昨日は、おばのお見舞いに長野県塩尻市までいってきました。

 おばの様子は、聞いていたとおりたくさんのチューブがつながり

命を保っているという状態でした。

 点滴もできず、胃に直接チューブで栄養を流していました。

 呼吸も健常者の呼吸が100%とするなら、おばの呼吸は80%ぐ

らいで、呼吸を補助するマスクがしっかりつけられていました。

 従姉妹や母や私で何度も話かけても、全く反応はありませんで

した。

 事前におばの状況を知らされていたので、現実を目の当たりに

してショックは受けませんでした。

 ただ、「生きる」ってどういうことをいうのだろうと、ずっと考えてい

ます。

 生きるとは、命があること・・・。

 生きるとは。

 自分の意思で自分の体が動かせて、感情を表せること、話せる、

食べることができる、このようなことができて生きているというので

はないかと思うのです。

 おばはこれらもことが、一切なにもできない状況で生かされてい

ます。機械の力を借りて・・・。

 もし、自分だったら。私はお断りしたい。

 ただ、チューブでつながれて生きているだけなんて・・・。

 自分だけの問題ではなく、そのときそばにいる家族にも多大な

負担をかけたくないのです。

 毎日、仕事をして食べて活力をつけなければいけない人たちに

経済的、精神的負担をかけるのは申し訳ないと思うのです。

  

 今のおばの状態は医学的、法律的にみると生きていると判断さ

れます。

 時に、最高裁は生活の実態に即した判断をすることがあります。

 都の職員だった男性が、内縁の妻と長く生活し内縁の妻は男性

が病に倒れてからは長い間介護し、最期を看取ったのです。

 遺族年金は内縁に妻がもらえるのか、それとも離婚に応じなかっ

た戸籍上の妻がもうらえるのか。

 最高裁は、長年介護し最期を看取った内縁の妻に遺族年金を受

け取る権利があると判断を下しました。

 今のおばの状況を実態に即するならば、死も同然だと思うのです。

 お医者さまに、意識が戻る見込みがないと言われた今、周りの人

間にはなす術が全くありません。

 昨日も、おばになにもしてあげられませんでした。

 ただ、おばのベッドのそばで立ちすくむだけでした。

 

 自分の両親がおばのような状況になってしまったら・・・。

 医者の言葉を受け取りつつ、やはりほんの少しでも奇跡が起きる

ことを信じて病院に通うのだと思います。

 自分がこうなったら、チューブでつながれて生きてるだけなんてい

やだ。とわがままがいえますが、身近な人がそうなったら、やはり、

奇跡を信じてずっと見守りたいと、わがままな考えをもつ私です。


 自分で自分の人生の判断ができない。

 なんて残酷な状態なんだろうと思います。

 今の自分にできること・・・。

 健康でいることにひたすら感謝したいと思います。