かねてから議論されてきた日本版「司法取引制度」がどうやら国会で成立する見込みとなったようです。

 この制度については、多くの実務家、研究者、ジャーナリストから「新たな冤罪を生む制度だ」との批判がなされています。


 導入されようとしている制度をごくかいつまんで説明しますと

 組織的な犯罪に関わっていると思われる被疑者・被告人が、自分ではなく、他人(例えば犯罪組織の上位の者)の犯罪に関する話を検察官にすることによって、検察官から、不起訴などの有利な処分の恩典を受けられる

というものです。


 組織犯罪を撲滅するためには、下っ端をいくら捕まえたり処罰しても根本的な解決にはなりません。
 できることなら、組織の上位、とくにトップにいる悪党を懲らしめて犯罪組織を潰したいところです。

 ですが、人間というものは、目の前に「報酬」をぶら下げられれば、その「報酬」ほしさに、苦し紛れに嘘をつきかねないものです。
 過去の裁判例をみても、例えば取調の場で「認めたら有利な取り扱いをしてやる」という「利益誘導」によって虚偽の自白がなされ、結果、無罪となったケースがあります。

 
 私自身、検事時代に無罪判決をもらった共犯事件の公判をやっていた途中で、服役を終えた実行犯の事情聴取をしてみると

 「警察が『Xさんと一緒にやっただろう』とわぁわぁうるさく言うので、面倒くさくなって、『はい、そうです』と話してしまったんですよ」

と驚くべきことを聞いた経験があります(拙著にも書いています)。


 検察官が被疑者・被告人に不起訴などの有利な処分をちらつかせれば、それを目当てに全く無関係の第三者が共犯者だと嘘をついてしまう危険があるのは、多くの方々が指摘するとおりです。



 私は、こうした批判に加えて、日本版司法取引には別の観点からの大きな問題があると懸念しています。

 報道では、日本版司法取引が行われるときは、「弁護人が取引に関与するから、被疑者・被告人が無実の人を罪に引きずり込むおそれはない」と言われています。
 なるほど、司法取引のためには弁護人の同意が必要とされるので、みなさんも「弁護士がOKだと言うのなら、間違いは起きないだろう」と思われるでしょう。

 しかし、ここでいう「弁護人」は、取引をする被疑者・被告人の弁護人です。
 被疑者・被告人が取引の際に「Xさんから命令されてやりました」と語るところのXさんの弁護人ではありません。
 もし、Xさんが全く無関係だったとして、果たして弁護人はそれを見抜くことができるでしょうか。

 取引を持ちかけるであろう検察官は、目の前の被疑者・被告人の話を聞くだけでなく、そのほかの証拠も見ています。
 ですが、弁護人は検察官から証拠を見せてもらえません。
 もっぱら被疑者・被告人の話だけで、その話が「無実のXさんを引きずり込む嘘かどうか」を見抜き、その上で取引に合意しろ、という制度なのです。
 
 そもそも、取引を持ちかける検察官ですら、被疑者・被告人の「Xさんから命令されました」という話を聞いた後、それが本当かどうかの裏付け捜査をして初めて、話が真実かどうかがわかるはずです。
 なのに、弁護人は裏付け捜査の前の時点で、被疑者・被告人の話が真実かを判断しなければならないのです。
 「無茶を言うな」、が弁護士の本音でしょう。私もそう思います。


 さらに、日本版司法取引には、弁護人の職務のあり方を巧妙に利用した罠が仕掛けられていると私は思います。

 弁護人は、自分の依頼者ができるだけ有利になるように努めなければなりません。
 無実の依頼者ならば当然に不起訴や無罪を得るよう活動します。
 仮に罪を犯している依頼者なら、できるだけその処分や刑が軽くなるように活動する義務があります。

 ここで日本版司法取引をもう一度見てみましょう。

 被疑者・被告人は、とにもかくにも「Xさんから命令されました」と言えば、不起訴になったり求刑を軽くしてもらえます。これは言うまでもなく有利な結果です。
 ですから、弁護人としては、自分の依頼者たる被疑者・被告人を「弁護」するためには、取引に応じるのが最も好ましい弁護方針になるのです。

 しかし、先に述べたように、そもそも弁護人は被疑者・被告人の話が真実かどうかを知る術が全くありません。
 それでも、自分の依頼者を「弁護」して有利な成果をあげなければならないのです。
 しかし、自分の依頼者を「弁護」するために、無実かもしれないXさんを罪に引きずり込むことになるかもしれないのです。
 Xさんは弁護人の依頼者ではありません。となれば、弁護人はXさんを引きずり込んでも、それによって自分の依頼者を「弁護」することになるのなら、嘘を言わせてもやむを得ない、と判断することになるのでしょうか...


 弁護人が取引に同意した後、実は被疑者・被告人の話が嘘だったとわかったとします。
 そうなると、当然のことながら、無実の罪に引きずり込まれたXさんは、怒りの矛先を被疑者・被告人のみならず、その弁護人にも向けるでしょう。

 「お前、プロの弁護士のくせに、どうして嘘を見抜けずに取引したんだ?!」

 弁護人はXさんからこうして訴えられる危険があるわけです。

 では、弁護人は「私はXさんが命令したと確信が持てないから、取引には応じない」と依頼者たる被疑者・被告人に言えるでしょうか。
 繰り返しますが、弁護人の職務は、依頼者を「弁護」することです。
 もし、弁護人が取引を拒んだ場合、今度は依頼者たる被疑者・被告人から

 「あなたは私の弁護人でしょう。それなのに、なぜ私が不起訴になる取引に応じないのですか?!」

 こう訴えられてしまう危険があります。


 回りくどくなりましたが、日本版司法取引は、弁護人が「自分の依頼者が有利になるよう活動する義務」を負っているのをいいことに、むしろこの義務を利用、否、悪用して、弁護人だけが危険を冒して取引に応じるよう迫っている制度と言えるのです。


 取引に応じたら、将来、嘘だとバレてXさんから責められる。
 取引を拒んだら、自分の依頼者から「弁護してくれない」と責められる。

 弁護人には立つ瀬がありません。
 乱暴な表現で言えば、日本版司法取引は、今のままでは「弁護人殺し」の制度だと思います。
 弁護人が責任を持って取引に応じられるためには、せめて、取引に際しては検察官がほかの証拠も見せるべきでしょう。
 
 「弁護士が関与しているから大丈夫」という見出しに惑わされないでください。