蛇のスカート   

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1 明日なき男

   

籠から抜け出た小鳥の心境で息を吐き、俺はタイムカードを通した。はいはいと電話を受け答えしている事務の女に目が移る。真赤な口紅に白粉を塗った電話役の女。あの女は仕事をしているが、俺は仕事をしていない。だが車など野菜のように売れるわけがない。天上の蛍光灯を見る。俺の頭から突如、ごちゃごちゃしたセールス文句や顧客名簿が消え、真っ白になった。俺は何故ここに居るのだ。何故スーツを着て立っているのだ。

ダンヒルのスーツで決めた今田の丸い顔が浮かんだ。愛知県にいる親友。叔父が天下のガオス自動車の役員。大して能力があるとは思えないが、新卒で入社し、今ではボーナスが手取りで百万円は軽く超えるという。去年、俺が勤めていた出版社が倒産し、路頭に迷って今田に電話した。大阪にある取引先の会社を世話してくれたのだ。

俺向きではないが、仕事がないから仕方ない。免許はあるが車の知識も、技能もない。縁故が車だっただけの話。立派な会社を世話するのは今田にはまだ無理で、紹介してくれたのは、世知辛い会社だった。正社員と銘打っても歩合が出ず、サービス残業すれば時給七百円。今田が配置転換になると、俺は頻繁に怒鳴られるようになった。

俺は事務所を蹴って出た。宝石のようにボディーを光らせたショーウインドウを一瞥し、裏に回って通勤自転車に乗る。家でも売ろうか。いや、もっと難しいだろう。そもそも営業職に向いていないのかもしれない。

国道バイパスを横切ろうとすると、信号に五tトラックがアイドリングしていた。俺はもう二九。トラックに乗るには遅いか。あれもサービス残業だらけで危険らしい。猛スピードで左折するタクシーに気が移る。まだ養う妻子もいないし、あれに乗るのは三十代が終わってからにしよう。のろのろペダルを踏んでいくと、建築中の家が目に留まった。材木を担いだ若者は白い歯を見せ、健康的に見えた。大工の修行でもすれば良かったか。俺はコンビニに立ち寄り、新聞、缶コーヒー、求人誌を買う。一年前のよりかなり薄い。二十前後の女店員は、愛想良く、はきはきした声で百円玉を四つ確認し、ビニールに入れて十円玉とレシートを渡してくれた。

今の俺の現実を知られたが、店員は何のそぶりも見せない。丸顔で可愛らしい目。時給六百五十円で店員募集のポスターがあった。六時間だから日当三千九百円。不満を漏らさずよく立っていられるものだ。俺と同じで、もうじき辞めるかもしれない。この女も行き場がなかったからレジを守っているだけ。親にカネかコネがあれば、何処かの大学生かOLだっただはず。彼氏が高給取りなら、掃除洗濯をし、寝転んでDVD観賞の時間帯か。

俺は袋を自転車籠に入れ、公園までこいだ。夕暮れのベンチに座り、缶コーヒーを開ける。かちゃ、かちゃ、後ろから音がした。振り向くと、ホームレス風の男がアルミ缶潰していた。踏み付ける姿がリアルに迫る。俺も将来ああなるのか。江戸時代の農民は「上を見て生きるな、下を見て生きろ」と叩き込まれたが、今でも当て嵌まるだろう。

上は限がない。大企業のサラリーマン、山田に飲みに連れて行ってもらった時、意外なことに本人は不満を漏らした。彼は仕事柄、門構えからして桁外れの邸宅に赴くらしい。下駄箱の靴のように高級車を並べ、玄関を開けると骨董品が唸り声を上げていたと感嘆する。奴の頭は「お屋敷に比べれば」のレベルになっていた。

出版社の薄給に頼れない俺は、インターネットで有り金を投資した。が、高値を掴んだらしく、瞬く間に半額になり、未だに浸けたまま。損切りする勇気も無い。

自転車を転がしながら考える。どこで人生を踏み外したのだろう。多分、文学部に入り作家を目指した時かもしれない。作家になれずとも、何とか、零細の出版社に就職できた。五年間、風変わりな社長の下で、手足となって働いた。俺が手掛けた本が売れたこともあった。さあこれからという時、社長が数億の借金を残して行方をくらませた。失業保険が切れ、山田に頼った。人生がリセット出来たはずだったが、本日、六月一日、クビを宣告された。

パチンコ屋のネオンが光る国道沿いに目を細める。サラ金の無人貸出機は鴨を待ち構えている。三ヵ月後には世話になっているかもしれない。自転車を漕ぎながら、受けた教育を呪う。安定した仕事を続けているのは一握り。大多数は食うだけが精一杯。英語や数学は不要。社会科で憲法の平等を教えられても、会社では餌をくれる主人に逆らえない。良い飼い主に出会えれば幸せだが、悪い飼い主なら虐待されるし、挙句には野良犬になってしまう。

俺はスーパーへ行き、半額の寿司と刺身を買った。帰りがしら、学習塾の看板の下から、開放感で笑う中学生の集団にぶつかりそうになった。腕章を付けた指導員が見送っている。点取り虫になれば、親が餌をくれなくなる頃には、まともな職業に付けるかもしれない。だが大企業とてリストラをする。さっきの公園の男にしても昔は銀行の支店長だったかもしれない。今は缶を踏んで暮らす毎日。一寸先は闇。

俺は棲家に戻った。築三十年の六畳一間。ちゃぶ台の膳に刺身と寿司を乗せ、求人誌を捲る。ガオス自動車が期間工を募集していた。日当九千円で満了金が出る。末端の営業より儲かるが、ライン作業は過酷といっていた。食いながら新聞を捲ると、自動車メーカーの記事がある。高級車の海外輸出で儲けているらしい。工場は忙しそうだが、頑丈でないから続きそうに無い。しかも何のスキルも身につかない期間限定の作業。体を壊したり、期間が満了した後は、元の木阿弥、また探すわけか。

気晴らしにスポーツ欄を読んでいると、突如、血の気が引いた。トイレに行って、嘔吐し、流す。息が苦しく、動悸を感じる。A4の封筒を取る。右手を突っ込んで、押し広げ、紙袋にした。巾着のように入り口を絞り、口に当て、しばらく呼吸をする。犬の吠え声に耳を傾け、何も考えない。次第に脈拍が減少し、動悸が収まっていく。ゆっくりと呼吸を整え、紙袋を口から外した。畳の上に仰向けになった。

ストレスや精神不安から生じた過喚起症候群は、二酸化炭素を吸えば治る。湿り気を帯びた畳の上に大の字になり、静かに腹で息をする。発作は収まった。今日、会社をクビになってしまったから再発したのだろうか。

緑に光る時計の針は、九時十分をさしていた。パニック症は完治せず、体の芯に食い入っていた。初めての発作で激しい動悸に襲われ、死に掛けた悪夢を思い出す。部屋に酸素が少ないのかと窓を開けたが苦しい。救急車を呼んだ。それからも突然の呼吸困難に襲われるようになった。人前で何度も紙袋を吸い、地下鉄の中で動悸を感じる。

脈を診て、心臓の鼓動が正常に戻ったことを確認する。起き上がり、長く垂れた電灯の紐を一回引っ張った。がらんどうの部屋が浮かび上がる。俺は新聞の株価欄を見た。ビッグソフトは五百円にまで下がっていた。去年、二千円で買ったIT株。某有名アナリストの推奨株。欲に駆られ、安給料を節約して貯めた四百万円を根こそぎ投資した。今では手数料引いて百万円も返って来ない。胃の辺りが重苦しい。リストラに遭い、こんなに下落するとは。戻ってくる可能性に賭け、今をどう凌ぐか。死んでも損切りしないとなれば、今は手持ちが五万円弱しかない。サラ金に手を出さないと本当に死んでしまう。

ゴキブリが明かりに晒されていた。俺も驚いているが、相手も驚いていた。鼠の子供ぐらいの大きさはある。物がない部屋は隠れ場所が無く、新聞紙に隠れようとこちらに突進してきた。とっさにティシュの箱を掴んで、叩き殺す。付いた汁をティッシュでぬぐう。壁にある雨漏りのような茶色いしみを凝視する。

俺は再び電灯の紐を引っ張り、明かりを消した。アパートの周りは人気がない。時折、自動車のエンジン音が伝わるものの、静かだ。ただ暗黒の荒波に飲み込まれている。

哀れなゴキブリだ。ゴキブリにさえ生まれなければ、いや、餌もないこの部屋にさえ迷い込まねば、意味もない死を迎えることも無かったであろう。余計な命だ。俺も本当は産まれるべきではなかったのかもしれない。が、肉体を持って世界に存在してしまった以上、ネズミやゴキブリのようにゴミ箱を漁ってでも生きるしかないのか。

俺は今生きているのを実感する。呼吸を味わい、心臓の鼓動に耳を傾ける。沸き起こる生命力からまだまだ死なないのを確信する。生きるために、外部の物質を体内に取り入れ続ける。ゴキブリも、鼠もカラスもこの原則に従って行動しているだけ。生命が維持されるためには奇麗事は言っていられない。追い込まれれば、悪徳商法や恐喝、売春、殺人までやるかもしれない。何をしでかすか分からないから、法律が山ほど敷いてあり、警察や軍隊が抑制している。すると俺はあのゴキブリのように暴力で叩き潰される運命なのか。

闇の中で大きく瞳を凝らした。暗闇が死に思える。汗臭い六畳は窓が、厚手のカーテンで完璧に閉ざされている。光は届かず、どろどろした現実の沼に沈んで行っている。手を伸ばして掴むものは無い。誰か救いの蜘蛛の糸を、さらりと落としてくれないか。

俺の前には薄汚れた電灯の紐がぶら下がっているだけ。引張る。黄色い光線が広がり、ちょっぴりと活力を与えた。時計を見る。もうすぐ銭湯が閉まる。ゴミ袋の中に入れてある下着を取り出し、石鹸の入った洗面器を携え銭湯に向かった。

2 踊る中年男

   

暖簾をくぐると、番台の老婦人はテレビを睨んでいた。回数券を千切って渡す。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。日雇い労働者らしき壮年の男がやってきて、湯船から水を汲み、カバのごとく掛け始めた。床のタイルに弾かれた水沫が、俺の身体に跳ね返る。男が今日はやけに身近に感じられ、不快感を催さなかった。

銭湯でさっぱりした後、タオルで髪を擦りながら夜道を歩いた。生暖かい空気を浴び、夏が近づいているのに微笑んだ。銭湯の側にコンビニがある。青白い外灯が足元のアスファルトを神秘的に照らしている。下弦の月を眺めながら歩いていると、ざっ、ざっ、と土をけりつける音が聞こえてきた。何だろうか。公園に金網越しで目をやった。その刹那、息を止め、足も止めた。タオルをぬぐう手も止まる。

夜の公園で、誰かが足踏み運動をしていた。公園の端を見る。巨木が枝を垂れ提げ、その根元に照らされた灰色の土に、人影が点いたり消えたり、伸びたり縮んだりしている。

これはただ事ではないと目を凝らす。よく見ると男が盛んに足踏みをしながら、翼を広げるような格好で両手を動かしている。両手を後ろに回し上げ、鳥を真似しているのかと思うと、雨乞いのごとく両手を天に突き上げた。今度は片足でケンケンをしている。

頭がおかしいのだろうか、と金網越しに見つめる。精神を患ったか。いや自殺の予兆なのかもしれない。欲求不満と言葉に表せない何かが、あの男を狂気に駆り立てているのだ。

一体何者だ。俺は好奇心には勝てず、恐る恐る男の方に近づいた。男はこっちに気付いていないようだ。憑かれて乱舞している。知らん顔をして公園に入った。ざっ、ざっ。未開の踊りに耽る男を、横目で観察する。Gパンに白いTシャツ姿。何処にでもいそうな中年男はぶつぶつ念仏を唱えている。何だろうか。

髭男は頭を上下左右に振り、神降ろし状態になっているようにも思える。

男の声が鼓膜に届いた。

「ほーっ、ほっほっほ、大地の踊り、大地の踊り、ほーっ、ほっほっほ、大地の踊り、大地の踊り……」

俺は角度を変えて観察することにした。離れた木製ベンチに腰を降ろす。濡れた髪をタオルでぬぐう。外灯が届き、男の様子がはっきり分かる。それでいて俺の姿は樫の木陰に隠れて良く見えない。なかなか絶妙な場所である。

俺はベンチに座って足組みをした。ざっ、ざっ。ほーっ、ほーっ。吠え声が夜風と共に伝わってくる。銭湯から上がって体はすっきりしている。濡れた短い髪はほとんど乾いた。ベンチに左手を突っかけ、首を傾げる。大地の踊りとは何だろうか。聞いたことも無い。この男、何かの宗教でもやっているのではないか。この踊りはアフリカ大陸直伝のものか。BGMなしで様になっている。何か伝えたい熱意がある。舞台稽古でもしているのか。

髭の中年男に見とれていると、突然、男は飛ぶ鳥を捕まえるように手を叩きながら公園を走り始めた。外灯の向こうへ跳ねたかと思うと、すぐに反転し、死角になっているはずの俺のベンチにやって来やがった。

大いに焦った。頭のいかれた男が、こちらにやって来るではないか。通り魔に襲われる恐怖を感じ、逃げようとベンチに置いた洗面器を手に取った。が、もはや時既に遅し。

男は俺の存在に気がついて足を止め、我が子を迎え入れるように手を広げて近づいてきた。そして事もあろうに自分の前で盛んにその得体の知れない踊りを披露し始めた。どうやらコミュニケーションを取ろうとしているらしい。

「ほっほ、大地の踊り、ほっほ、大地の踊り、ほーっ、ほーっ、大地の踊り……」

男は全身を揺らして公園の土を踏みしめていた。この踊りはバランスが取れて洗練されていた。多分何度もここに来て踊っているのかもしれない。

最初、白眼視し、いつ逃げようかと警戒していたが、髭男の踊りに見とれているうち、警戒は徐々に解けた。というより、どん底に陥っていた俺は、誰も軽蔑する気になれなかった。この世は何でもありだ。変わった奴も理解してやろうではないか。

服装は現代人だが、心が原始的なのだ。きっと昼間はばりばりの常識人だが、その反動で夜中には突如、変身願望に襲われているに違いない。

ざっ、ざっ。跳ねる足のリズムに惹かれるものがあった。男の足につられ、俺の首が上下に震えた。催眠術に掛ったように、今度は足踏みを始めた。音頭を取る。最後にはベンチから立ち上がった。

仲間が欲しいのか。こうなったら一緒に踊ってやろうと、立ち上がって男の側で身体をくにゃくにゃさせた。やけくそや冗談の気持ちだろうか。いや、俺を誘う力は、それ以上に奥が深いようで、体が勝手に動いた。

俺は足踏みをして両手を上下させる。男は仲間を獲得した喜びを体現し、「ほ~~っ、ほ~~っ」と両手を広げて、迎合するように盛んに踊り出した。俺もそれに応えるように「大地の踊り、大地の踊り」と男の呪文を拝借して唱え、デタラメに踊った。未開になるのも案外楽しいではないか。体を揺すりながら自己流にこの踊りを解釈した。この踊りはきっと大地に捧げる宗教的なものなのだろう。初対面で言葉すら交わしていないのに、踊りを通じてこの男と会話ができた気がする。リストラに遭って、生活の危機に立たされていることも忘れた。死が俺の足元にあるのも忘れた。今はただ盛んに足踏みをする。

ほっほ、ほっほ……。

相手の真似をしてどのくらい踊ったか。髭面の中年男は踊りを止めた。手を叩いて近づいて来た。はっと首を動かし、急激にクールダウンする。そういや、俺は一体何をしていたのだろう。そうそう、この男につられて怪しい踊りに耽っていたのだ。この男……誰だ? 再び警戒心を抱く。

その瞬間、髭面の中年男が人懐っこい笑顔で俺の緊張を解き放った。

「ああ、すっきりした。どうや、なかなか面白かったやろ」

照れくさそうに小さく笑い返す。

「はあ、何かストレスが解消されたような気がします。踊るって、結構楽しいものだったんですね。少しだけ知りましたよ」

「そうか……。時間あるやろ。ちょっとそこのベンチに座ろうや」

ちょび髭の男は、外灯が明々と照っているベンチの方に俺を案内した。

男はポケットからタバコを取り出して、慣れた手つきで一服する。ゴジラの吐く煙が白いライトに照らされながら空中に舞った。

「吸うか」

「いえ、自分は吸いません。……ここでいつも踊っているんですか」

タバコを咥えた髭男は細い目をさらに細め、遠くを眺めながら答えた。

「毎日やない。月に何度か体が勝手に公園行って踊るんや。時たま無性に踊りたくなる。庭付きの一戸建てに住んどったら、ここに来ることもないやろうに。マンション買っちまってるからな。バブルの頃。ありゃ人生最大の失敗だったわ」

洒落た顎髭を眺めながら、この男が何者なのか推測する。余計なこともべらべら喋る奴だ。マンション? そんなものを買っているなんて金があるのだろうか。このTシャツとGパン姿は金持ちというより、フリーライターかカメラマン、何か自由業の雰囲気だ。年は三十にも見えるし四十にも見える。

「へー、マンション暮らしですか。羨ましいですね。自分なんかもう三十になろうかというのに二万円のボロアパート暮らしですよ。それも風呂無しの。しかも今日、車の営業、といっても背広着たバイトみたいなもんですけどね、辞めさせられちゃって、完全な無職になっちまいましたから。すぐにアルバイトでも探さないと餓死しますね」

俺は半ば投げやりになっていたので、見ず知らずの人物に洗いざらい報告してやった。髭男は真ん中で分けた黒髪を軽くなで上げ、興味深そうに目を細めた。

「ほお、君はいわゆるフリーターって奴か。ある意味そっちの方が羨ましいぞ。自由気ままに生きられるやんか。金がなくても自分の時間があるやんか。それに君には若さがある」

「変なこと言わないで下さいよ。アルバイトしてたら時間なんて大半が潰れますよ。安定も保障も何もない。それに自分はもう二十九歳、来年三十ですよ」

「そうか、君は安定したいのか。でもな、それは幻想や。……俺は今四二で、君が望んでいる安定の状態や。郵便配達をやっているねん。女房もいて、子供が二人もおる。マンションもある。でもな、その安定装置を維持するためには大きな代償を払わなきゃならんのや。まず家族を養わなきゃならん。マンションのローンも後十五年以上残っとる。身動きが取れん。俺の人生はもう終わったようなもんや」

男は大きく煙を吐いた。口から噴出される白い息が、溜まったストレスに見えた。

いとも簡単に自分の生活を暴露したが、そんなに不満があるのか。郵便配達で安定したボーナスや月収入が見込める。子供が二人もいれば生活が楽しくて、公園で踊っていなくても良いのではないか。ストレスが溜まって頭のおかしな踊りをしたくなるのはこっちの方だ。

男は無口になった。ベンチで足を組み、タバコを吸いながら物思いに耽っている。自分を迎えてくれる温かい家庭が待っているのに、何故そこに帰らないのだ。この男も現代特有の、得体の知れない病いに苦しめられているのか。何かに絶望した自殺志願者か。今の生活に不満を持っていることだけは確かだ。納得していたらこんな場所には来ない。

その謎は多分あの踊りに隠されているに違いない。

「あのう、『大地の踊り』って一体何処の民族の踊りなんですか」

男は刃物で切り裂く目つきで睨み、「似たような踊りは世界中あちこちにあるんや。踊る名人の俺の弟が命名したんや。ただそれだけや」
 弟? この男、弟からあの変な踊りを教わったのだろうか。

「へっー、ダンサーの弟がいるんですか。それは面白いですね」

感心しながら褒めると、異次元の答えが戻ってきた。

「いや、弟は酋長なんや。仲間を沢山引き連れて踊っているぞ」

呼吸が止まる。酋長? この男の弟はアフリカか南米にでも移住しているのだろうか。そうか、分かったぞ。この男、弟に会うためアフリカ旅行に行った時、踊る習慣を身に付けたんだ。それで日本の生活に嫌気が差したのか、退屈しているのか、忘れられず夜な夜な一人で踊り狂っているに違いない。

髭男は笑って答えた。俺は勝手に解釈し、首を何度も上下に振り、「世界は広いですからねぇ。いろんな人間がいますよねぇ。いろんな生き方がありますよねぇ。僕らは固まっちゃって、視野が狭いんですよねぇ」

「おう、全くその通りや……」

髭男は突如、ぱんと手の平を合わせて叩いた。振り向き、意味ありげな細い目で、俺を見て笑う。

「そうや。君、フリーターやろ。アルバイトでもしてくれへんか」

嫌な予感がした。含蓄ある名言を吐いた後だ。ひょっとして現地のアフリカにでも行って来いというのではなかろうか。

「な、何でしょうか。まさか、弟の酋長に会ってきてくれと言うのではないでしょうね」

「君、鋭いやんけ。それに近いな。俺の親父、八十近いけれどもうヤバイねん。弟、勉って言うんやけど、『勉はどこ行ったんや、今何しよるんや』ってうるさくてね。こっちが知りたいよ。もう俺はあいつに五年は会ってないんや。五年前に一緒に踊ってそれっきり。こんな気質の商売に就いていたら会いに行く間もなくてね。あいつ、勉の野郎は電話を使わん生活しとるさかい、一向に連絡が取れんのや。ほんま、どうなっとるんやろ」

俺は丁寧に断った。「アルバイトのお世話は大変有り難いのですが、三ヶ月ぐらい失業保険が貰えると思えます。それに外国旅行は、ちょっと無理じゃないかと思います。パスポートを持てる身分ではありませんし、病気に強い体ではありません。ジャングルで変なウイルスに感染したりしたら全然割に合いませんし……」

髭男は笑って答えた。タバコの吸い殻を遠くに投げる。

「はっは、何言っとるんや。日本や。あいつは鹿児島の奄美諸島の外れにある、小さな島に住んどるんや。そこで映画を作っとるねん。もちろん大阪からは相当遠いけれど、奄美大島の港を経由したら四,五時間で着くやろ。どうや。俺の頼みを聞いてくれたら三十万、いや四十万円出すで。前金で二十万円払うわ」

場所と金額を聞き、俺の目の色が変わった。映画なら不思議ではない。自然と低い声が一オクターブ高くなる。「へー、前金で二十万円ですか。やる気が出ましたよ。ぜひ、お話を聞かせて下さい。……ここじゃあ何でしょうから、僕のアパートで仕事の内容をたっぷりとお聞かせ下さい。このすぐ近くですから」

立ち上がり、洗面器を手にする。爽やかな夜風を浴び気持ちが良い。六月になり月がかわったから幸運が巡ったのかもしれない。俺は髭男を促し、アパートに案内した。


3-a 映画島の取材旅行

   「君は良くこんな所に住んでいるなあ。何もないやんけ」

髭男は部屋に入るやいなや感嘆の声を漏らした。実際、ちゃぶ台と本棚以外、何も無い。半ば自慢げに弁解する。

「近くに二十四時間の激安スーパーがあるんで、冷蔵庫は要らないんです。料理しないし、風呂もないからガスもつけてません。テレビはありませんが、僕は見ない主義なんです。でも電話やノートパソコンはありますよ。……それよりバイトの件ですが、何をどうすればいいんですか」

俺と髭男は六畳に腰を下ろし、面と向かって胡座をかく。 髭男はタバコを出して火を付けた。灰皿代わりに台所から皿を取ってきて台に置く。

やがて髭男は落ち着いたのか煙を吐きながら「君、紙はあるか」と切り出して来た。本棚の上にレポート用紙と筆記具があった。契約内容を書くのだろうと予想し、ちゃぶ台の上に紙とペンを用意して置く。男は何やら記入し始めた。

島での映画撮影だったなと、本棚から地図帳を引っ張り出す。出涸らしの茶を捨て、玉露の一番茶を入れた。小まめに書いている手元に、湯飲みを置く。

しばらくして髭男は細い目で振り向いた。

「出来た。仕事のあらましや。俺は『近藤慶』って言うんや。ここに名前と判子をくれ。前金はな、明日の昼にでも配達の途中にここに届くように手配するから」

「書留めですね。畏まりました」 頭の中で、札束が踊る。株の大損で、今は家賃すら払うのが辛い。二十万円に魂を奪われたまま契約書を眺める。

レポート用紙には文字が事務的に書かれてあった。何だか思ったよりも仰々しい。




 雇用契約書

 ① 職種 ルポライター

 ② 報酬 四十万円 (前払い金 二十万円)

 ③ 場所 鹿児島県 奄美諸島の蛇島

 ④ 期間 平成十六年六月から一ヶ月程度。


 (雇用主)近藤慶


  大阪市 東住吉区 田辺 一丁目 **六七*


  電話・FAX 十六*八七六三‐*九八七



  ※なお、仕事中に起きた事故については保障しません。


 (雇用者)氏名


    現住所            電話番号     


確か事件でもあった時に記者が現地に赴いて取材することだ。あの島で事件でもあったのか。しかも注意事項として「仕事中に起きた事故は保障しない」とある。


俺は紙切れを凝視する。職種はルポライター。

ょとして命懸の仕事か。サインをためらっていると、髭男はもう一枚の紙を見せて説明した。

「これは弟の勉に当てた手紙や。映画を邪魔されちゃいかんと、あそこは極端に排他的になっとるねん。何処の馬の骨とも知れん人間が突然やってきたら胡散臭がられ、追い出されるに決まっとる。君があの島でちゃんと生活できるように配慮した、一種の紹介状や」

既にサインするものと決めつけている。生活ぶり見れば金に困っていることは一目瞭然。だが、俺は懐疑的だった。高い報酬にはリスクが付き物。危険と報酬を天秤に掛け、危険の方に傾くのではないかと眉間が歪む。今度は紹介状を眺める。


 拝啓 近藤勉 様


初夏の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。

さて父 近藤租一が五月二八日午後一時三十分、心筋梗塞のため、永眠たしました。七八歳でした。生前は大層お世話になりながら、ご恩がえしもせずに逝ってしまい、まことに申しわけございません。すぐにお知らせをと思いましたが、ご心労をおかけしてはと思い、心ならずも連絡を控えさせていただきました。どうかお許しください。


生前のご好誼を深く感謝し、謹んでお知らせ申しあげます。
                            平成一六年六月一日 近藤慶

  敬具




 髭男は念を押すように、「この紹介状ではな、親父、租一は死んだことになっているけど、実はまだ生きとるんや。でも心臓病で非常に苦しんでいるから、どうなるか分からんわ。勉はどうせ戻って来んやろ。ただ近づくための口実や。これを持って行けば、あいつは酋長であって監督でもあるさかい、あの映画島にすんなりと溶け込めるやろ」

3-b

「はあ、でも、少々嫌みったらしい文章ですよ。その映画島ですが、一体どんな映画を製作しているんですか」

髭男はとぼけた口調で、「それが分からんから調べてきて欲しいねん。五十四人の仲間が出し合ったから、資金はあるんや。ふつー、計画してから映画を作るやろうが、連中は計画しながら映画を作ってるんや。もう三年経ったんやが、何の音沙汰もあらへん」

「まだ出来ていないのですか」

「わからへん。とんでもない長編を作るいうても、映画に関して、勉は素人同然や。映像の勉強し取るか、抜け出せんくらい嵌まっとるんかも知れん。きっと毎晩踊っとるやろ」

掴みどころの無い調査を引き受けていいものか。

「近藤さん、僕思うんですけれど、こんな結構な条件ですともっと適切な人がいるのではないですか。本職のルポライターが。求人誌に出せば、応募者が殺到し、優秀な人を選べますよ。僕、自信がありません。やっとたことないですよ」

「はっは、さっきやったやんか。公園で。『大地の踊り、大地の踊り』を。島であれをやりゃええんや。三年ほど前、俺はあの島に行ったことがある。有給休暇を全部使ったんや。とんでもない島やった。でもあの頃から年月経ったから相当変わったやろな。最低でも一ヶ月はおらんとあいつらのしとることは掴めんやろ。この壮絶なルポに耐えられる奴は早々おらんやろ」

髭男はいやらしい目つきをして笑った。その眼差しは、俺とその未開の島を重ね合せて想像しているようだった。俺ならあの島に耐えられるというのか。

「そんな恐ろしいルポ、僕耐えられるでしょうか」

「君なら耐えられる。君には才能がある。この仕事は天分が必要なんや」

近藤は湯飲みに口ひげをつけて啜った後、仰け反った格好でポケットをごそごそし、財布を開けた。拳骨でちゃぶ台どんとを叩いて決心を促す。

「これは誰にでも出来る仕事とちゃうで。言って見りゃ、俺は公園で君をスカウトしたんや。やってみろ。毎日踊れるんやで。奄美大島への飛行機代は前金とは別でやる。これこの通り」髭男はトランプゲームの切り札のように一万円札を四枚、ちゃぶ台に並べた。

息の根が止まる。現金が想像力をかきたてる。

「あ、奄美大島って……、何処ら辺にあるんですか。本土から遠いんですか」

尋ね方が興味を示した感じだったせいか、髭男は更に二万円追加した。

「近い近い。鹿児島のすぐ下や。飛行機でも片道三万円あれば奄美まで余裕やろ。そこの名瀬市には知り合いの漁師がおる。ほれ、これで連れていってもらえや」

髭男は更に気前良く二万円追加し、ちゃぶ台には八万円も並んだ。

住宅ローンに苦しむ男の財布から景気良く金が出るのを見て、逆に怖くなった。

「やけに気前が良いですね。ひょっとして、この島には相当危険が付きまとっているのではないですか」

「ああ、この但し書きか。これはな、君が毒蛇にでも噬まれて死んでしまったら、責任が取れんという意味や。沖縄や奄美の界隈はほんまにハブが多いからなぁ。だから蛇島なんて物騒な呼び名がついたんやろ、はっは」髭男は笑いながら更に一万円追加した。

「可愛い弟の存在が気にはなるが、どうしようもないんや。勤務の詰っとる俺が一ヶ月も仕事を休んで調査する訳にはいかんやろ。なあ、頼むわ」

目の前に九万円並べられ、俺は落ちた。一ヶ月間、島で遊んで四十万。養う女房子供がいるわけでもない。

気合いを入れて叫んだ。

「やります。任せて下さい。ここに地図がありますから、場所を詳しく教えて下さい。三年前は一体どういう状況だったんですか」

「気が利くな。どれどれ、奄美大島、徳之島……。載ってないやんけ。これの拡大図があれば良いんやが。この奄美大島の名瀬市の海岸から出航してな、南に向かって三時間ぐらい行った場所に、問題の島があるんや。もう六月やから暖かいでぇ。泳げるでぇ。五年前俺も漁船をチャーターして行ったんや」

男はあるはずの島の場所に丸い印を付けた。さらに手帳を取り出し、案内してくれる漁師の住所を書き始めた。

「多分、今もあるやろ。勉の一家はな、この蛇島で嫁の恵子さんと息子、娘の四人で住んどる。あと、大金を叩いてまでインディアンの映画を作りに参加した物好きな仲間が一緒や。リアリティを出すために、ほとんど自給自足をやっとる。ありゃぁ日本人やない、インディアンや。でもあれから三年も経ったんや。相当変わっとるやろな。そこで君に『ルポライター』を頼んだんや。はっは」

欲に駆られ、雇用契約書にサインしている間、近藤は「変だ、変だ」と何度も強調した。映画の進展を調査するのかと聞くと、

「いや、島の状況や。特に俺の親族、四人について調べてくるんや」

現金欲しさで、ふんふん頷き、最後に百円判子を押して、近藤に渡した。

「どれどれ……。片山英徳。片山君って言うのか。明日、前金渡すから、さっそく明後日にでもこの蛇島をルポしてや」

近藤は再びペンを握って、右斜め上を見て思い出しながら、知っていることを紙に書き殴り始めた。調査対象である弟家族の四人。

近藤勉(三九歳)、妻の恵子(三六歳)、長女の晶子(一五歳)、長男の翔太(八歳 )。

さらに髭男は絵描き歌でもするかのように円形の島を描き、見慣れぬ亜熱帯系の植物が生えていたと枝葉を足す。N字型の毒蛇を付け加える。中央は山で、西側は崖や岬があったと角のようなものを描き、南側がサンゴ礁の白い浜辺だったと記す。あまりに大雑把なので、島の大きさを問うと、直径が四キロ程度ぐらいだろうと言う。ホテルや海水浴場みたいなリゾート施設はないのかと問うと誰も来ないと笑った。映画製作のため無人島を探した末、蛇島があった。スタッフは五十四人。そのうち四十六人が暮らし始めたと書く。

近藤は、帰り際、保証人か担保を求めてきた。確かに取引相手の状況がこんなのでは、逃げられる不安があるだろう。俺は運転免許証を渡す。

確証を得た近藤は不敵な笑みを浮かべ、残りの金と引き換えに返すと約束した。

4-a 蛇島へ

高速バスの座席を倒し、カーテンを閉める。昨日、髭男がアパートに現れた。あの夜とは一変し、真面目なヘルメットを被った郵便局員に化けていた。現金書留で二十万円を渡され、励ましに肩を叩かれた。その瞬間は舞い上がった。が、時間が経つに連れ、波の荒い海の飛び込むような不安感に襲われた。が、己を鼓舞し、蛇島の情報を入手するため、図書館へ向った。拡大版の地図を見ると本当に存在していた。髭男の書いた通りの丸い円形の島が。

人口七千二千人を擁する奄美大島は、鹿児島から南に三百八十キロも離れており、沖縄本島の半分はあろう程大きい。目的の蛇島は更にそこから南にかなり離れていた。地図上では、奄美諸島からのけ者にされたような場所に孤立した、米粒。道も名称もない。サシで測り直径四キロ、円形をしているということだけ分かった。

高速バスは岡山界隈で休憩所に入った。トイレからバスに戻る際、上空で飛行機が白い線を引いていた。男には「六月二日大阪→奄美大島の飛行機直行」と伝えたことを思い出す。だが領収証を請求されていないし、急ぎの取材旅行でもない。高速バス、フェリーで奄美大島に行けば半額で済む。鹿児島見物のおまけまでつく。もっとも飛行機なら奄美大島にはとっくに着いているだろうが。

眠れない。カーテンを開ける。高速道路のナトリウムランプを反射し、俺の姿が窓に映っている。黒いハットを被り、やつれた顔には刈られていない髭がごま塩のように生えていた。ホームレスのようだ。笑い事ではない。そうなりつつあるのかもしれない。格好だけは出張サラリーマンだが、内面から滲み出る現在の心境は隠せない。ネクタイを外し、海水パンツや下着、食料などが詰まったボストンバッグに入れ、A4の封筒を出す。

失業した俺はどうなるのだろう。もはや山田には頼れないなら、応募者の殺到する求人に挑戦するか、新たなコネを探すか。だが縁故は良いものばかりとは限らない。現に得体の知れないバイトを引き受けた。犯罪の発端はこんな所かもしれない。気がつけば刑務所にいるのかと、末恐ろしくなり、仰け反って何度も溜め息を吐く。六時間もバスで不安を膨らませたせいか、神経衰弱した。持参した封筒を紙袋にして口に当て、呼吸する。薩摩某と書かれた道路標識を通過した。窓の外には目も眩む若葉が大群をなしている。太い緑に包まれている。

正午、大型バスは鹿児島の市街地に入った。バックを抱えて降りる。フェリーは午後五時の出航で、まだ四時間ばかり暇があった。繁華街の天文館でラーメンを食べ、気分転換に城山公園へ登った。急勾配の細い坂道を辿り、展望台へ着くと、霧に包まれた桜島と市街地が眼前に広がっていた。

鹿児島見物も日沈までには終えた。港へ行き、切符を買ってフェリーに乗る。奄美大島までの直通便ではなく、喜界島経由だった。身を屈め、靴を脱いで二等客室に入ると、自分の他、四人しかいない。左手の隅に荷物を置いた。

突き当りの窓の隅で、サングラスの男が胡坐を組んでいた。シャムネコと見紛うクリーム色のスーツで決めている。揉み上げから顎にかけ、威嚇する頬髭を蓄えている。暴力団幹部か。近寄りがたいオーラが発散されている。風邪なのか咳き込んでいた。

やり手の実業家で、高級車を即金で買う客にも見えた。ネクタイの結び目あたりに隙がない。残り二人は学生で親元に帰省しているようだ。薄暗い船室の壁にもたれ、本を読む振りをして男を観察する。どっかり構えたサングラス男は蛇革のカバンから焼酎の小瓶を取り出し、お猪口に入れ、ストレートで飲んだ。脇に赤い花束と大き目の箱があり、そこに手をやる。続いて蛇革の鞄を開け、新聞をとり出し捲る。目を閉じ、天井を見上げていた。新聞を持って立ち上がり、咳をしながら客室を出て行った。

しんみりとした部屋に残された花束と寄贈品のような箱。祝いの式に行くのだろうか。これも何かの縁だ。地元なら何か知っているだろう。蛇島について何でも良いから聞いてみたい。後を追って靴を履き、船室を出た。

バーの香りが漂う休憩室には、おやじたちが群がっていた。衛星放送を見上げながら、数人の男がビールを飲み、談笑していた。髭男も立ったままニュースを見つめている。売店は閉まる寸前で、男はカマボコを買う。金を払うとトイレに入ったようだ。追いかける。男は船室に戻っていく。少し間を置き、客室のドアをくぐると、サングラス男はつまみのチーズかまぼこを弄っていた。ビニールが取れないで格闘している。千載一遇のチャンスに見えた。ボストンバッグから折り畳みナイフを出し、サングラス男の傍に近寄る。

「取れないのですか」 刃を出し、さっと切ってやった。

サングラス男は礼を述べて笑った。何かしら通じるものがあり、直ぐに打ち解けた。

「花束ですね。見舞いにでも行かれるのですか」

「いや、商売の帰りだ」

第一印象がこれで成り立つビジネスマンがいるのか。地元ヤクザの会社だろうか。とにかく、この男が会社のビジネスに行ったのだと分かった。では何の商売をしているのか。

好奇心に胸を膨らませていると、見透かされたかのように、「うちは珍しい商品を扱っているからね」と釘を刺された。ただ、鹿児島市内からの帰りだ、奄美大島の名瀬に住んでいると語った。界隈の人だから詳しいだろうと、蛇島について聴いてみると、男の口が重くなった。黒眼鏡の奥にうっすらと浮かぶ眼の色が、一瞬白く光ったような気がした。

「蛇島? 珍しい名前だね」

「あれ、知らないのですか。無人島で、未開人の映画を作っているらしいですよ」

「ふ~ん、宣伝も聞かないし、無人島とは、さぞ、安上がりの映画なのだろう」

「でしょうね。三年かけて、まだ完成していないらしいですよ」

「ふ~ん、完成しても売れるとは限らないからね。で、君はそこに何か用事があるのかね」

「ええ、まあ、どうなっているのかと……」

言葉を濁すと、男の首は値踏みするかのように前後左右に動いた。頬ひげの掛っていない所が酒で赤く染まっている。

「今はハブが多いから気を付けるが良い」

警告する態度が少し余所余所しく、慎重になったような気がした。これではいかんと俺はバッグから紙コップを取り出し、焼酎を少し頂いてみた。相手は気前良く注いでくれた。話題が出たので、ハブについて尋ねて見ることにした。すると相手はこの手の話が気に入っているらしく、再び饒舌になった。

「ハブとマムシの違いは何だか分かるかね」

「やっぱりハブの方が酷いんですか」

「毒自体はマムシの方が強いが、ハブは体が大きい分、打ち込む毒が大量だ。それにマムシは大人しいがハブは獰猛で、自分より体温の高いものなら何でも飛び掛って行くからね。ハブは胎生ではなく卵だ。卵の中でも既に猛毒を持っている。五年で最低一メートル半には成長するから、二メートル以上のハブは珍しくないよ。夜行性だが、昼間でも気を付けるべきだね。そこらじゅうにとぐろを巻いているから」

男は高音で「くっくっく」と、肩胛骨が寒くなる薄ら笑いを浮かべた。袖をまくり、実際に咬まれたことがあると腕を見せる。水溜りが出来そうなほど肉が抉れている。へこみ具合の酷さは、生死をさ迷ったのだと衝撃を受けた。

男は俺を黙らせた後、思い出したように蛇革のカバンを開けた。栄養ドリンクぐらいの大きさの筒を取り出して見せる。最新のハブ毒吸い取り器だという。性能が抜群に良く、万は下らない所を八千円にまけてやろうと、実演して手を吸い付けた。欲しかったが高いので渋っていると、男はスーツを脱いで畳んだ。ベルトまでが蛇革であったのには肝を抜かされた。てかてか光る蛇のカバンを見つめながら、この男はハブのグッズか、毒吸い取り器を製造し、販売しているのであろうかと察する。

箱の中から「きゅぅん」とか弱い声がしたので、何かいるのか尋ねると、男は箱を開け、茶色い子犬を抱き上げた。頭を撫でながら可愛がる。子犬は髭の頬をぺろぺろ嘗めて応えていた。赤子を扱うようなほほえましい姿を見とれていたが、貸してもらい遊ぶ。

「飽きたら入れといてくれ」

男は仰向けになり、布団を敷いて包まった。子犬は手足をばたつかせている。限がないので俺も寝ることにした。財布を枕にし、横になる。が、揺れる船内でなかなか寝付けない。映画島が近辺の島人に知られていないとは不安だ。だから偵察に行く価値があるのだが、弧島は元来、流人が牢屋の変わりに押し込められた場所であると聞く。映画撮影など娯楽業で、無名ならば単なるアウトロー集団ではないか。そんな無法の輩のはびこる島へ行っても大丈夫なのか……。考えているうちに、いつの間にか意識は消えた。

翌日、太い声の船内放送を目覚ましに起きる。裏街道で進むフェリーは喜界島に到着しようとしていた。明かりを嫌うのかサングラスをつけたまま男は悠々と眠っている。窓の外はみるく色の靄がかかっていた。喜界島からは家族連れが続々と船室に人が押し寄せてきた。がらがらの席が埋まり、今度は窮屈になる。サングラス男は消えていた。

トイレで髭をそった後、自販機でコーラを買おうと思ったが二百円と法外だ。もう少しで到着するから降りてから買おうか。躊躇していると背中から声が飛んできた。

「どうかしたのかね」

後ろを振り返る。サングラスをした男が立っていた。

「ここは高いですねぇ」

サングラス男はポケットから財布を取り出した。これも蛇革だった。コインを自販機に入れた。「好きなのを押しなさい」と言って去る。奢ってくれるとは、良い奴だ、やはり金には困っていないのだろうと呟きながらコーラを飲み干した。

ハッチを開け、ふらっとデッキへ出た。しけた海がうなっていて足元がぐらつく。機嫌が悪そうな朝で、小雨が降っていた。

雨はすぐに止んだ。せっかくだから海を眺めようとデッキを伝う。男がいた。足元に花束と箱を置き、新聞を脇に挟み欄干を掴んでいる。白いスーツが風でばたばた音を立てている。時化た大海原を、感慨深そうに眺めている。サングラスの隙間に見える眉が深刻に歪んでいる。首を下に落とし、渦巻く淵を食い入るように見つめ始める。リストラ自殺を考えている中年男と重なった。近づき、ご馳走様でしたとお礼をいう。

言い訳がましく、「やっぱり都会から島へ行くのは、おかしいですね」

サングラス男は「くっく」と妙な笑いを浮かべた。それは人間の発する音ではなく、七面鳥か何かの鳴き声であった。

「おかしくない。お金はある所にはある、島にだって宝が埋まっているものだ」

「え? 宝島があるのですか」

その意味を考え、じろじろ見る。サングラスと目が合った。男は再び奇妙な笑いをした。

「毒吸い取り器は買う気になったかね」

「八千円ですからねぇ。これはもう、今の俺にとって十日間分の食費ですよ」

男は咳をした後、「くっく」と笑い声を上げる。

「食べ物が優先か。確かにこんなもの、今の状態では役に立たないから、誰も買わないだろうね。でも馬鹿にならない。あれは皆が欲しがる可能性を秘めているのだ」

「どういうことですか」

「誰かがハブを大量に養殖し、本土に持って行ってばら撒いたら、この毒吸い取り器は爆発的に売れるとは思わないかね」

「そ、それは、ヒットするでしょうが……」

悪い冗談だろう。笑顔を作って戸惑っていると、男はハコから子犬を抱き上げた。一緒に花束も手にしている。幾度も「くぅん」と首を動かす犬は、何か喋りたがっている様子で、思わず手を伸ばし、頭をさすった。

突如、サングラス男が花束を海に放り込んだ。知り合いが海難事故で死んだのだろうか。あっけにとられていると、今度は可愛がっていた子犬までも海に放り投げてしまった。子犬は、大海の渦巻く泡に消えて行った。最初から存在していなかったかのように。

「何てことをするんですか!」 非情な行いに叫ぶ。

「捧げものだ」

「でも、めちゃくちゃじゃないですか!」

男は低い声でなだめるように、「賽銭と同じだ。商売には、神の助けが要る。背に腹は代えられない。事業に失敗したら、今度は私が海に飛び込まなければいけない」

腑に落ちなかった。「神頼みですか? 確かに事業は博打でしょうが……。まあ、雇われ人の方が気楽ですね。リストラがありますけど。自殺までは考えませんし」

男は強い意思を押し付けるように断言した。

「君は甘いね。板子一枚、下は地獄。死はすぐそこまで迫っている」

どろどろとした空気が、胸の中に膨らんでくる。男は続けざまに低い声で語った。

「私はよく魚釣りをしながら、商売を考える。釣ろうとしても、なかなか釣れない。用意周到な仕掛けがいる。賢い魚は易々と食い付いて来ない。創意工夫の仕掛けを極めて、やっと釣り上げることができるのだ」

男はスナップを利かせ、ブーメランのように新聞を海に投げ落とした。新聞は大きく翼を広げて舞い落ちていく。男は両手を広げて欄干を掴み、海を覗き込んでいる。

「釣りをしながら、神のことも考える。私は釣ろうとしているのだが、逆に釣られる機会を狙われているのではないかと」

「それは、ちょっと考え過ぎではないですか。それでは死神ですよ」

男は「くっく」と鳴き声を発した。

「その通り。死神なのだ。釣りをしたり、泳ぐのは楽しい。そのうちヨットに乗ったり、スキューバーダイビングをしたくなる。しかしそうやって海に嵌まり込んだ先にあるのは、危険や事故、死だ。この深い海は、強力な磁力を発し、我々を呼び寄せ、殺そうとしているのだ」

溺れて死に掛けたことでもあるのだろうか。男の言葉は重く、強い響きがあった.

石垣島でスノーケルの事故で友人が死んだこともあって、胸に届くものがあった。

「確かにそういう面はありますね」

サングラス男は声を高くフェリーの下で白い渦を巻いている海を指差している。馬鹿らしいと思いながら見る。男は手の平で海の景色を撫でながら、

「この海。まるでハエ取り草だ。芳しい香りでおびき寄せ、一瞬にして仕留め、飲み込んで行く。この渦は大量の唾液か、胃液である。そこに浮かんだ小さな島など……。君が何をしに島へ行くのか知らないが、引き返した方が賢明だろう」

どうやらこの男は俺が蛇島へ行かない方が良い様なことを言っている。だが都会にいても交通事故で死ぬかもしれない。自然が怖いのは当然だが、この男は、勝手な妄想で何倍にも膨らませているようである。 

フェリーは泡をたてながら上下左右に揺れている。既に鹿児島から三百キロ以上離れている。今さら手ぶらで戻れない。島の事情を掴んで来るだけで、残りの二十万円が手に入るのだ。

「用事が済んだら、さっさと大阪に戻りますよ」

「それがいいだろう」

最初の取材相手は、神様はフェリーが難破するのを待っている思想の持ち主で、ハブの情報しか手に入らなかった。もう一人くらい聞きたいものだと客室に戻るが、他に見当たらない。そのうちフェリーは奄美大島の湾に入り、ぶ厚い窓を通して、陸の光景が見えてきた。サングラス男は身支度をし、蛇革のカバンを抱えて客室を出た。

4-b

俺も荷をボストンバッグにまとめ、準備をした。フェリーが名瀬港につく。階段を下りる。小雨で湿った風が漂っている。体験したことのない異国の空気を吸う。奄美大島の心臓部、名瀬市。自動車が絶え間なく流れ、離島に来た実感が薄い。歩く。見慣れたコンビニ、賑やかなパチンコ店、アーケードの商店街。下手な本土の都市より栄えている。飲み屋が圧巻、看板が競うように連なっている。スーパーで長靴を買い、漁船をチャーターするため、小宿という場所へ行く。名瀬交通のバス待合室で時間を潰す。空席の目立つバスが出た。長いトンネルを抜け、小宿で降りる。近藤が教えてくれた漁師がいるはずだ。

ネクタイを締め、浜辺近くの民家を一瞥した。釣り船はあるが人がいない。果てしない海に目を細め、海岸に積み重なる大岩を見上げる。今、初めて島にいる実感が沸き起こった。浜風が強くて黒いハットが飛ばされそうになり、目深に被り直す。白い船が波に揺れている。

白い塀の家に近づく。中からキャラメル色に焼けた男が荷物を抱えて出てきた。年期の入った男は『桂丸』と書いてある魚船に、荷物を運び入れている。「その魚船で蛇島へ連れて行ってくれ」と切り出すやいなや、「乗りねぇ」と粋のいい返事が帰ってきた。愛想の良い五十過ぎの男。気風が良く、白いシャツ一枚で捻り鉢巻きをし、タバコを咥えていた。

蛇島への運賃、一万円では無理か。片道一万五千円でどうかと交渉する。意外にもあっさりOKしてくれた。結局、片道三万円かかったから、あの交通費は三万円も浮いた。

早朝降っていた小雨も止んでおり、雲の隙間から光が幾筋も降りていた。風に流されたカモメは天に召されるように上昇している。取材旅行は無料。大自然の開放感。新鮮な気分で潮騒に浸っていると、

「兄ちゃん、あの島に何か用事があるんかいのぉ」

「あのぉ、僕そこに住んでいる人に用事があるんです」

日焼けした男は、船の上に案内した。二人乗ると漁船はダルマのように大きく揺れた。自家用で船を所有しているだろうか。男はエンジンを掛けて発進させた。段取りの良さに驚く。

爆音を立て、船の後ろに白い泡をどんどん作って行く。着いたばかりの奄美大島が視界からどんどん遠く離れていく。

「おじさん、後どれぐらいで着きますか」

「わしゃ時計がないんじゃ。暗うなるまでには着くじゃろ。わしゃ今から丁度そこへ行くんじゃったんじゃ。おみゃー、運がええのぉ。こっちから人を運ぶのは滅多にないけんのぉ。はっは」

腰の高さの欄干に両手をかけた。これから進む果てしない海を見つめながら計算する。地元訛りではなく、広島弁を捲くし立てた男は、蛇島に用事があるようだ。タイミングが良く、それでチャーター料をまけてもらえたのかもしれない。だったら逆にもっと値切れたのではないか。いや、島の事情についても何か教えてもらえるかもしれない。お近付きの印だ。幸先の良いスタートではないか。

捻り鉢巻きの傍へ行き、男の耳元に口を当てた。はっきりとした大声で、「あのぉ、蛇島って、どんな映画を作ってるんですか」

「映画じゃと? そんなもん作っとるんか?」

尋ねたら逆に聞き返され、不安になった。

「ちょっとお聞きしますが、これから行く蛇島って、一体どんな島なんですか」

「ああ、あのハブ島か。原始時代じゃ。ハブ以外にも結構、人間が住んどるっちゅう噂があるけど、わしゃぁ、気にせんことにしとるんじゃ。一握り、まともな人間がおることはおる。じゃけん、油とか、米とか、わしがせっせとこうして運んどるんじゃ。ようあげーな所で生活できるもんじゃ」呆れた顔で白い歯を見せる。感心している口ぶりだ。

俺はルポライターを気取って、メモ帳を出し、シャーペンを弾いた。短期間で些細なことまで出来るだけ多くの情報を引っ張り出さなければならない。

「そこに住んでいる人たちは、インディアンのような格好をしているんですか」

軽くカマをかけてみると、男は高い声を上げて食いついてきた。

「よー知っとるのぉ。大きな鳥の羽を頭の天辺にぐるりとつけとるんじゃ。わしゃぁたまげたで。何なら、コイツら。頭でもおかしいんと違うか。今から会いに行く連中、これがまともな人間じゃと分かるまで、相当苦労したわ。奴らインディアンの村でも作ろうとしているのではないかいのぉ。はっはっは」

シャーペンの芯を舌で嘗める。眉をひそめ、腹の中でSOSを発進する。

舵を握った男の黒い肩口は金色に光り、太い汗が滴っている。男はタバコを吸い始めた。煙を大きく吐いて付け加える。

「じゃけどのぉ。わしがこげーにしてハブ島に行ったり来たりしとるのは、仕事の他にも理由があってのぉ。最初は気が狂うとると思っとったんじゃが、よー見ると、なかなか連中、面白いことやっとんじゃ。太鼓を叩いて祭りみたいなことをやっとってのぉ。いびせかったけど、試しに混じってちょっとだけやってみたら、なんとまあ、中毒になってしもうてのぉ。はっはっは。わしゃぁ、原始時代の生活は嫌じゃが、こうやって行きゃぁ、酒に踊りがあるけんのぉ」

「『大地の踊り』ですか」即答すると、おやじは目を丸くして声をつんざいた。

「よー知っとるのぉ。おめーさん、ほんま、あの島初めてなんか」

「もちろんですよ。……そういや、おじさん、近藤勉って知っていますか。聞く所によると、あの蛇島の酋長だと聞いたんですが」

「はあ、近藤……勉? 知らんな。酋長か何か知らんが、あそこの代表はオナゴじゃぞ。恵子っていうベッピンさんじゃ。何が不満で、あんな奇麗な人があんな島におるんかのう。都会の奥様にでも収まっとりゃええもんをのぉ」

あれ。おかしくないか。恵子と言えば、酋長、勉の嫁ではないか。旦那はどうしたのだ。死んだのだろうか。まさか。まだ三十九歳って聞いているぞ。

男は鋭く横目でこっちを見て、

「おめえさん、そげぇな格好してあの島へ行きんさるんかい。目立つけん、よしてーたほうがええどぉ。恵子さんは大丈夫じゃけんど、他の連中が、敵が来たっちゅうて攻撃してくるかもしれんど。最近、妙に荒っぽうなってきたけんのぉ」

物騒な注意をされ、背筋が凍る。雇用契約書の但し書きを思い出す。

「こ、攻撃って、まさか槍とか矢でも飛んでくるんですか」

「そうじゃ。何といっても原始時代じゃけんのぉ。魚ばっかり食べよったら飽きがくるんじゃろな。羽を毟るために海鳥なんかを射とめとるんじゃろ。そうじゃ。ここだけの話じゃがのぉ。恵子さんは違うじゃろうが、ひょっとして人肉を食っとるかもしれんのんじゃ」

「ええぇ!」

張り裂けんばかりに大声を出すと、男は口を閉じた。

他人事だと落ち着いている。タバコを咥えたまま、漁船の出力を上げた。大きくなったエンジン音が低く、暗く、その通りだと肯定しているようだ。潮風を浴びながら、芯から力が抜けていく。かたかた足が震え、鼓動が激しくなった。

報酬が高いから妙な気がしたのだ。それではこの漁船は豚を運ぶトラックではないか。

男は軽く咳き込み、弁解するかのように、

「じゃが、実際に奴らが人間を喰ったところは見とらん。たまーにおめーさんのような物好きな奴を島へ運んどるんじゃが、入れ替わりに見かけんようになった奴もいるじゃ。ひょっとして食われたんじゃなかろうか思うてな」

頭が混乱してきた。

「あれ、人は運ばなかったのではなかったのですか。……何人ぐらい運んだのですか」

男は船の柱に結んだ紙を外し、折り畳んであるのを開く。ぐしゃぐしゃになった紙を片手で押し広げながら、頼りなさそうに、

「えーと、おめぇさんが三ヶ月ぶりじゃ。今年の三月に二人、去年の二月に二人、六月に一人、三月に二人、全部で七人運んだんじゃ。そういや、夫婦連れが多かったのぉ。今になって思うと、食われたんじゃなくて、皆、自殺でもしたんかもしれん」

慎重にメモしながらも、喉から自然と高い声が飛び出る。

「へぇーっ、そんなに沢山連れて行ったんですか!それじゃ、喰われたんじゃなくて、自殺した可能性の方が高いんですね」

何度も自殺だと念を押す。おかしいことでもない。日本人は毎年三万人が自殺する。青木ヶ原樹海など自然に抱かれて死ぬ人も少なくない。死に場所を求めて辺境地に行くケースかもしれない。元気を取り戻し、メモ帳に「島へは自殺が目的か?」と書き込む。

「言っとくけんど、わしは今からちょうど二年前、瀬戸内海からこっちに来たばっかしじゃ。今時、漁師は儲からんし、他に仕事がないけんのぉ。わしの取り柄は船が運転できることだけじゃ。わしの前に、ここで奄美大島とハブ島を往復し取った中山っちゅう知り合いがおってのぉ。鹿児島の病院に見舞いに行った時、肺癌でもう仕事が出来んようなったけぇ、貸してもらった船と一緒に、おめーに託すゆうて世話してくれたんじゃ。有り難いことよのー。わしの雇い主は恵子さんじゃ。恵子さんが頼んだ物を購うてきて持って行くだけじゃけぇ、ほんにまぁ安気な仕事じゃ」

何度も肯きながら、探偵気分で男の言葉を吟味する。彼は恵子に雇われた運送業者で二人目。三年の内、二年間で七人蛇島に連れて行った。それ以前は不明だが、髭男は四六人いたというから、今は五三人に増えたことになる。それにしても二年も島に通って映画を制作していたのを知らなかったとは腑に落ちない。

「今何を運んでいるんですか」

ちょいと尋ねると、男は荒っぽい声を切り裂いた。

「そぎゃあなことは知らんでええ。言わんでも分かるじゃろ。島には無いもんじゃ。おみゃーさんこそ、あの島に行ってどうするつもりじゃ。ひょっとしてインディアンにでもなるつもりなんか」

「は、はあ。一ヶ月間だけお世話になろうと思っているんですが」

男は何も言わず、ただ首を大きく右左に振った。そんなこと出来るはずがないと言わんばかりに。口に出さない所が返って恐ろしかった。  

4-c

会話は途切れた。船に揺られ、青白い海面を眺めながら過ごす。飛沫を顔に浴び、口元の塩水を嘗める。現実は辛い。島に着いたらその足で奄美大島に再び戻るべきではないか。男が再び船で来るまで無事でいられる保証がない。

不安と波に揺られ、海を見つめたまま時間だけが過ぎていく。

海鳥の姿が太陽と重なった。果てしなく続く紺碧の向こうに、ブロッコリーのような島が姿を現した。「あっ、あれですか!」船が徐々に島の全貌を解き明かして行く。島は切り立った断崖に支えられていた。断崖のすそ一面に波の白い泡が弾けている。 

砂浜を期待していたが、突きつけられたのは過酷な岩肌だった。濃い緑を白っぽい岩が持ち上げて支えている。見とれるに連れ、不安は興味に変わってきた。生い茂った樹木が期待を誘ってくる。眠っている野生の本能を揺り起こす。

コンパスを取り出し、針先を凝視する。船は西南方向に移動している。ということは、あの崖は、島の北部分に位置するのか。

漁船はカーブを描きながら、島に近づいていく。やがて船は島と一定の距離を置いて平行線を辿った。南へ移動している。今がチャンスとばかりに目を凝らす。島の中腹に、森が食いちぎられた感じの場所があり、一面が黒色に塗り込められていた。何だろうか、錯覚かと目を擦り、頭を捻る。さっき見たのは北だから、今通り過ぎているのは島の西になる。漁船は泡を立て南東方向に大きく旋回し、さらに島へ近づいた。

コンパスの針先は震えながら北を指している。島の南に向っているようだ。島の南側はなだらかな斜面になっていた。髭男の記憶通り南はサンゴ礁で、白い砂浜の海岸が浮かび上がってきた。

メモ帳を手に、「釣り針」形の航路を反芻する。最初に見た断崖は北で、住める場所とも思えぬ。通り過ぎる時に観察した西を思い出す。中腹に巨大な炭の塊があったのが脳裏から離れない。大声で男に尋ねる。

「あの黒い塊は何だったんですか」

「何じゃろか。あっちでも住んどるんじゃろ。わしゃ、興味にゃあ」

船はエメラルドに光る珊瑚礁に近づいた。新緑の嵐に、黄色い塊が埋もれていた。今度ははっきりと判断できる。建物がある。不思議な気持ちで見上げる。明るいパステルカラーは目を引く。テント生活で、あそこに三年も寝泊りして、映画撮影をしているのか。

家が三つ見えてきた。潮焼けした男の肩を叩く。指しながら、

「あそこに奇妙な黄色い家が三つありますけど、何で黄色いんですか」

「知らん。ありゃ、黄色いビニールシートを被せ取るんじゃ。恵子さんが好きな色なんじゃないけぇ」

浜辺の丘に、長細いカヌーが置いてある。紺碧の海に魚が飛び跳ねた。陽気な気分になる。電気やガスはなくて不便だが、薪や食料はあるだろう。

漁船は岸に着いた。花崗岩を利用した、即席の船着き場。切り込みの入った黒い大岩が密集し、白波がぶつかっていた。男は船からロープを投げ、岸に括り付ける。時計を見るとまだ三時半。ボストンバックを片手に大岩に飛び移った。シダが震えており、緑を虹色に光らせている。岩伝いに歩き、砂浜に飛び降りる。けがれのない渚が一直線に続いている。白い波が打ち寄せていた。姿を現した貝が砂に潜り込んでいる。

衝撃を受け、砂浜にボストンバックを落とす。珊瑚礁が体を揺らしながら誘っている。足跡がない砂に自分の印を付けて行く。革靴が砂にはまる。秘められた水に、そっと手を差し伸べた。小鳥を撫でているようで愛らしい。浅瀬に腰をつけ泳ぎたくなる。砂の上をマラソンしてみる。足が重かった。裸足なる。こびり付く砂が生暖かい。

海岸にしゃがみ込んだ。砂を握っては海水で手をぬぐう。しばらく指で遊んだ後、視線を広げる。漂流木がぱらぱら渚に持ち上げられていた。太くて赤い蟹が歩いている。捕まえようかと立ち上がる。今度は若葉の大群がざわざわと気を引いてきた。波の飛沫が風に乗って、頬っぺたを愛撫して逃さないようにする。

人生の中で久しく待ちわびていた幻想的な空間。波や鳥の安らぎの音楽が心を落ち着かせてくれる。森に目をやった。パイナップルに似た実をならせているアダンの大群が海に対抗し、緑色の鋭い髪を天高く尖らせていた。ガジュマルの木が生えていた。変幻自在の足を持ち、つるのような気根を垂れ下げている。

俺は無意識のうちに無人島を求めていたのかもしれない。群集に揉まれ、金や時間に追われる都会生活に嫌気が差していた。この澄んだ空気、灼熱の太陽、見慣れぬ植物は、俺の胸を潰してくれる。こんな感動する一瞬を味わうために生きているのだ。

突風が黒い帽子を飛ばした。振り返り、帽子を取りに追い掛けようと後ろに駆けた。すると得体の知れない生き物が帽子の近くに突っ立っていた。

息が止まった。張り裂けんばかりに目を見開いてその生き物に瞳を凝らす。顔は緑色で塗りたくられ、肩口から足首まで芋虫的なマントに包まれていた。頭の天辺。そこではバラの花がきりっと咲いている。鳥の羽だ。羽飾りで冠風にぐるり頭を装飾しているのだ。右手で長い槍を持っている。緑の顔が鋭い目で、こちらを観察している。

腹の底から悲鳴を上げたかった。が、助けがないのは分かっている。これだ。これが蛇島の住民なのだ。赤い羽根をつけている。きっと映画だ。ではインディアンの映画でも撮っている真っ最中なのか。

辺りを嘗め回した。カメラなど何処にも見当たらない。おどおどするが、相手はゆったりと構えている。「やあ」と手を挙げ、馴れ馴れしく一歩、二歩と近づいて来た。

一歩、二歩と浜辺をたじろぐ俺に向かって、威勢のいい声を投げかけてきた。

「よおっ、何しに来たんにゃ。そうか、おみゃーも人間を辞めたんだにゃ」

唾を飲み、神妙に、「ええ、その通りです。それにしても物凄い格好されていますね」

腹の中では現代人を辞める気などなかった。が、郷に入れば郷に従わなければならない。

「俺は森の精霊そのものだにゃ。俺は木であり、草だにゃ。あわっあわっ」

男は慣れた感じで口に手を当て、西部劇の悪役と化した。冗談は格好だけにして欲しい。

この男の合図を聞いたのか、また一人、二人と芋虫がアダンやソテツの覆う森から現れた。その二人は頭の羽飾りは青と白だった。泥だらけの履物を脱ぎ、砂浜を駆け下りる。こっちを無視し、捻り鉢巻きをした船乗りの元へ行った。荷物を運ぶ手伝いをする。

頭が痛くなってきた。あわあわで意思疎通できるのか。さっきのインディアンは依然と目の前に立っている。だがこれが演技でないなら凄いことではないか。

赤羽根の男は疑いの目で俺を見ている。とりあえず依頼された仕事をしよう。開き直り、男に向かって『近藤勉』なる人物に会いたいと切り出した。とたんに人懐っこかった男の態度が一転し、槍を突きつけ威嚇してきた。

「やい、おみゃー、ジャガー族の回し者だにゃ。ジャガー族に用があって来たんだにゃ」

「ジャガー族?何ですか、それは」

「とぼけるにゃ。近藤勉って野郎はなぁ、ジャガー族の酋長だにゃ。おみゃー、あんな畜生と関係があるにゃ」

意味が分からず首を捻った。畜生? あの髭男の兄貴は畜生なのか。だが、ここにいる緑色の化け物も、立派な畜生ではないか。

喉元に向けられた槍は、ナイフが括り付けられている。眩しく光り、今にも首を斬りつけられそうである。仰け反って、慌てふためく。依頼者は「勉が映画監督だ」と言ったが、あれは全くのでたらめだったのか。ここが映画島でないとするなら。ここは一体何の島だ。船乗りとの会話を思い出し、恵子の名を出した。挨拶の偽手紙を持って行くので、本当は勉がいいのだが、恵子もあの髭男の義妹に当たる。別に悪くはないはずだ。

頭にバラを咲かせた男は再び態度を豹変させた。槍の柄を地面に落とし、愛想良く笑う。

「ああ、恵子さん?そりゃ、わしらの酋長だにゃ。会わせてやるからこっちへ来い」

男は踵を返し、砂を蹴る。ぺたぺた森に戻って行く。緑のマントを潮風に靡かせ、奥に誘う。森の切れ目に入ると、だらだらと幅の狭い上り坂が続いている。ボストンバッグから長靴を出して履き、緑のマントを追いかけた。ひねくれた樹木に混じって、紅いハイビスカスが目を引いた。長く突き出ためしべに、青緑の筋が入った黒い蝶が止まっていた。バックを肩にかけ、足元に目を光らせる。

訝しがりながら山道を登る。なぜ勉は駄目で恵子ならOKなんだろう。

5-a ルリカケス族

    

赤羽の男は、羊歯の道を登った。腰の辺りまで草木が襲ってくる。湿った枝が折れて横たわっている。足元に気をつけると、紅い花が木の下で仄かに咲いていた。亜熱帯の植物、ヘゴが好奇心をくすぐる。地面に付いている羊歯が、黒い幹の上でしなっている。緑の命が花火を散らし、天高く揺れている。

「動くにゃ!」赤羽の男が突如声を張り上げ、ソテツの側で静止させた。腹の太いソテツは天辺で羊歯の葉を放射状に広げている。視線を黒褐色の茎から、草の茂った根元へと移す。倒木の陰で蛇がとぐろを巻いてる。細い体には暗褐色で雲形のはん紋がついている。三角の頭で、赤い紐のような舌を、出しては引っ込める。

俺の尻は凍りつく。赤羽の男は槍を逆さにした。丸い針金の輪がついている。剣術師のように身構えた。「やぁ!」と掛け声を上げ、突きを食らわすと、一瞬にして頭を輪の中に仕留めた。「気を付けるんだにゃ。今がシーズンなんだにゃ」

頭を固定された蛇は空中でくにゃくにゃ上下運動をして抵抗している。早くもこの時点で島を取材する勇気が萎えた。ルポライターとはかくも危険な職業なのか。

死がそこらじゅうに転がっている。地雷を撤去する兵士のように五感を集中させ、慎重に足を進める。きょろろろろろ。森の奥から野鳥の声が届く。本土と違う森。樹木は真直ぐではなく、よじ曲がっており、二、三本合体している感じがする。視界を遮る人間大のシダ類が、緑色のムカデの大群に思える。

赤羽の背中を追い、森の道を進んでいくと上り坂が酷くなった。草の良く刈られた坂道を進むと階段になった。赤土がコンクリートで固められてある。階段を上ると高くなったので後ろを振り返る。浜の全景が見渡せた。じーじーじー。森で鳥が五月蝿く鳴いている。蛇に気をつけながら上り詰めると、黄色い建物が姿を現した。黄色に囲まれた広場には芝生が張ってあり、砂が混じっている。風に吹かれた紙切れのように、青い蝶がひらひら舞っている。

「ここだにゃ」赤羽の男は立ち止まり、捕まえたハブの息の根を止めようと踏んづけた。

疲れてしゃがみ込む。黄色いテント村。戸が開いている。骨組みは太いドーム型。面白いことに、黄色の住居にはそれぞれ「雑貨屋」、「レストラン」といった一枚板が掛かっていた。観光客が来るわけないし、やはり映画の設定なのか。

リズミカルな機織と、巻きを割る音が聞こえてきた。黄色の家は夕日と一体化し、仄かに燃えており、細長い影がこっちに伸びていた。

磁石を見る。黄色い家は島の南にあり、それもピッタリ真南。島の中腹を開墾して平らげ、家で広場を囲んでいる。芝生で覆った広場に記念碑のような、人間大の石像が立っていた。テント生活三年は長過ぎないか。台風や雨漏りを防ぐため、黄色いビニールシートで覆っているのか。派手な黄色には意味が隠されている気がする。丸いテントには四人は住めそうだ。

開いた窓から観察されている気がした。高く茂ったソテツが森を塞ぎ、鋭い西日が射してくる。手帳を白黒の縞模様に染めた。羽根を被った男女が木陰で仕事をしている。色眼鏡をつけた女がいた。シートに赤や青の羽飾りが並べてある。鳥の羽を絵の具で丁寧に染色している。隣の男が、女王様を祀り立てる様に、うちわで女を扇いでいる。

「あれが酋長ですか」尋ねるとハブを始末し終えた赤羽は「違うにゃ」と笑った。日沈が近い。ポケットをまさぐったが時計が無い。安物だがないと困る。赤羽の男は、海風にさらされた三つの家のうち、真ん中の前で、待つよう言う。紹介状を握り緊め、扉を叩いて入る。その家は「病院・美術館」となっている。奇妙な組み合わせだ。左側の家を見ると「釣具・建設」。その家の前で、白羽の男がカンナで大木を削りながら、こちらを見ている。自然と頬が緩んだ。反対方向では、羽飾りの職人女が歩いていた。手には孔雀を髣髴する扇子を持ち、「雑貨屋・衛生所」と銘打ってある家に入った。その家の前では若い女が座って洗濯をしていた。ポニーテールに白い羽冠を付けた女もこっちを向き、白い歯を出して笑っている。

船では黄色い家は三つに見えたが、向こうにも三つあった。六つの家はサークルを描いている。森を壁にした三つの家を観察する。右側は「レストラン・市場」。確かにテーブルが表に張り出してある。真ん中は「踊り場・劇場」。建設を途中で放棄したような家で、ドアが無く、がらんどう。左端は「倉庫・ライブラリー」。荷上げした木炭の箱などを入れていた。

家々の隙間を埋めるように、緑のネットが覆われた畑があった。砂浜から一丈伸び上がっていた道は、「病院・美術館」と「雑貨屋・衛生所」の間に繋がっていた。俺は戻りたい気持ちに引かれ、そこに戻り、再び海を見下ろす。展望台からの光景に胸を打つ。夕陽は海を赤く染め、幾重もの波が泡を立て、渚を打ち付けている。

ここで何をしているのだ。映画で臨時にテントを建てた感じではない。がっちりと柱を根に落とし、生活の匂いで満ちている。インディアンの役というより、そのものである。本当に映画を作っていたのか。四週間とはいえ、あの態度からして調査は難航しそうだ。仲間割れしているようだし、インディアンに混じって聞き込みに専念するのが賢明だろう。

赤羽の男がなかなか戻ってこない。広場に向かって歩く。肥えた地味に芝生が根付き、白い砂が混ざって浮かび上がっている。芝生は本土から、砂は海岸から運んで被せたのだろう。長靴を脱ぎ、裸足で砂をならし、芝生の頭を押さえる。極め細やかな砂も踏み心地が良い。ただ広場の中心が気になった。石膏で固められた蛇の化け物が、海に向かって立っている。目を凝らす。蛇の顔をした像は腹の真ん中で髑髏を抱え、猛獣の足で立っている。その足元には三方があり、台には干物が御供えてあった。毒蛇を神様に仕立て祀り上げているのか。映画のセットなら肯ける。でないならカルト集団か。訝しがっていると、赤羽が戻ってきた。

「あわあわ、あわあわ、酋長が呼んでおられる。入ってよろしい」

好奇心を膨らませ、真ん中の家に向かう。「病院・美術館」の他、一回り小さな表札が掛かってある。

【ルリカケス族 酋長 ケイコ】

壁には幾つもの画が貼ってあった。半裸で腰を崩した女がうっとりとしている画が目に付いた。黒い巨大な渦がカタツムリを破壊しているような混沌としたのもある。大蜘蛛のような巻貝も掛かっており、動物を象った彫刻品が置かれていた。

半裸画の掛かった壁をよく見ると、取っ手が付いていた。ドアは二つある。この丸い家の構造はテントウ虫の形で、三箇所の仕切りによって出来ているのではないか。鼻で笑って両方ノックした。声がした扉を引張る。

薄暗い空洞にキャンドルライトが揺れている。香の匂いがすうっと鼻腔をつく。段差を踏み外したように、頭がくらっとした。網戸が開いているのに蒸し暑い。香木の煙が霞をかけるように伸びてくる。テーブルに塗られたニスが、鈍い光を放っている。荒い造りのテーブルが、侵入者を塞ぐように縦長に延びている。三本の蝋燭が三角に配置され、鳥の形をした香炉を中心においている。

テーブルの奥に女が座っていた。ゆらめく蝋燭の炎で、ケイコの容姿が仄かに浮かんでいる。ブルーや瑠璃の大きな羽飾りが、ウサギの耳のように飾ってある。黒髪は束ねられ、前に垂れ下がっている。昆虫の触覚、あるいは黒い蛇のようにぶら下がっていた。顔料はなく、肌が白い気がした。茶色い地味な服を着ていた。風通しが良さそうで、大島紬に似ている。琥珀のペンダントが首にぶら下がっている。

丁寧に挨拶をし、出入口に近い場所にあった椅子にちょこんと座った。香木が煙を立て、魂の抜ける雰囲気を醸し出している。年は三六だと聞いているのに、俺より若く見えた。日中はあまり外出しないのか、白い蘭を思わせる。生き生きとした瞳は少女のもので、その眼差しを浴びると全てを見透かされた気がした。

しばらく間があった。ケイコは厳しい視線を手紙に落としている。

やがてケイコの表情は緩み、手紙でひらひらと白い頬を仰ぎはじめた。

ケイコは溜め息交じりに、

「あの義父さん、ついに死んだの。あの人、会わず仕舞いね。親不孝だけれど、人のこと言えないわ。私も親の死に目に会えないのかな」

力のある声だった。手紙はケイコにとっても痛い所をついていたらしい。

「あのぅ、勉さんは何処にいらっしゃるんですか」

「西にいるわ。ただの山猿になってね。畜生よ!」

ケイコは涼しい目をし、語尾を強めた。軽蔑と怒りに、嘲笑が混じっている。

「はぁ、僕良く分からないんです。みんな勉さんのことを言うと挑発的になるんです。でも大阪にいる慶さんは、彼がこの蛇島の酋長だと言ってましたよ」

「それは三年前の話よ。今はあの時と全然状況が違うわ。昔は大酋長でも、今はけだものだから、相手にしないほうが良いのよ。争いになるわ」

「あ、争っているんですか!そういえば勉さんはジャガー族の酋長だとか。ひょっとして夫婦で争っているんですか」

「なかなか鋭いじゃない。そう、この島は今仲間割れした状態なの。まだ殺し合いはしていないけれど、もうすぐ血の雨が降るかもしれないわ」

唾を飲み、その表情を観察した。小さな口は引き締まっており、戦いの決意が窺えた。

「何が原因で争うわけですか」

尋ねると、女酋長は二十センチぐらいのキセルをくわえ、吹かし始めた。

「それは教えられないわ。島の秘密が絡んでいるからね。知ったら最後、あなたは生きて返れないわね」ケイコの瞳は熱線を帯びていた。命にかかわる秘密が眠っているのか。

慌てて話の矛先を変える。

「ところでケイコさん、いや、酋長、僕、インディアンになろうかと思っているんです。というより、なろうかどうか今迷っているんです。一ヶ月間ほど体験させて頂けませんか」

ケイコは冷淡な口調で、「それは無理ね。あなたは会員ではないし、ここに住んでも私たちには何のメリットもない。秘密だけ知られて逃げられたら堪らないからね。意志も弱そうだし」

「いえ、大丈夫です。何でもやります」

「帰りなさい。向こうにまだ未練があるんでしょ。顔つき見れば分かるわよ」

急所を突かれ、返す言葉がない。

5-b

そのまま長いこと黙っていると、羽根の冠を被った子供がドアを開けて駆け込んできた。頭には鷲の尾羽を並べ、緑色の紬をマントにしている。学芸会に出るインディアンの王子様に見えた。珍しげな顔でこちらを見つめている。母親に似た大きな目は純粋だった。

「翔太、浜で桂木さんの荷物運びをするのよ! たまには働きなさい!」

あの捻り鉢巻きのおやじは、桂木というのか。これが勉とケイコの子供、翔太だ。挨拶がてら、白々しく聞いてみる。「お子様は何歳になるのですか」

「九歳だわ。もっと早く産んだ子供がいるのよ。この子は面白いわよ。文明社会を知らないから、お菓子が欲しいとか言わないもの。ほっほ。あなたは文明生活の快楽を知っているから、そのうち、駄々を捏ね始めるのよ。ほっほ」

白黒の羽根を被った翔太は、遠慮して部屋の壁にぶつかった。本棚にある大小の瓶が、ちりんと高い音を立てた。翔太が出て行くと、「ほっほ」と艶美な笑いが部屋に響いた。

「いえ、駄々は捏ねません。僕は大層貧乏ですから贅沢をしていません。それに元々おかしいんです」自信たっぷりと言い返す。ケイコは微笑み、首をかしげた。

「そんな感じがするわねぇ。その暗~い雰囲気。何か似ているもの。五年前のあの人と」

ケイコに滲む眼差しで見つめられ、眩しかった。

「挙げ句の果てにはあの人の二の前になるのかもね」

「勉さんは一体どんな人だったんですか」

「義兄さんから聞いていないの?彼、ちょっと名の知れた劇作家だったのよ。まだ若いのに、劇団まで結成して演劇指導していたのよ。花に蝶が集まるように人間は自然を求めているとか、今よりは遥かにロマンチックだったわね」

「そんなこと全然聞いていませんよ。初耳ですね」

大げさにリアクションすると、ケイコは話を続けた。

「丁度その頃ね、私、医学部の学生だったの。親が病院を経営していて、その跡を継ぐ予定だったのよ。そんな中、偶然、張り紙を見かけたの。『精霊が呼んでいる』ってポスター。暇つぶしに劇を見に行ったら、仮面被って派手な衣装で踊っていたのよ。すぐにファンになったわ。あの人は、頭でっかちではないところが良かったのよ。ストレスの解消のつもりで彼の劇団に入ったの。ハードな医師の仕事をしながら、舞台で踊っていたのよ。若かったから体が持ったのよね」そういう顔つきと言葉遣いに知性が垣間見られた。

「本当に医者だったのですか。何でまた辞められたのですか」

「気付いたのよ。私の人生は忙しいだけで、全然充実していないって。劇団員と一緒にいて、価値観が変わったのね。石垣島や宮古島に行って、海で泳いだり、歌って踊ったりしていると、信じられないほどパワーがみなぎるの。それで休日が終わって東京に戻ると、ガクンと落ちるのよ。患者を診るのがだんだん辛気臭くなってきたの。文明人は生命力が弱いのかしら、と思うようになったわ。未開人が罹らない病気に、すぐに負けてしまって病院や薬に頼る。病院がなかったら、病気に罹らないように努力するのではないかしら」

「そうですかねぇ。最後の最後に頼るのが、医者じゃないですか」

ケイコは突き放すような冷たい眼差しで、

「医者は神じゃないわ。私たちは必ず死ぬのよ。だから私たちは覚悟すべき。今を生きること。後悔しない生き方をすること。私はね、踊るために生きてるのよ」

ケイコは目を輝かせて押し付けるように語った。尻込みしながら、「ただ、国民の義務というか、世間体がありますからねぇ」

ケイコはきっと睨んで一喝した。「自分の好きなように生きて、何が悪いのよ!」

「それはそうですが、こんな場所で、こんな生活していたら、槍玉に挙げられませんか」

「生きている世界が違うんだから、仕方がないじゃないの!」

夕日は沈み、蝋燭だけが光っていた。太った蚊が火炙りになるのを志し、炎に近づく。湿度が高くて汗が出る。自由に踊って暮らす生活。余命一年と宣告されれば別だか。

「確かに、そういう考え方というか、人生もあるかもしれません。あのぅ、僕も仲間に加えて頂けませんか」

「それはダメ! ここはあなたが考えているほど楽じゃないし、第一、これから何が起こるか分からないのよ」 

きっぱりと断ったケイコは目で脅した。食い下がっても無駄だろうと直感した。手紙を渡して即座に仲間入り、という目論見は外れた。何か手がないものかと、麻黄、甘草とラベルのあるビンの置かれた部屋を見回しながら、

「それにしましても、こんな所に病院を作っても、あまり意味がないような気がしますが。あっ、『映画』で使用するわけですか」

しらじらしく強調すると、ケイコは懐かしそうな目で笑った。「あれは事実上、廃止になったの。建前では、今でも映画やってることになっているわ。もっとも立ち寄る漁船もないけれど」

「僕はてっきり、リアリティを増すために、こんな生活をしているのかと思いましたよ」

「せっかく来たのだから、今晩だけは一緒に踊りましょうか」

ケイコは立ち上がり、棚から白い塊を一掴み取り出した。胡麻すり器に入れ、テーブルの上でごりごりと擦り始める。一体何の薬草だろうか、好奇心が膨らむ。ケイコは水差しから湯飲みに入れようとする。

「これを飲んで」

「何ですか」

「ハブの骨の粉末」

「毒蛇ですか!」

「身体が弱った時や、踊る時、ハブの力を貰うのよ」

「そういえば、あの船乗りの人も、今日は踊るぞと張り切っていましたよ」

「桂木さんね。今夜は新月だから、月初めの祭りがあるの」

今どき陰暦など使っているのか。薬や石像からして、ハブがこの島の神様なのかもしれない。俺は無神論に近かったが、今度こそ仲間入りしようと嘘をつく。

「実はですね、僕もインディアン同様、精霊の存在を信じているんです。やっぱり精霊は存在しますよねぇ」

口調があまりに白々しかったせいか、ケイコは目を細めた。「うそ臭いわね」

思わず首を振る。

「滅相もありません。目には見えませんが、自分には良く分かるんです」

「どういう風に?」

「何かしら、物質の原理を超えたような、原子が語りかけてくるような……」

でっち上げると、ケイコは両手を広げ、

「頭で分かろうとするのではなく、この体全体で感じるのよ」

束になった髪が跳ね、ふらっとイメージが伝わってきた。ケイコの傍には土人が叩くような片面太鼓が置いてある。

「それでインディアンは踊るわけですか」

的を射たのかケイコは微笑んだ。コップに粉末を入れ、水を注いでさじでかき混ぜる。一つを客の前に置き、自分のを一気に飲み干した。

「踊りはもともと医術。昔はきっと患者を踊らせて治癒したのよ」

「踊って病気が治るもんですかね」

「肉と霊は繋がっているから、昔の名医は病気を治すために、宗教的な洗脳をしたはずよ」

「実は僕も体調不良ですが、治りますか」

「確かに顔色がよくないわね。何の病気?」

「過喚起症候群です」

「パニックは踊れば治るわ。それ飲んで踊ってみなさい」

「はあ……」 躊躇っていると、

「踊りはね、昔は大地の呼吸であると考えられていたわ。大地は生きていたの。でも今は単なる物質。人間だってそうよ。今の医療システムでは、製薬、医療機器のメーカーや病院が、生身の体を解体していくの。人間はただの機械、物質なのよ。だから強烈な反動がきたのね。人間はただの物質ではないのよ、精神とか魂がくっついた物質なのよってね。私はね、映画ではアメリカ先住民の巫女役のはずだった。そのシナリオに、素敵な詩があったのよね。ページをめくった瞬間に心を打ったわ。ちょっと教えてあげましょうか」

ケイコはすっかり暗くなった窓に視線を投げた。物思いに耽っている。

ゆっくりと甘美な声で詩を口ずさみ始めた。 

世界全体に神が散らばっている。世界全体は神で包まれている。太陽のように大きな天体から、ウイルスのような小さなものまで。大きい神が小さい神を創造し、小さい神が大きい神へ感謝する。人間が神を祝福することで、世界は一体化する。どうやって神に感謝しようか。お供えがいいだろうか。お祭りがいいだろうか。芸術がいいだろうか。我らの先祖は、大きな石で造形物を作りました。蛇のスカートをはいた、大地の女神コアトリクエ。彼らは祈りながら踊った、大地の踊りを。

ケイコは憑かれた面持ちで、出口である片山の方へ歩み寄ってきた。腰から下に何か変な物を沢山ぶら下げていた。炎がその姿を炙り出す。

愕然とし、目を大きく凝らす。ケイコは蛇の絡まったスカートをはいていた。緑に黄色の混じったハブの皮を丹念に絡ませてスカートにしている。それはケイコの動きに応じ、小刻みに震え踊っていた。

そのまま側を通り過ぎ、医務室のドアを開けて外に出た。俺はハブの薬を一気飲みして追った。日は沈み、家から蝋燭が漏れているだけ。あの石像は、どう見てもハブの化け物だが、大地の女神コアトリクエというらしい。ケイコは映画では巫女役だったようだ。

女酋長は夢遊病者のようにテントの家から出ると、そのまま真直ぐ歩く。蛇の石像と擦れ違った。そのまま踊り場の家に上がる。闇だった舞台の四隅がオレンジ色に点った。姿が浮かび上がったかと思うと、ケイコは鈴を鳴らしながら踊り始めた。

生暖かい夜風に乗って、床板の軋む音が伝わってくる。頭の羽根が飛び、ゆらゆらと舞っている。憑かれた女が触角を揺らし、単独で盛んに飛び跳ねている。

唖然と立っていると、赤羽の男が家から飛び出てきた。腰にジャンベを当て、土人のように両手でぱたぱたと叩き始める。魂を何処か遠くに連れて行く、痺れるリズムを夕闇に轟かせている。アワアワする声が低く、高く、飛び交う。笛やマラカスの音が加わった。羽飾りを振りかざし、どっと現れ、ケイコの応援に行く。

怪獣の像の側に、焚き木が次々と投げられた。赤羽の男は舞台に上がり、酋長の傍らで精力的に叩いていた。ケイコは両手を高く突き上げ、腰をくねらせ、ワカメのようにゆらゆら踊る。小さく速かった太鼓の音は徐々にスピードが落ち、迫力を増した。耳を塞ぎたくなるくらい強烈な一打を繰り出す。

石像の傍で、赤い炎まで風に吹かれて妖しく踊り始める。「踊り場・劇場」の前で皆が飛び跳ねている。両手で何かを持ち上げる格好をし、体を小刻みに震わせている。

怖れていたことが遂に始まってしまった。目立たないよう、家の影に隠れ、様子を観察する。舞台に三人立っている。鈴を持ったケイコが頭と腰の蛇を踊らせており、右隣は赤羽の男がアフリカ太鼓を叩いている。ケイコの左隣では、眼鏡をかけたスキンヘッドの青羽の男がラッパを吹いていた。残りは踊り場の前で乱舞している。翔太、紫羽の男、白羽の男、黄色い紬を着た女が五人、「ほーっ、ほーっ」と喚き声を上げている。

蚊に食われた腕をかきむしりながら眺める。炎に焙られた羽飾りと、奇怪な踊りを念入に観察する。これも取材用のメモ帳に書き込むべきだろう。統一性のない手足の動きからして、型にはまった踊りではないが、音楽からはアフリカやキューバのダンスが彷彿された。生れたばかりの赤子のようにばたばた暴れて跳んでいる。「ほーほっほっほ」と腹の底から魂を絞り出している。

頬を叩いて気を静める。俺はあくまでルポライター。飲み込まれてはいけない。舞台で乾いた音を鳴らしている赤羽の男が際立った。数えると、舞台に三人、下には翔太を含め、男三人、女五人。一一人しかいない。これでルリカケス族の全員か。数に入れなかったが、漁船の男も混じって踊っている。白いTシャツ一枚で鉢巻きに鳥の羽を何枚も挟んでいた。

炎の照らす地面には、黒い人影が、ゆらゆら踊っていた。縦に長くなり、横に太くなる。これで病気が治るのか。ただ勝手な妄想で感情を高め、飛び跳ねているだけではないか。

憐れんで見ていると、ルリカケス族の状況が少し変わって来た。踊る人々の声が徐々に小さくなる。遂に叫び疲れたのかと思うと、ケイコが張り裂ける悲鳴を上げた。

「ルリカケスの民よ~~、万物の精霊を揺り起こそうぞぉ~~、せ~い~れ~~、せいれ、せいれ、せいれ、せ~い~れ~~、せいれ、せいれ、せいれ……」

酋長の号令に従い、体を揺すりながらの大合唱が始まった。

俺の後頭部に稲妻が落ちた。この凄まじい精霊音頭に、防壁は亀裂が入るほどの衝撃を受けた。圧倒され、立ち上がって身を乗出さずにはいられなかった。何が始まるのか。不安と興味が全身を駆け巡る。髪の毛が逆立つほどパワフルだ。「精霊」と一斉に絶叫した後、「せいれ、せいれ、せいれ」と三拍子で渾身の力を込めて地団太を踏む。全員が一丸となって『精霊』というチームの応援団になって弾けている。十二人の生命力が闇夜に発散され、本当に精霊が霜になって舞い下りてくるのではないかと錯覚した。

自分自身も引っ張り出されようとしているのを感じた。踊る人たちは強力な磁場を作っており、孤立した俺を引き摺り込もうとしている。空気や熱、光を通して侵入してくる磁力は、防壁が壊れないなら、丸ごと持っていこうとしている。

体が熱くなってくる。亀裂の入った壁がびしびしと壊れていく。太鼓の音が魂を沸騰させる。ルポライターの役目に必要な、クールでドライな意識が吹っ飛んでいく。自然と声が出た。精霊の呪文をなぞる。勝手に足が地団太している。公園の時以来のこの感触。沸き上がってくる衝動の強さはあの時とは比較にならない。

俺はTシャツ姿になって裸足で芝生に駆けて行った。

6-a 部族の人々

    踊っている間、肉体の夢で泳いでいた。闇にオレンジ色の炎が踊るように揺らめき、色鮮やかな鳥の羽がちらつく。ケイコの頭と腰に巣食った蛇が激しく回転している。

踊りに精根を使い果たした後、放心状態になり、何時の間にか意識を失っていた。

気が付くと、物置のような場所にいた。酒と藁の匂いで目覚める。仰け反ると体にはムシロの屑がくっ付いていた。ムシロには祖母の肌触りがした。起き上がると、酸味が鼻を突く。目の前では、顔を真赤にした男が杯をぐいぐいやっていた。白いTシャツは零れ落ちる酒でずぶ濡れになっている。捻り鉢巻きには白黒の鳥の羽が差し込んだままだ。

「どうじゃ、おみゃーも一杯やらんかい」

桂木は飲めと一升瓶を押しやってきた。

黒糖焼酎というラベルのある酒をガラスコップに注ぎ、水で割って飲む。日焼けした顔を更に赤くし、飲んでは干物を噛んでいる。

下戸に近かったので丁重に断る。酒よりも食べ物だ。激しい踊りで空腹を感じていた。足がいうことを聞かないので膝に手を当て、よろめきながら立ち上がった。

素敵な夢を見た後の名残惜しさと、テニスでもした爽快感がある。ここは何処だろう。見ると、金属製の棚が延々と立ち並んでいた。棚の上には透明なプラスチックの容器が置かれており、「塩」「味噌」「米」「小麦」といった表示が細かく貼り巡らされている。木炭の箱が山積みされ、食器の他、瓶や釜やまな板、椅子なども一箇所に集められている。さらに上から落ちてきそうなほどの本棚がある。

この部屋は「倉庫・ライブラリー」であろうと察した。酋長の家をくぐって分かったことだが、丸い家はてんとう虫の構造。隣にも部屋があるはずだ。

ちびている蝋燭がガラスに囲われただけのランプに、粉を撒き散らしながら蛾が近づいている。扇型の部屋を見上げると、天井高くまで物資で敷き詰められている。部屋の隙間に、酔っ払いの男といる。この状況から、俺はルリカケス族の客として扱われているのだろう。滞在することになるのなら、この物置場で寝泊まりすることになるかもしれない。

荷物があった。親切にも、誰かがボストンバッグを運んでくれていた。腹の虫を収めるため、バッグを開ける。暑さで傷みかけたパンとジュースを取り出した。

食べ終えるとランプを持って、寝込んだ桂木を尻目に外に出る。右隣にある「雑貨屋・衛生所」へ行く。誰もいない。蛇口から水を出して少し飲んだ。生温かったが美味しい。汚れた裸足を洗い、長靴をはく。反省の意味を込め、踊り狂った現場に向かった。

墓場のように静まり返っている。爽やかだ。夜空を見上げると、意識が吸い込まれるほど星が降っていた。天の川には、さそり座のアンタレスが赤く輝いている。心を洗う潮騒に囲まれ、夢の島のようだ。さっきの踊りは幻想だったのか。

澄んだ森の空気を胸一杯に吸っていると、フクロウの不気味な鳴き声が盛んに聞こえた。何かしら夜行性動物の叫ぶ声がした。

石像の横で、炭や灰に抱かれた残り火が、わずかに赤く残っていた。夜の虫となり、残り火に近づく。驚いたことに、ハブらしき蛇が黒焦げになっていた。夜は毒蛇が出没するのを思い出し、足元に神経を集中させ、さっきの踊りを回想する。

確かケイコとの話が突然中断し、電撃ロックコンサートのような祭りが始まった。最初に『精霊ダンス』が始まった。その後、ケイコの独唱があった。その後……。例の『大地の踊り』が続いた。その後……。良く覚えていない。自由奔放なダンスだったか。記憶が薄れ始めたのは何故だろう。ついて行けなくなったのかもしれない。体力的、精神的に。

踊りでストレスが解消し、頭はすっきりしていたが、まだ夢の中を散歩している心地だった。これまでの悩みが全部すっ飛んだ気がした。ただ踊り過ぎたのか、馬鹿になったのを感じる。雲の上を転げているようにふわふわし、意識が空中遊泳している。潮騒が鼓膜に突き刺さる。心地良さは次第に耳鳴りに変わった。狂ってしまう前兆なのだろうか――。

ぼおっとしていると、目の前に、黒い塊が脱兎のごとく走り去って行った。流れ星のように一瞬の出来事であった。森から出てきたと思ったら、猛烈な速さで砂を蹴り、浜に下って消えて行ったのだ。衝撃を感じたが、逃げる間もなかった。この島、イノシシでもいるのか。不思議に思ったが今日来たばかりなので何も分からない。

首を傾げ、蛇を警戒しながら、「倉庫・ライブラリー」へ戻った。


起きた時、既に太陽は天高く上っていた。それでも例の赤い羽根の男に揺り起されなければもっと眠っていただろう。目を擦りながら立ち上がり、酋長の家に連れて行かれた。酒臭い桂木は、まだムシロの上で鼾をかいている。

酋長の部屋に入ると、今朝は東の小さな窓が機能し、目を欺くばかりの明るさ。差し延びた日差しは、テーブルを光らせている。

ケイコはやはり奥の場所に座っており、白いウサギを抱いていた。その蛇の髪がウサギに噛み付くように垂れている。色艶が良い顔は機嫌がよく、しつこく小動物を撫でている。

俺は昨日と同じ出入口に座り、大あくびを手でふさいだ。

「昨日は話しが途中になって、ごめんね。あの詩を歌うと体が勝手に踊ってしまうのよ。……とにかくあの人に会うのは無理だし、あなたは〈なろう会〉のメンバーではないから、ここに滞在するのも認めないわ。今日、桂木さんと一緒にあっちの世界に戻りなさい」

その拒絶には温もりが感じられた。口では帰れといっても、表情はこっちに残りなさいと言わんばかりと笑っている。ケイコはウサギを放す。タバコの煙が流れている。

既に帰らないと腹を決めている。〈なろう会〉が何なのか知らないが、この島に興味がある。この蛇島は、魔性の魅力を持って襟首を掴んで離さない。それにあの時の契約の問題もある。たったこれだけのルポで大阪に帰れば髭男は激怒し、金を返せと言うに違いない。

「僕をルリカケス族の一員にして頂けませんか。僕は今の現代人の生活よりこっちの世界の方が性に合っています」

頭を下げて熱心にお願いした。内心嫌になったら戻ろうとは思っていたが、行き場のない身。少しだけ本気が混じっていた。四本の長い触角がぶら下がっているケイコは長いパイプを吹かす。煙を吐きながら冷めた口調で、「片山くんと言ったわね。何事も素敵に思えるのは最初だけ。でも人間は刺激、過激さを求めるの。男の人は特にそうよ。あの人もそうだったわ。三年前は一緒にうまくやって行けると思っていたのに……。だんだん勢いが増して押さえが利かなくなってきたの」

「過激?勉さんは過激になってしまわれたのですか」

ケイコは芸術的な長いパイプをそっと机の上に置いた。細い眉をしかめ、きっと睨んだ。腹の底から怒りを煮え滾らせている。

「あの人、インディオのシナリオを書き過ぎて頭がおかしくなったのよ。まともだと思っていた私が馬鹿だったわ。底抜けの気狂いだったの。野蛮人、畜生なのよ」

「僕、思うんですけれど、作家って危険な商売じゃないでしょうか。命を絶った人も沢山います。虚構と事実の区別は書いているうちに曖昧になりがちです。どんな虚構でもその作家自身が実践すれば事実になるではありませんか」

なだめるように理屈をこねると、ケイコの怒りは溜め息に変わった。

「あなた昔テレビでやってた『それ行け鳥三郎』って知ってる?」

斜め左上を向き、記憶のページを捲る。元出版界の端くれ。漫画はぱらぱら捲ったことがある。農民に刈られる稲が悲鳴を上げたり、米蔵にすむネズミが隠れたり他愛もない作品。人間以外の視点を中心に書かれているから、確かにインディアン的な営みかもしれない。何度も肯きながら、

「ありました、ありました。あれは子供向けですねぇ。はぁ、あの漫画家だったのですか」

ケイコは思い出し笑いをしながら、

「あの人、あれで結構儲けたのよ。それでインディオの劇団を発足させたの。さらに舞踊研究会も立ち上げ、芸術振興の助成金をもらって、歌と踊りを毎月発表したわ。でも閑古鳥が鳴いてたわ。仲間も矛盾を感じていた。仕事で忙しくて踊る暇がない。自然崇拝の癖に大都会に住んでいる。そこで映画を作るメンバーを募るために、あの人が〈なろう会〉、つまり〈インディアンになろう会〉を発足させたわけ。システムは単純明快。会員が映画制作のスタッフ、キャスト、スポンサー。これなら、損しても問題もないでしょ。一番辛かったのは職場や私財を投げ売ったことより、親や兄弟に内緒で来たことかしらね」

「でも近藤勉さんの兄貴は知っていましたよ」

「当然よ。何といっても彼は〈なろう会〉の発足時、副会長だったのよ。出資もしたし、多分そのうちこっちに来るわ。五年前、奥さんに猛反対されてね。中学生だった子供も嫌がるし、バブルの時の住宅ローンがまだ残っているし。……副会長の癖になかなか島に来ないのよねぇ。今、来るか来まいか迷ってるんじゃない」

「桂木さんが二年間で七人乗せてきたって言っていましたが、あれも会員ですか」

「そう。遅れてここに来た〈なろう会〉のメンバーよ。……あそこの二人もそうよ」

ケイコは窓の外にキセルの先を指した。今日は踊り場の付近で、色眼鏡を付けた中年の女が羽飾りに色を塗って細工している。男は相変わらずうちわで女を仰いでいた。

あの髭男、何かあると思ったが〈インディアンになろう会〉の副会長だったのだ。夜中に公園で踊るほど嵌まっていたのだ。今でも未練があって、こっちに来るかどうか迷っているのだ。だからこの俺を、ルポライターに遣わせたのだ。

「でも昔とは全然違うの。あの人のインディオに対する考え方は変化に変化を重ねて、今泥沼に陥っているの。底無しのね」

「それで、ジャガー族とルリカケス族はどう違うんですか」

ケイコは嫌悪した顔を顎で突き上げ、口を尖らせた。

「暗いのよ。生きるのが厭になるほどね。言っておくけれど、このルリカケス族はプラス思考よ。でもジャガー族はマイナス思考なの。こっちは楽しむためにインディオをやっているけれど、あっちは苦しむためにインディオをやっているの。あの畜生男、生け贄の儀式ばかりに執着しているの。三年前、動物を連れてきて放し飼いしたけれど、今にして思えばあの畜生が狩りをするためなのよ。狩りは生け贄の儀式だと、あの男、狩りをするために生きているの。おぞましいことを頻繁にやっているわ。ジャガー族は闇の神を祀っていて、その神は普通の御供え物では満足しないの。人間の血までも要求しているの」

物騒な話を聴いて寒気がした。

「ち、血を要求するって、まさかこのルリカケス族の所に攻め込んでくるんですか」


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