成功報酬型 心理カウンセラーの養成 椎名雄一

成功報酬型 心理カウンセラーの養成 椎名雄一

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そんな当たり前の心理カウンセラーを増やす活動をしています

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現在49歳になった私ですが36歳のころうつ病と診断されました。その頃、とても多忙な日々の中、管理職でもあったので自分の身体と精神が病んでいるなんで思ってもいませんでした。まさか私がという一人でした。仕事で疲れていたのに加えて身近な人が亡くなって気力を失い鼻に腫瘍ができて手術もして何もいいことないのに毎日仕事はあるという日々。そんなある日、目を覚ましたら布団の上で倒れてしまいそこでピンとはっていた糸が切れたようでした。ここまでくると異常です。病院へ向かいました。まず内科へ。待たされたあげく若いドクターは私に冷たい一言を投げかけました。「受診する科を間違えてますよね~精神科ですよね~」

私は何を言われてるか分からず紹介状を握り締めて心療内科に向かいました。心療内科で向かいあった先生は「ワシが治しちゃる。でもな、自分で命を絶ったらいかんで」とさり気なく言ってくれました。80歳くらいになろうかというおじいちゃん先生でした。うつ病は治る病気なのです。自分で命を絶たなければです。

こんな状態になった自分を責めました。何度も何度も自分の中の自分に聞いてみたけどどうにもならずまた自分を攻め続けましたが、こんな時こそ母に聞いて欲しいと当時大阪にいましたが実家に電話すると母はサボっている感じにしか受け取れないようで「早よ治して早よ働きよ」って追い込んてきました。うつ病について実弟が説明してくれても我関せずの態度を一貫していました。

高校を卒業以来16年仕事ばかりの日々だった私が病んで初めて何もすがれるものがないと気づきました。なんのために生きているのかもわからず疑問を抱きつづけてやる気が長続きせず会社を休職することになりました。家の電話も電源を切り、携帯電話も同様に外部との接触を断ち、身体を休める日々が続き、数ヶ月の間声を出すこともできなくなりました。仕事人間だった私でしたから私が行かなくちゃって焦りはありました。上司にも電話をしなくちゃと思いました。何の意味もないことでした。私は会社の歯車でしかなかったのです。

復帰してからは身体は薬の副作用で思うように動かず、昼間眠くて仕事にならず落ち込む日々でした。電車に乗っても気持ち悪くなって一駅ごと降りていました。

現在は以前のように100%の力で仕事はしなくなりました。なるようになる気がしてきました。
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私は仕事中の事故から全てが始まりました。事故によりむちうちになり思うように仕事ができなくなりました。仕事も通院のために休んだり、むちうちの痛みで休んだりしました。社員からは休むと冷たい目で見られ、心無い言葉も飛んでくるようになりました。次第に会社の中で人の目が気になるようになり、「あいつおおげさなんだよ」とか「事故して休む口実ができていいよね」そんな風に思われてるのではないか、自分が休みの間に陰口を叩かれてるのではないかなど悪いことがグルグルと頭の中を回ることが多くなりました。すると、会社の中で気持ちが悪くなることが多くなり、ついに吐いてしまうようになりました。家でも吐くようになり体重も10kg以上落ちました。吐き気止めをもらいに病院にいくと胃カメラを進められ、胃カメラをしたが以上もなく診断結果は心因性嘔吐。うつ状態、うつ病でした。それからは薬を服用しながら仕事をしましたが、悪くなる一方で食事をするとすぐに吐き出す、テレビが見れない(人の笑い声や音に敏感になる)、ボーっとして車の運転が危ないなど一向に良くなることはなく休業することになりました。休み始めて「自分は平日に休んで何をしているのか」、「みんなは仕事しているのに自分は・・・」など自分を責め続けている日々でした。会社からは自主退社を進められ、そのショックより悪くなり「自分はうつなんだ」ということを強く認識しました。それからは休んでる間は会社のことは考えてしまうがあまり考えないようにする。すこし外にでる機会を増やすから初めている最中です。
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私がうつ病になったのは本当に突然のことでした。

ある日会社に出社しようとしたら、ビルを目の前にしてなんとなく嫌な気持ちを覚え、吐き気・めまいがするようになり

2・3日同じような症状が続いたので大学病院の精神科で診断を受けたところ「不安障害」(うつ病の一種)という診断を下されました。

自分とは無縁だと思っていた病気を宣告されたとき、色々なことを考えましたが一番大きなウェイトを占めたのは

「彼女にどう伝えよう・・・」ということでした。

当時私は付き合っていた彼女と同棲をしておりました。

当然うつ病となれば自宅での療養も大事なわけですが、彼女に何も伝えないまま会社に行かずに家で休養することはできません。

しかし、自分がうつと診断されたということを彼女に伝えることは当時の私にとってはとても高いハードルだったのです。

「見捨てられたらどうしよう」「ダメなやつだと思われたらどうしよう」

そういった負の感情がずっと胸の中を支配しており、伝えるも地獄伝えないも地獄といった状態でした。

最終的には様子のおかしかった私のことを怪訝に思った彼女に泣かれながら問いただされたので正直に白状したわけですが。

今振り返ってみるとうつ病にかかっている間どの瞬間が一番きつかったか、というと

自分の症状を近しい人に打ち合けるか否か(いずれは打ち明けなければいけないわけですが)、を胸中で思い悩んでいる瞬間だったと思います。

その最初の第一歩が踏み出せずに悩んでいる人がおそらく皆様が考えている以上に多いであろうということを

心に留めておいていただければ幸いです。
わたしが、初めて自分はうつ病なのかなと思い始めたのは、高校2年生の春でした。

でも、誰にも言えなかった、いや、言いたくなかったです。

自分で自分が選んだ高校生活。ずっとずっと憧れていた進学高校。

母や父の自慢の長女。皆から期待されていました。

期待を裏切ることなんて出来ない。

常にその思いが、頭の中にありました。

でも、頑張りたいのに、もっと頑張らなきゃいけないのに

ヤル気が起きなかった、意欲が沸かなかった。

うつ病だったんです。

家に帰ると悲しくもないのに涙を流す毎日でした。

本当に、本当に、誰にも言えませんでした。

毎日、テスト、勉強、沢山のことをこなさなければいけないのに

全くついていけない自分に、苛立ち、焦り、ストレスを抱えていました。

どうしようもなく、辛い辛い学校生活でしたが、学校には毎日行きました。

でも、うつ病のことは誰にも言えませんでした。

ある日、転機がわたしに訪れました。

それは、高校3年生の夏、私立大のAO入試に合格したことでした。

大学が早々決まったわたしは、学校に行くのを辞めました。

不登校になりましたが、大学進学が決まったため

誰も悪く言いませんでした。それは、救いでした。

それから、大学は、中退しましたが、後悔はしていません。

今は、26歳になり、あれから8年間。

辛い学校ともサヨナラし、楽しい毎日を送っています。

もちろん、今でも病院には通院していますが、結婚し、

パートナーに恵まれ、うつ病をサポートして貰っています。

皆さんも一人で抱え込まずに、誰かに相談して、通院

療養してうつ病が一人でも多く良くなって欲しいと思います。
小学生の頃に無視される虐め、その後中学へ行き始めると体調不良が続き小児科へ。

そこでの診断は自律神経失調症と過敏性腸炎。

精神科を紹介されました。



子供ながらに辛かったのは親に引きずられながら学校へ行ったこと。

今よりも、もっともっと「そういう事」に理解が無かった時代。

具合が悪いと伝えた教師には蔑んだ目で見られ無視されました。

そのような経緯で不登校に。

外は怖い、人は怖い。

今みたいにネットは普及していないので、

毎日、自分の部屋で音楽を聴いたり、ベッドでゴロンとしていました。

精神科へも行けず、最初は母だけに行ってもらっていました。

その後行けるようになり通うように。

そこで知りました。

自分が「拒食症」だってことに。

え?私はちゃんと食べてるよ?と思いましたが、そうでは無かったのです。

身長が150cm以上にも関わらず、体重は30kgを切っていました。

でも、比べる相手が居ないから分からなかったんです。



そして、中学高校と行けず私の学歴は中卒です。

10代の後半ぐらいでしょうか、鬱病を発症しました。

今も続いています。

一番酷かった時は薬を過剰摂取し、気が付いたら血の溜まりが出来ていました。

腕は傷だらけ。

今もハッキリと残っています。

ですが、今でも死にたくなります。

自分はいらない存在だと思います。

居場所が無いと思います。



今も人と上手く関わることが出来ません。

ずっとこのままなのかと思うと暗闇に一人落とされたようです。