私の父に対する不信感は、母が他界した直後から始まっていました。

 

母が亡くなった30分後から「再婚する」と言い始め、母の49日がまだ終わっていない時期に、私達夫婦に嘘をついてまで「A氏の妻M」に会いに行っていた父の行動に対し、私は怒りを通り越し、もはや「呆れる」しかありませんでした。

 

そういう状況の中でも、東京の自宅で単身生活をしていた父の事は心配でしたので、私は母が他界する前と同様に、仕事が終わった後に実家に戻って家の中の確認を行い、既に就寝している父の様子もほぼ毎日見るようにしていました。

 

そして日曜日は、夕方から妻と長男を連れて実家に戻って父と一緒に夕食を食べ、父には「今後どうしたいのか」を、何度も聞いていました。

 

結論として、以前から両親との間で話に出ていた「敷地内同居」の話を早急に進めるのが一番良いという事になり、妻の同意も得られたので、それに合わせて「父と私の長男の養子縁組」の手続きも進められて行きました。

 

しかし、養子縁組届を区役所に提出した数日後の平成24年5月13日、私は父と初めて口論になり、その時父が繰り返し言った「死んだ人間」という言葉が私の心を深く傷つけ、私の中に「怒り」と言う感情を抱かせるようになりました。

 

そして、その後も父の言動は一切変わる事なく、更に長女Jと次女Hが家に入り込み、私の留守中に「母の形見」を次々と処分して行った事が原因で、私と父が口論になる回数も増え、私の我慢も徐々に限界に近づいて行きました。

 

平成24年6月10日(日)、いつもの様に妻と長男を連れて実家に戻ると、家の駐車場に赤い原付バイクが停まっていました。

 

「次女H」が実家に来ていたようだったので、私は妻と子供を余計なトラブルに巻き込ませないように、実家の前をそのまま素通りして、自分の家まで車を走らせました。

 

翌週の6月17日(日)、私達夫婦は長男を連れて「ユニクロ」に行き、父の日のプレゼントの半袖シャツを数枚購入してから実家に行きました。

 

幸いなことに、この日は「長女J」も「次女H」も実家には来ていなかったので、私は長男を抱いた妻と一緒に近くの「王将」まで行き、父の好きな餃子を5人分買って帰り、皆で一緒に食べたのです。

 

しかし、残念ながらこれが父と私達夫婦の「最後の晩餐」になってしまいます。

 

その数日後、以前、自宅に持ち帰っていた「領収書」をたまたま見返した時に、私はある「重要な事実」に気が付いてしまいました。

 

束になっていた領収書の中に、母が「危篤」と言われた「平成24年3月19日」の領収書(資料①)が入っていたのです。

 

この日、父は福島から東京へ戻って来ました。

 

そして、15時頃に母の病室に立ち寄り、主治医から「危篤」との説明を受けていたにも関わらず、22時まで誰にもその事を知らせず、どこかに行ってしまっていました。

 

この領収書を発行したレストランの場所は麹町、父の会社の目の前で、この金額から考えると、テーブルには「2人」しかいなかったと思います。

 

更にこの場所は、A氏夫妻が経営する「コンビニエンスストア」の本社がある場所で、以前からA氏夫妻は「東京の本社に呼ばれる事がある」と言っていたのです。

 

「母親が危篤になったとき、その事を誰にも知らせずに、この店でMと会ってたのか…」

 

そう考えた途端、私の中でずっと守り続けていた「何か」が壊れてしまったのです。

 

(資料①:平成24年3月19日の領収書)