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田口裕史のブログ

戦争責任や戦後補償の情報を提供します

 ハンギョレ新聞の2016年3月11日付記事「不可逆的な韓日慰安婦合意に価値はない 世界的公論化は不可避」を読んだ。

 

 ドイツ語のanerkennen(「認める」等の意)という言葉・概念について私に教えてくれたのは、この記事に名前が出てくる梶村道子さんだった。90年代に、ベルリンで梶村さんらが「慰安婦」問題にかかわる写真展を行った際、手伝ってくれたドイツ人の展示デザイナーたちが、「『慰安婦』とされた女性たちに対する私たちのanerkennung として、展示場に赤い薔薇を絶やさないようにする」と言ったという。このエピソードを通じて梶村さんは、この言葉の持つ本当の意味は「相手に対する尊敬の意を込めて、その存在を正しく正当に認めること」なのだと私に教えてくれた。
 被害者への敬意と承認を継続すること、被害者の痛みに社会が寄り添い続けること。そしてそれを現在と未来のあり方に活かすこと。補償金支払いや公的な「謝罪」は、その具体的な表現でしかない。歴史を共有するための、持続的な作業が求められる(例えば広島と長崎で、同様のことはすでに公的に行われ続けている)。


 しかし、私たちが生きるこの場所は、「慰安婦」問題から目を背け、否認しようとする言葉に満ちている。痛みを被った人たちが怒り、納得しないのも当然だろう。
 90年代から私は、戦後補償問題に「解決」という語を用いるべきではないと言い続けてきた。「解決」という語は、「終結」のイメージをともない、それは「忘却」をも意味すると思えたからだ。自分が発言する際には「戦後補償の実現」という表現を用いてきた。
 「慰安婦」問題の「最終的解決」だとされる昨年末の「日韓合意」を私が批判的に見る理由の一つが、この点である。

 

 記事は、ベルリンで行われた、日韓合意に関する懇談会の様子を伝えるもの。
 「記憶、責任、未来財団」顧問のウタ・ゲルラント氏はこう述べている。
「慰安婦犠牲者はより多くの共感、連帯、また歴史的事実に対する公式的認定を必要としている。 和解はできるかもしれないし、できないかもしれない。 和解を人為的に作り出すことはできず、互いに強要できないことだ」

歴史学者・吉見義明氏を原告とする損害賠償等請求裁判の一審判決がくだされた(2016120日東京地方裁判所。判決文はこちら =「YOSHIMI裁判いっしょにアクション 」のウェブサイト内)。



2013527日、当時「日本維新の会」所属の衆議院議員だった桜内文城氏が、日本外国特派員協会の記者会見において、司会者の発言をうけて「ヒストリーブックスということで吉見さんという方の本を引用されておりましたけれども、これはすでに捏造であるということが、いろんな証拠によって明らかにされています」との発言をおこなった。今回判決のあった裁判は、吉見氏がこの発言を名誉棄損にあたるとして訴えていたものである。



裁判所は、桜内氏の発言が「原告の社会的評価を低下させる名誉棄損に該当する」としつつも、原告の請求を棄却した。「捏造だ」という桜内氏の発言を「意見ないし、論評の表明に属する」とした同判決は、「ある事実を基礎としての論評の表明による名誉棄損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、…人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、その行為は違法性を欠くものと解するのが相当である」という免責要件を示したうえで、桜内氏の発言が「『従軍慰安婦の置かれた境遇をどのように理解すべきか』ということを論じたものであるから、公共の利害に関するものであり、その目的が専ら公益を図ることにあったと認められる」「司会者の発言にその場で直ちに対応するために口頭で述べた短いコメントにすぎないことや本件発言の内容、経緯などからすれば、未だ原告に対する人身攻撃に及ぶものとまではいえず、意見ないし論評の域を逸脱したものということはできない」等として、「本件発言は違法性が阻却されるから、被告は本件発言について免責される」と判断している。



以下、気になったことを法律の「素人」として書く。内容の妥当性に自信はないので、後日書き直すことを前提にしたメモである。

(なお、私はこの裁判を直接支援してきた者ではない。したがって、以下のメモは、裁判原告や原告代理人、支援者の意見を代弁するものではない。迷惑がかからないよう、付け加えておく)



判決文では、以下のように述べられている。


●「捏造」という言葉を、本来の語法どおりに理解するならば、「事実でないことを事実のように拵えて言うこと」という意味になる。



そして、

●従軍慰安婦が「性奴隷であった」かどうかは、事実そのものではなく、そう評価すべきかどうかという問題であるから、事実について用いられる「捏造」という言葉はそぐわない。



したがって、

●桜内氏の発言を耳にした者が、この「捏造」という言葉を本来の語法どおりに理解するかは疑問だ。一般の視聴者は、本件発言中の「捏造」という言葉を「誤りである」あるいは「不適当だ」などの意味に受け取るか、せいぜい本件発言の経緯と文脈から「論理の飛躍がある」などの趣旨に理解するにすぎないものと認められる。特派員協会から依頼を受けた中立的な立場にある翻訳者も、「捏造」という言葉を「捏造」という意味を表す英語ではなく、「誤り」あるいは「不適当な」という意味を表す語で英訳している。



ここから、気になったこと三点をメモしておく。



判決文は、「吉見氏(の記述)は捏造だ」というときの「捏造」という語を、それを受け取る側が「言い間違い」「語の選択の間違い」であるとみなし、文脈に合うよう「不適当だ」等の意に解するはずだと述べているように読める。

このような解釈が可能となるのは、(裁判所によれば)「捏造」という語が、「性奴隷であったかどうか」という評価をめぐる言説にふさわしくないものだからだ。たしかに、同一の事実に対して、評価がわかれることは少なくない。その際、「この事実をAと評価するのは不適当だ、間違いだ」という批判が生じることはあり、それは言論の世界でごく普通におこなわれるコミュニケーションの一つにすぎないだろう。

しかし、「文脈」と「語の意味」のこうしたズレは、同時に、逆の解釈をも可能にする。


 文脈を前提にして、「捏造」という語を他の語に置き換えて解釈する「好意的聴き手」とは反対に、「捏造」という語の本来の意味を前提にして、その本来の意味にあわせて桜内氏の発言全体を理解する聴き手が少なからずいるであろうことも、否定できないと思われる。つまり、「捏造だ」という言葉を聴いた者が、「吉見氏は、慰安婦制度が性奴隷制度であるという虚偽の主張をするために、研究者でありながら歴史的事実を捻じ曲げ、あるいは意図的に虚偽の事実をつくりあげて、それを世界に広めようとしている人物だ」と解する可能性がある。むしろ、「捏造」と聞けば、通常そのような理解になるに違いないと私には思える。少なくとも私は、桜内氏の発言をそのようなものとしてとらえ、だからこそ問題だと考えてきた。裁判所はなぜ、こうした解釈の可能性を排除しているのだろう。

桜内氏のケースに限らず、これまで「慰安婦問題」で「捏造」という語が使用される際には、まさにそうした意味合いで(あるいは、そうした効果を狙って)この語が使われているのではないか。そう考えると、この「捏造」という言葉を聴き手が「本来の語法どおりに理解するかは疑問がある」という判決文の記述には、強い違和感をおぼえざるを得ない。



二、

判決文は「従軍慰安婦が『性奴隷であった』かどうかは、事実そのものではなくそう評価すべきかどうかという問題であるから、事実について用いられる『捏造』という言葉はそぐわない」としている。今回の判決文を尊重するのであれば、今後、「性奴隷であったかどうか」について「捏造」という語は用いられるべきではないことになる。

裁判で被告は、「原告の著書の内容のうち、慰安婦は性奴隷であると断定している部分は捏造である」と述べているが、この発言も改められるべきだろう。

原告側が主張する通り、「捏造」の語を用いるからには、「『慰安婦』の実情が『性奴隷』でないことを熟知しながら、『性奴隷』であると騙して書いた」ものであるか否かが問われなければならない。

にもかかわらず、もし仮に、今後も「捏造」の語が用いられるのであれば、不適切な語をあえて用いる意図(悪意)がその背後にあると判断されざるを得なくなるだろう。あるいは、「捏造だ」という発言を聴衆が「誤りである」「不適当である」と解すはずだと述べた判決文は、桜内氏の意図に沿わないものだということになる(「吉見氏が騙して書いたのだ」と桜内氏が述べていた可能性を否定できなくなる)。いずれにせよ、今回の判決の論理が綻ぶ結果になるのではないか。



三、

今回の判決では、吉見氏の研究そのものの妥当性が争われたわけではないし、判断されてもいない。したがって、少なくともこの判決を、吉見氏の研究そのものを、あるいは慰安婦制度が「性奴隷制」であるという評価を、「捏造」であると主張する根拠にすることはできない。




















「慰安婦問題の日韓交渉」とその報道にイライラする。とりあえずのメモ。

・被害者の人権問題が、「外交」問題に置き換えられている。この問題の被害者は「慰安婦」とされた一人ひとりの女性たちであり、韓国政府も韓国人一般もこの問題の被害当事者ではない。韓国世論が納得するかどうかではなく、被害当事者に受け入れられ得る対処であるかどうかが問われるべき。

・しかも、当事者でない役人や政治家たちが「最終妥結」に合意できるかを話し合うという奇妙さ。1965年の日韓協定と同じ構図。だから政治的な決着が成立しても、問題は「解決」に至らないだろう。人権問題については、国家をこえて、個々の請求権が認められるべきはないかというのが、この二十数年間の議論だったように思うのだが。

・「解決」「決着」という語が安易に使われることへの強烈な違和感。当事者にとって、非道な現実は消えない。被害者の痛みに寄り添い続けるような何事かが求められている。被害者への直接的なケアはもちろんのこと、言論の場で、また教育の場で議論が繰り返され、問題を深く捉え直していく営みが続けられたり、あるいは資料の公開と共有というかたちで、被害者の痛みへの想像力が喚起されたり…。

・広島・長崎についても、ナチス犯罪についても、被害者の痛みに寄り添う何事かが続けられ、それが未来へと生かされようとしている。「ホロコースト問題の解決」という表現が使われたらおぞましく思うのは、私だけだろうか。「解決」「決着」という語が安易に飛び交う現状に疑問を感じる。

・その意味では、アジア女性基金解散後の、外務省によるフォローアップ事業は評価されるべき面がある。しかしメディアの注目は「解決」「決着」に向けられている。

・「最終的解決」という語を用いた記事もあり、驚いた。いうまでもなく、「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、ショアー(ホロコースト)を意味する。

・求められているのは、被害者の味わった苦しみや痛みを、まさしく被害であると、まっとうに、公的に認めること。「金を出すので、もう問題にするな」という態度を取られたり、法的根拠のみで「できるのはこれだけだ」と言われれば、被害者は、自分の被害がまっとうに認められていないと感じる。苛立つのも当然だろう。

・問題対処の発想と方法を大きく変えなければ、混乱は深まる。