高知の春は終わった

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選抜高校野球初戦、中村高敗れ、今日明徳義塾は早実に敗れた。

9回は見ているだけで胃が痛くなった。

あと一人アウトを取れば勝つシーンでピッチャー返しの球を取りこぼしたのは痛恨。投球数100ばかりでさすがに北本もコントロールが乱れはじめていた。馬淵監督は続投させる。早実の清宮、野村に四球を与え同点。

延長戦で敗北。

今大会一の世評高い清宮を上手に打ちとった投手北本は泣いていた。

あたしもあいつの鼻を明かしてやりたかった。泣くな北本。

蹉跌のない青春なんてない。

 

うちのボケの花は今を盛り、満開であります。

花ひとつなきわが家に卒然として紅い花を灯している。

写真をアップできればこんなつまらない仕合わせでもおすそ分けできるんだが。

 

「ブルックリン最終出口」という本をふと思い出し、蔵書全部に当たってみたが、ない。叩き売ってしまったんだなあ。貧乏はするもんじゃない。

飢え死にするとも本は売るな。

 

 

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風邪

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元気ですかー!

風邪でした。

19日朝8度5分の熱でした。

ずっと咳がとまりません。

ブログ書くにも三里ほど山を下り里に出ねばなりません。まあそれほど大層なことになっておるのでございます。

この風邪が性悪であたしのいちばん弱い心臓を狙っておる。

ちょっと動くとぜえぜえいっています。

それではみなさまごきげんよう。

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『日本の歴史』読了

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読了といっても全26巻のうちごみ置き場に捨てられていた20巻。

あとの6巻はたしか出されていたと思うが、ひとくくりになってなかったもんで、まさかより出すわけにはいきません。ごみとして出されていても盗っていったら泥棒らしい。

 

第1巻「神話から歴史へ」(井上光貞)は昭和40年(1965年)刊。月報には著者と丸山真男の対談が付されていた。

この叢書、空前の歴史ブームを呼び起こしたという。

なにを書いていたのかえへへおぼえておりませんが、今おれがいる時代がおれの(生きている)時代だというのはというのは、とんでもない己惚れだったと諭されている気がした。

 

歴史は己惚れをゆるしてくれない。

愛国主義さえゆるしてくれない。

ナショナルなものはローカリズムと見做されてしまう。

国とはかつて藩(圏)であった。その前はせいぜい村落。

坂本龍馬の「新国家」とは藩を超える日本であった。

この瑞穂の国「日本」もいずれ超えていかれる圏であるだろう。

 

泣いて偲ぶナショナルさえ保存されればいいではないか。

故旧忘れうべきや、歴史学はこの道である。

ナショナルの地に固定された庶民の幸福に殉ずるべきである。

いや現今の庶民ではなくとも未来の庶民に。

いや理念はどうでも、<事実>だけは遺してくれよ。

 

ついでにと言っちゃあなんだけど、あとの6巻「近代国家の出発」「大日本帝国の試練」「大正デモクラシー」「ファシズムへの道」「太平洋戦争」「よみがえる日本」も読みたくなった。

半世紀前のシリーズだからほとんどの著者は泉下だろうし、新資料の発見はあっても改訂版は望めないけど、なーにかまわない。20巻の著者たちはいずれも歴史にたいしてじゅうぜんな愛情(または愛惜)がある。もちろん歴史、歴史資料に表れない庶民にたいしてにもだ。

こちらが講談話と読んだとしても、じゅうぶんおもしろい。

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ねぶか

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帰宅したらまずつまみを作らねばなりません。

選択肢は二つ、冷凍餃子か、3分間待つのだよのインスタント焼きそば。なにしろ急を要する。

この焼きそばにだな、白ネギ(京ネギ?わしらは"ねぶか"と言っておった)を加えると、じつによろしいのである。

ねぎだけでもつまみになるな、と思わせるほどいい。

焼き鳥屋で「ねぎ」を注文する客は通である。

 

ねぎがこんなにうめーとは思わなかった。

玉ねぎもこれだけでカレーを作ってもいいかなと思うぐらい好きなんだけど、とにかくねぎはうまいもんだ。

湯通しした青ネギを酢ぬたで食うなんてのは最高でげす。

これにイカがあれば、明日はいらない今夜がほしい、みたいなものでげす。

 

■瑞穂の国小学校を残せ

正式には瑞穂の國記念小學院というらしいです。

籠池さんの教育コンテンツはもういいよとしても、この建物はわりと好きです。しっかりデザインされていると思う。

認可されなければさら地にして府か国が買い戻すらしいですが、解体するのはもったいない。

誰か買って寺子屋か塾にせんかい。

A感覚

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わたしは耳かきが好きである。

好きだからしょっちゅうする、んではない。

好きだからこそ、1年に数度楽しむんである。

耳くそが大きければ大きいほど悦びは大きい。

耳の聞こえが悪くなるほど溜めておくのが一番いい。

なーに、体に悪いことはありません。

耳の奥でがさごそ音をたてるまで臥薪嘗胆すべきであります。

 

目くそ鼻くそ耳くそ等々、クソを排出するのは快感である。

屁も大量であるのがのぞましい。

げっぷも何度も出るほうがうれしい。

   ・・・おれは呑気症だからな。

 

フロイトの<肛門愛>は、しつけの問題ではなく、排出のエロスだと考えられる。

バクテリアから人間まで、代謝する生命体は、獲物を取ると同じにカスを排出することも同様に快感とせねばならないはずだ。腔腸動物であった時代を思い起こせ。

<肛門愛>とは、口腔の食欲と同列に扱うべきであるとおもう。

「異教徒」とかヘイト・スピーチとか民族主義とかの排外主義は、乳児期の「サディズム的肛門愛期」(フロイト)の快感に根拠をもっている、とすれば、うーん、この官能、これはやっかいだ。

早く大人になってほしい。

 

近ごろ軟便でのう、肛門をむりむりと通過する便に久しいのである。ああいとしのA感覚よ。

鶯谷

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先日記事にしたうぐいす初鳴きの現場に行った。

ほー、うぐいすたちずいぶん上手になっておる。

この辺の住民たちはこれをじゅうぶん味わっているんだろう。

鳥たちは落ちたユズをついばんでいる。

小鳥のさえずりもその種を聞き分けているだろう。

住民は、タラの芽だ、ふきのとうだと喜んでいる。

これを愉快と思わずになにを愉快としているんだ?都会人は。

 

地軸が何度か傾いているおかげで四季なんぞというやっかいな翩翩万化(へんぺんばんか)を食らっている。これを楽しまない法はない。次は花見だ。

書くということ

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当今「おはよう」「こんばんわ」の挨拶さえ満足に出来ないやつがいる。ひきこもりのあたしでもとりあえずやってのけている。

挨拶はほんとに面倒だ。

顔を伏せて通り過ぎるのがいちばんいい。

だけど世間はそれを見逃してくれない。

 

浮き世は目を伏せて通り過ぎる駄目人間を許さない。

昂然と胸を張って「通るぜ」と言うやつしか、通さない。

 

伏し目がちの、ろくに朝の挨拶も出来ない奴が多少の言葉を知ったぐらいで、SNSとやらでいっぱしの有言者となりおおせたのは、まことに御慶と申せましょう。

 

わたしは、しゃべることと書くことの間には絶壁にちかい断崖があると考えている。みなさまはシームレスな進化とお思いかもしれませんが、どうして、容易に越えざる障壁があると思います。

 

それが溶解している。

明治の御一新以来、口語が文語を侵略・駆逐していったように、くっちゃべることが書き言葉を侵略していった。

 

書き言葉はいずれ衰亡してしまうのか?

小林秀雄は、自分が何を考えているのか書いてみないと分からないと言っていた。書くことではじめて露見することがあるんだろう。

昨今、隔壁なんぞない、目出た目出たのシームレス、とはやしたてるのは、取らぬ狸の皮算用である。

 

朝の挨拶と書くことの間には千里の逕庭がある。

多くの知識人は、話し言葉の世界に絶望し、書くことにむかった。

自分の言葉が通用する世界が、ひょっとしてあるかもしれん。

ここから書き言葉ははじまった。どこかで聞いてくれる方がおるじゃろう、ってな。

 

おしゃべりを断念して書くことにむかった知識人はおおぜいいるだろうけど、書くことにむかわなかったひとはもっといる。その方々の<言葉>はどう処分されたんだろう。

 

かくして、言葉の民主主義革命経てなお、言葉は孤独になっていくのであった。

コミュニケーション・ツールである言葉が孤独になるとは、これいかに。

身辺雑事向後万端

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リコーのデジカメR10の電池があかんなった。

7年ほど使ったから、もういいか。

そうはいかん。

新機買う余裕はないもんで、電池だけ買うことにした。

メーカー純正品は特価でも3千円以上するんで、互換品580円をネットで購入。

ロワ・ジャパン製は、2ちゃんで数々の不具合を報告されていた。発熱したり充電しきらんかったり。まあいいじゃないか。

カメラはブログにしか使ってないし、そもそもブログに写真をアップ出来んなったし。やろうと思えば出来んことはないんだろうけど、手数が増えるのはたまらん。

 

■背中は感度が鈍いそうだ

シャワーを浴びると、腹側は暖かく感じても、背中は寒く感じる。

なんでも、背中を指でなぞれば、1本か2本を判定できないそうである。

だとしても、温度もかよ?

背に腹は代えられぬ、ちゅうぐらいだから、背は腹ほど大事でない。感度の配置も二の次、と。

 

■最後のミニトマト家人に食われる

世の中は弱肉強食であるから、食ったもの勝ちである。

あたしみたいにおっとりかまえていたら、たちまちかつえてしまう。

いいじゃろう。わたしは愛と正義に殉ずるのである。

この身を捧げても悔いはないのである。

この幾株かのトマト、いまだに青い実をつけている。

茎はへとへとなのに。

これが今年復活すればうれしい。

 

■2・19龍馬マラソン

総動員令が出されているんで否も応もありません。赤紙だ。

最悪だった。

ランナー見られる場所でないことは許せるが、レクチャー受けていないのは実行委員会の不手際と言わざるをえない。現場でクレームを処理できないのは、「おもてなし」の汚点ではあるまいか。

わたしはフロント(前線)として最善を尽くしたのだが、客人には、最善とは思えなかっただろう遇しかただったじゃろう。

とにかく無茶苦茶せわしなかった。1.6万歩は歩いた勘定。

詳細は略。

朝5時から夕方5時まで。年寄りの仕事じゃねーよ。

 

■その次は

22.5万平米の宅地を造成する現場に回された。

5千年前は入江だったろう谷を一大タウンにしようてえ計画らしい。トイレや休憩の際、ビルの4階ほどを往復せんならん。先日のマラソン(警備)でハッスルしたおかげの筋肉痛に加えて、おれの脆弱な心臓が悲鳴をあげておった。

われに艱難辛苦を与え給え、と山中鹿之助は言った。

おれは言ってない。

沈黙

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そーゆーわけでございまして、映画館へ行ってまいりました。
シネコン3度目のベテランですが、独りで発券機使うのは初めて。
年寄りにこんなの使えるか!? 係員呼びました。
『沈黙』だな、よく呼ばれるんだよ顔してこいつ教えてくれました。
 
ご賢察のとおり、マーチン・スコセッシの『沈黙』でありました。
客の9割はロートル。
みなさま"ひとかどの人物"づらして席に着いておりました。
あたいもその一人でして、、、。
 
ポルトガルの宣教師が、神の恩寵を知らぬ辺境極東の哀れな国にありがたい福音を伝えようとわざわざ海路はるかやって来た。ごく一部の民には「ありがたや」だったのに、さすが野蛮人の国、為政者やその他庶民は受け入れようともしない。
先進の中国には朝貢しておったのに、伝来の仏教は受け入れたのに、西洋となると話は違う。いきなり「邪宗!」のボルテージが上がる。
 
善意あふれる福音の使徒、殉教の覚悟でやって来たロドリゴ宣教師は、拷問の果てに死んでいく信徒らを見て、踏み絵を踏む。自分が生きるためではない。彼らの命を守るためだ。
イエスは、「私を踏め」と言ったのだ。私の十字架は、あなた方の罪をも背負ったものである。
 
宗教は普遍性を唱導する。
ローカルな土俗宗教を組み込んだり圧服したりして「世界性」を獲得していった。
世界宗教を自称しているどんな宗教も、一種の(精神の)帝国主義だと言えなくもない。善意のお節介をやりたがる。
異教徒や無信心者を教え導くのは崇高な仕事だからねえ。
 
あたしは、藻屑を蹴散らす怒涛のような善意というのは好まない。
そんなのは、たぶん、うそだ。
神もまた、狭量と戦わねばならぬ。
 
スコセッシは、問題の解決をはるか未来に課したのではない。
いま、きみたちの手で解決せねばならん、と言っているのだ。
 
なんてことを書きながら、そんなことは教科書で知っているよ、と言う方は多いだろなとおもう。ベタな映画だった。一種の教養映画と言えるでしょう。
 
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。 (マタイによる福音書)
 
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と十字架につけられたイエスは言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (同)
 
 

イタリア映画

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イタリア映画にはいいのがあったよなあ。
「自転車泥棒」のデ・シーカとか「サテリコン」フェリーニ、「赤い砂漠」ミケランジェロ・アントニオーニ、「山猫」「家族の肖像」のルキノ・ヴィスコンティとか、「世界残酷物語」のヤコペッティも忘れてはいかんな。マカロニ・ウェスタンも観たよねえ。失礼ながらその他は忘れてます。すみません。
 
先日「ニュー・シネマ・パラダイス」てのを2度目だけど見た。
イタリア映画、まだ生きている。
あたしの記憶力はすっかり死んでますけど、てへへ。
 
今でも映画は娯楽の帝王なんだけど、映画館が生きていた時代はかつてあったんだよなあ。
竹中公民館とか熊野神社の野外でとかでも映画をやっていた。
フィルムが途中でしばしば切れるんで、「あーあ」とか言っておった。
あくる朝にフィルムの切れっ端がいっぱい捨てられていた。
後免の町にも映画館は3館もあった。
ニュース映像が終わって本編が始まるとみんな拍手で迎えた。
 
「ゴジラ」「地球防衛軍」赤木圭一郎の「紅の翼」その他「四谷怪談」「真景累ケ淵」などもそんなところで見た。
見世物小屋として映画は生きていただよ。
当部落のK製材所の敷地で芝居興行もあった。
あたしも見に行った。
おぼえていたらいいブログネタになったんだがな。
「塩原多助・青の別れ」とか。
 
サーカスも映画も博覧会も芝居もみんな小屋掛けで、どこかからやって来てどこかへ消えて行った。そんな流浪の興行だった。
だからこの一会が大事だった。
レコードとか再放送とかレンタルビデオなんかが旅芸人を駆逐した。
そのうち映画館そのものも駆逐されるかもしれん。
いまのうちにシネマパラダイスを堪能しといてください。
映画館でね。
 
懐かしさというものは、なんかの力にならないものか。