢を追いかける人に、夢を諦めた人に、夢なんて見られなくなった人にお送りする、
人生を折り返しながら重ねて進む、笑って泣けて熱いエンターテインメント演劇!

 

 

「夢」についての内容です.

で,今回見て思ったのは,「夢」と「物差し」.

(物差しは本編では出てきません.下記,本編との関係性低いです)

 

主テーマである「夢」が,様々な人,状況,視点から描かれています.

それらを,

  • 物差しの長さの違い,
  • 単位の違い,
  • 質(プラスチックもあれば竹もある)の違い,
  • 形の違い(直線か三角定規か),

みたいな関係で,相互に繋がっているのでは?とパッと見思いました.

 

 

 

例えば,

長さの違いは,短期的な夢(就職とか?),長期的な夢(人生全体レベルとか?)なのか,

単位の違いは,一つの行動が与える影響力とか(1mm単位だと1つの動きでも周りに与える影響が小さく,1cm単位だと大きい)

質の違いは,夢を見るジャンルの違いとか.

形の違いは,直線的にまっすぐ異なる変化をするのか,それともグルっと回った原点の夢があるのか(別の職業についたけど昔の夢が気になるとか)

みたいな.

(直交していないので理系的には気持ち悪い)

 

「夢」という見えないものを物質的に捉えると,「夢」という言葉が輪郭を持り,違いが出てくる.

 

見た目の違いによって,

夢があるのか,それとも無いのか(=物差しがあるのか)

夢に踏み出せているのか,自分は踏み出せていないのか(=どの単位,どの長さなのか)

など,そもそも違う物差しの上で距離を測っていることが見えてくる.

つまり,違う物差しで他人と比べても仕方無いというか.

(↑綾,恩田,坂上の会話のくだりはそんなイメージ)

 

シェアハウスに居る人は,入居時に,ある時間までという長さ(期限)が決まった物差しが渡される.

その物差しの端まで進もうとするが,途中で退去する者も出てくる.

ただ,物差しの端が夢が叶った状態だと無意識に思い込んでいませんか?

物差しのある時点までたどり着いた経験や,その時点に居ること自体が夢が叶ったという見方もできるのでは・

(堂島,坂上,相沢のやりとりがそんなイメージ)

 

 

直生は,元々目指していた夢が周りの状況により叶わなくなる.

それは,物差しが折れたような状態(?)

ただ,折れたからこそ,新しい物差しを見つけることが出来て,

新たな夢のレールに乗ることが出来る.

夢のスタート,中断,ゴールは自分で決めてOk.

 

ってことで,

他人と違う物差しに良し悪しは無いので他人と比べても仕方ないし,

どんな形のものでも笑うものでもないし,

壊れたら新しいものを探せばいい.

むしろ,自分が形を決めた物差しを見つける,

その物差しに線を引くスタートとゴールを自分で決めることの方が大事なのでは?という気が.

 

で,それを使って線を引いていくことが,

夢に向かって真っすぐ進んでいることになるのかも.

 

そんな中で今自分は何ができるんだろうか.ってことを考えるきっかけになった作品.

 

がんばろ.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都市東山青少年活動センター (長い) で 夕映えリリシズム を見てきました。

(なぜかアメブロに写真をいれるとしょっちゅう傾く)

 

  

 

Youtube配信もあるようなので、ネタバレにならないよう、

多分本筋での訴求点と異なっている、勝手に思ったポイントだけ。

 

 

1,記憶と記録

 

お父さん、余生を考え、短編の詩に、親密な人の、濃密な思いを綴ることで、

記録として色んな人の記憶に残っていく、とか?

 

お父さん、母親?のことを書くことが増えるようになったのは、

娘が後から見たときに、こんな一面もあるのだと伝えるためとか?

 

それとも、記録対象が変わることで無常感を出すとか?

 

なんというか、お父さんにとって詩は接着剤。

 

 

2,終わりないものにとどめを刺す難しさ(?)

 

3名の同人誌?作家達の違い。

書けない・締め切りに間に合わないのではなく、

自己満足がいくか、そして、そのためのハードルが高いか?という問題設定の違い。

 

芸術品には完成というものは無い。

と、するならば、一定のユーザーニーズを満たすで脱稿するか、

あるいは、自己満足がいくまでやりきるか。

 

ハードルを下げた結果がAI。

それでも自己満足でき、締め切りに間に合うなら、実はとどめを刺せている。

 

働き方改革的な(多分誤解釈)

 

3.世の中は無意味の余白。余白の解釈は人それぞれ。

 

カップル。

とある詩を見て内容の勘違い、早合点。

 

そこに書かれてある事実は事実でなく別の意図があるので、

人それぞれの狙いと解釈が異なってしまって、、、となる。

 

 

詩は、人にとって幾通りの解釈ができるから、

それこそ万葉集(歌集だが)のような古いものも

現代風の、個人毎の解釈がされる普遍性の高いものなんだなーと改めて思い返されるシーン。

 

 

同じことは詩(文字)ではなく、言葉(音声)でもできた気がするが、

解釈を色々な視点から見るには文字の方が良いのかもと思った(本編と関係なし)

 

 

ー-

全体通して、様々な年代の人、性別の人、環境の人が、

どの視点、立場にも投影できるような構成かも?

 

演者と観客の間の余白。自由な解釈。

みんな違って、みんないい

 

日常生活で起きる色んな事も、実はコア要素は少しで、大半は余白だと思えば、

視野も広がり、少しは楽な気持ちになるのかも。(と思い込む)

 

 

余白探しを楽しもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽の話、と、この頃の話。


a new lease on life


心機一転とか息を吹き返すとか、そんな意味。



たまたま、Jobs聴いてたらこのタイトルが目に飛び込んで来た




なんか、気分の切り替えな言葉。


切り替えよう。





会社の同僚が出演した劇団デマチカヤナギ第一回公演「爆着サステナブル」を見てきました。(4/29 18:30の部)
 

 

 

 

 

 

 


上記webからあらすじ抜粋:
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舞台は、社会学科の大学生・大河大二郎が<地域の人たちのたんすの肥やしを通して社会学をのぞく>というコンセプトで企画した
「まちかどファッションショー」の楽屋・・・しかし、本番当日、大河がこない。
それでも助成金のため、他の学生たちは、企画内容を知らないがなんとかせねばならず・・・。
トークゲストで呼ばれた野田教授、服を勝手に転売している掃除のおばちゃん、
色恋沙汰を泥沼化させていくメイキング担当のカメラマン、知らないメイクさん等を巻き込んでいき、、、
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こちら↓を見た感じ、1年前からレッスンをしてきたのかな?と思います。

コロナなどやり難い環境下で工夫など乗り越える苦労は多かったのかと勝手に想像します。

 

 


さて、以下、記憶の限りの書きなぐり。

[舞監さん]
舞監さん。
怖い舞監さん。
ひげの舞監さん。
前半に「舞監さん」の印象を強く意識づけ。
役としては登場しない舞監さん。
観る側のイメージに委ねられた舞監さん。


舞監さんの輪郭をクリアにしていったのは南部。

舞監さんの説明は大半南部から。
南部は、あのメンバの中ではおとなしめキャラとすれば、そのメリハリをつける存在の舞監さん。

南部のキャラ、恐れ感、そこから浮き出てくる怒られているであろう姿の想像を通じて、
上下関係の上の立場であることを強く印象づけられた舞監さん。

[舞監さんからの佐竹さん]
はしゃぎすぎた佐竹、谷口が舞監さんに怒られる場面も
舞監さんの説教キャラを印象付けていなければ、成り立たないはず。
この場面でいうと、佐竹が落研出身ということも数回埋め込まれておいたことで、
お調子者が怒られる流れに繋がる。

リアルな場面で、文化祭などでちょけて先生に怒られる子供、クラスに一人はいたはず。
そういう実体験でありそうな場面を想起。
加えて、怒られた佐竹が谷口に慰められるシーンは、親子関係と紐づいており、↑のちょける子供とリンクしていそう。

佐竹を軸にいうなら、ショーの現実感を膨らませる存在か。


今思うと、大学関係者と舞監さんはどういう関係だったのだろうか?。。。


[三島の家族]
前半で大二郎が見つからずファッションショーのスケジュールが不明なとき、教授が「わかりそうな人に連絡してほしい」と。
三島がお母さんに電話。展開が早くスルーしてしまいそうだが、何故お母さん?
これはお母さんというネタだったのか、リアルにお母さんが状況を知っているのかこの段階ではわからず、
きっとお母さんが知るか、ということだったのか? もしそうなら突っ込んでおかないと観る側、ボケに気づかず。

一方で、後半、三島呉服店のくだり。あるいは、三島両親がファッションショーを見に来るくだり。
三島両親が来ることから、あらかじめ段取りを両親に伝えていたのか?
それとも、両親がくるぐらいなので実家に住んでいて、自分の部屋にスケジュール(のたたき台)があるのか?
(いや、それは考えすぎ)

[深山の活かし方]
入場時に配られるパンフレットには「近くの芸大の学生」とある。
大二郎との関係性は舞台から読み取るとして、「芸大」と明記されているところに、
何かしら意図が隠されているのかも?(他の人は大学生という情報しか与えられていない)

その時々の状況が人を変えるのかも?という社会人にありそうなものを感じられる存在。
1)不安げな立場で登場(大二郎に頼る存在)
2)→ ディレクター昇格(強味を活かした活躍)
3)→ 大二郎との別れ(古橋に頼る存在)

「芸大」かつ「ファッションショーの仕切り」という環境によって深山の強みが活かされる。
事前情報と深山の勢いから活かし方がみえる一方、勢いありすぎるので大企業ではなくベンチャー企業で活躍するタイプ。
勢いありすぎ=ハサミのシーンのこと。

[野田から覗き見る、自分視点と他人視点の立場の違い]
野田は社会学の堅い教授という立場。
谷口によると昔は教授は神様という立場。
親世代、野田世代の視点から観ると上に位置する存在として扱われる。
それを野田自身が呼ばれ方を変えることで位置をさげようとする。

[ファッションショーにおける野田]
著書の中で「失われる地域性、みんなが同じ服を着ていることを嘆く」ことから、
最後は100均?の衣装?をつけたり、鎧(?)着ていたり、
思想の現実化を図った解き放たれた教授。

[サステナブルと多様性]
サステナブルと多様性には矛盾があること、
サステナブルはヒッピー時代から言われていること。
この2点から、
「矛盾とバランス」と「何をいまさらサステナブルと言い出しているんだ、この社会は」という感じが浮かんでくる。

前者は、この世の中、何が正解というものはなく、バイアスなくバランスをもって解決していかないといけないんだろうなということ、
多く目にすること(メディアでSDGsと連発しだしたこと)で、人がある意味、コントロールされていて、
偉い人が決めた正解があたかも正しいかのようなバイアスを植え付けられる。
盲目的に信じ込まず、客観性を持つことが大事。

後者は、行動変容のためにはラベル付けが必要だということ。
当たり前は皆にとっての当たり前ではなく、メイクさんにとっての当たり前は社会にとっての当たり前じゃない。
なので、ヒッピー時代の当たり前が社会の当たり前では無かったのかもしれません。
そこに偉い人(権威)がラベル付けすることで、多くの人がそうすべきだと同調し、当たり前化する。

サステナブル=線で繋がった過去から未来、多様性=自由度の高い刹那的な広がり。
サステナブルって狭く長い、多様性って広く短い?
サステナブル&多様性って掛けあわせると狭く、短くなってしまいそう。その場しのぎ。知らんけど。

[古橋と清水、実は影のディレクター?]
大二郎が取り仕切ってアフリカに発送するのであれば、送り先は大二郎が知っていても良いはず。
それを知らなかった&掃除のおばちゃんがそれを仕切るわけがないので、
そもそもこの企画が出た時点で、古橋と清水は服をネット販売するつもりだった。
そう、清水は大二郎に働きかけて、アフリカに寄付するということを吹き込んでいた。
その社会貢献から大学から補助金をもらっていたのだ。
つまり、服を売る行為は大した問題ではなく、大学を騙して金を搾取したことが裏の問題であり、そのために大二郎を操った影のディレクター。

、、、ってことは無いと思う。

舞台的には、
古橋爆買い ← お金問題 ← 清水と利益合致 
という流れ。

社会問題に切り込んでみると、清水がそうせざるを得なかったのは、
掃除のおばちゃんの給料の問題で、所得格差の是正へと発展させようとしたが、
何を書いているのかわからなくなったのでストップ。

今回の登場人物としては清水の完璧ではないけど悪いことをするというキャラは好きかも。

[古橋、ファブリーズ担当]
これは楽な担当では無いか?
って書いて思ったのが、ファッションショー当日に地域の服が届いてた?
だとしたら、ファブリーズ担当は服が届くたびにファブリーズをしなければならない忙しい担当(?)
コロナ時代だし(ファブリーズでは対処できないが)
衛生の大事さを問うている(!?)(考えすぎ)

[We Margiela]
アマプラだと以下。

 

 


作品はまだ観ていないが、https://www.fashion-press.net/news/43664 あたりを観ると、
常識を超える、靴下でジャンパーを作る、未完成なメイク
「未完成な女性たちが自信にあふれ輝きだすのよ」
世間の評判は「キワモノのショーだ」と、その後、マルタンはマスコミを避けるようになる。

今の時代なら多様性で評価されそうなのに時代がマッチしなかったのね。
大二郎、あるいは舞監さんの存在と深山の狂気はこの辺りからのオマージュか。

[丸岡さんとは何だったのか?]
皆が「あの人は誰?」といっていた丸岡さん。
舞台的には、進行役として役立っていたのではないか。
また、「拍手をもらえると報われた気がする。形が無いものの方が持続可能」

人の記憶は他人に邪魔されないとするならば、拍手をもらったりして心動かして記憶に残るものは、確かに持続可能なのかも。
形が無いと他人との分かち合いをしにくいので、持続可能なものは個人個人で異なるのかも(?)



どうでもよいことだが、ソファーの肘のところに乗った丸岡さん。ソファーが傾くのではないかと観ていて心配になった。。。

[中道さん、作戦失敗か?]
大二郎を探しに来た中道さん。
きっと、大二郎と深山を繋ごうとしていたのではないか?
深山が買った服の代金を立て替える中道さん。
優しい人なんだろうね、きっと。

しかし、大二郎モテモテやな。

[謎]
1.
羽ケ崎さん?金ヶ崎さん?
前半で、羽ケ崎さんの服を探しておくということ、金髪の人であるという振り。きっと大事な地域の人(?)
最後に、探していた服が見つかる場面でも名前が登場。
この人をピックアップしたのはいったい!?

2.
三島の背中のドラゴンのくだり、よくわからなかった。というより背中に小さいドラゴンがあったのかもしれないが、席からはわからず。
テレビや映画だと背中をアップするのだろうが、舞台だと遠くからでも小さいを表現しないといけないので、
見せ方の難しさがこういうところにあるんでしょうね。

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服は気分を変えるコスパが良いものなので、閉塞感強い今の状況では家の中であっても着替えることで気分を変えてみてはどうでしょうか?

 

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[脱線]

web3の記事を見てたら、M. マクルーファンの以下の言葉があった。

マクルーハンはまた,「メディアはマッサージである」とも言っている.もちろんこれは「メディアはメッセージである」をもじったものであろうが,それ以上に深い意味があると思われる.メディアは,我々の社会の至るところに存在している.つまりメディアは常日頃から我々の五感を刺激を与えている,ということになる.メディアはマッサージの如く,我々人間を揉みほぐしてくれる動的なものであると言えよう.事実,メディアは人々をつかみ,揺すぶり,転がしまわしマッサージしている.

 

 

 

服もメディアの一つなので、多様性のあるものをガンガン浴びていくことで、新しいものがでてくるのかなーと思ったり。