今ではパソコンは一大産業ですが当事は海千山千の話です。

パソコン産業の黎明期ビル・ゲーツはビデオカセットレコーダー方式をめぐるシェア争いからある教訓を学んだと言う。
個人的にはベーター方式はエンジニア好みのスペックであるが、(宇佐見私見)

VHS方式を開発した日本ビクターは、他のビデオデッキメーカーに対して、極めて低いロイヤリティーでVHS規格の使用を認めた。VHS互換機プレーヤーが急増するにつれて、ビデオレンタル店ではベーター方式のテープよりVHS方式のテープを沢山置くようになった。その結果VHSデッキのユーザーの方がベーターのユーザーより見たいビデオをレンタル店で見つけられる結果が高くなり、ベーター方式とVHS方式の死闘に幕おりた。


これは、新しいテクノロジィーが普及する際に、その量的な変化が、テクノロジィーのはたす役割を質的に変化させた例だ。



1980年の夏、IBMの密使がマイクロソフト社を訪れた。そして一つの決断を明かした。

IBMは一年以内に自社開発のパソコンを市場に出したいと望んだ。このスケジュールに間に合わせるためには、関連するハードとソフトを自社で開発するというIBM伝統のカルチャーを捨てるしかない。そこで、IBMは既成の部品を中心にパソコンを開発する道を選択した。

自社製品に採用するマイクロプロセッサーは自社開発であったものをインテルから調達することになり、
ソフトを自社で開発するのではなく、オペレーティングシステムをマイクロソフトからライセンスする決断だった。

結果的にIBMはこれまでに培ってきた名声を下地に、他社での開発を許すというオープンアーキテクチャーを採用した英断は、パソコン(パーソナルコンピューテング)の世界に新たな標準を確立した。



発売当初IBM-PCの顧客は三つのOS(オペレーティングシステム)の中からどれか一つを選ぶことになっていた。

マイクロソフトはIBMに有利な取引を持ち掛けた・・・
UCSDパスカルPは450ドル、CP/M-86は175ドルに対してMS-DOSは60ドル、と低価格で提供する。

更にIBM-PCと互換性のあるメーカーに対してMS-DOSをライセンスすること、IBMがその権利を独占せず、将来の機能強化に対する支配権もないことを条件に。

こうして、ビル・ゲーツはパソコン業界にソフトウェアプラットホームをライセンスするビジネスモデルを確立した。


量的な変化が、テクノロジィーの果たす役割を質的に変化することを予言しているかのように!



メインフレームの大型コンピューターのビジネスカルチャーにどっぷり浸かっている当時の私には発想さえできないビジネスモデルでしょう。
何故ならば、当時のコンピューターのOS(オペレーティングシステム)はハードウェアーのメーカーが供給するとの認識でしたから。







話を元に戻しますと、


この提案書はやはり盛田会長が直接読むべき物だったと今は思うのです。

私はその当事のビル・ゲーツに会うべきだったんです。
本人に会えば少しは考え方を理解できたかも知れません!
盛田会長ならばどうしただろうか?と深く悩みます。

あの当事「よし!分ったマイクロソフトの株主になる」と言っていたら今のソニーは違っていたでしょうネ!
私のソニー時代の最大の失敗でした。今だから明かせる話ですが!

投資とはそのビジネスプランやアイデアによって決定されると思いますか?
皆さん・・・・・
・・・・・投資をするか、しないか、何によって決めますか?

 

米国の一青年からの提案書とは云え、真剣さが伝わってくる内容でした。

 

マイクロソフト社ってどんな会社?ビル・ゲーツって誰?たまたま当事ソニーの会長であった盛田さんはIBM米国本社の社外取締役であったこともあり、当時コンピューターの巨人IBMの日本法人に問い合わせするも詳しい事は解からず米国本社に問い合わせをして頂いてやっとマイクロソフト社のことを知った次第です。

 

ビル・ゲーツからの提案書は厚さが5センチもありハーバード・ビジネス流のビジネスプランと残りの2.5センチは全くビジネスに関係のない事柄が書かれていた。・・・・

 

まさにビジネスマンとしての私にとっては理解不能な「暗号」でした。

 

金融機関へ融資の相談をする、ベンチャー・キャピタルに投資の話を持っていくとか、
自分の会社を上場させようと真剣に検討なされた方は多いと思います。

あの金融機関へ提出する報告書って疲れますネ!

 

事業コンセプト、新規性、実現性、競合性、市場とその成長性とか事業スケジュール、
販売、購買計画、設備投資計画、人員計画、研究開発計画そして中期利益、資金計画、長期計画・・・・・
うんぬんとありますよネ。

 

 

米国の一青年からの提案書とはソニーをベンチャー・キャビタルと捕らえて書かれたものでした。

おそらく他の金融機関にも同様の提案書は出されたと考えられます。

 

 

ごく一般に言えばマーケットが未だ存在していないパソコン・・・・今ではパソコンは一大産業ですが当事は海千山千の話です。

西山千さんの話

西山千さんといえば、1969年のアポロ11号による月面着陸のテレビ中継で同時通訳した人で一名を馳せた方です。
テレビの前で歴史的瞬間を待ちながら、「こちらヒューストン」などと緊迫したやり取りを伝えていたのが忘れられません。


英語、音楽、体操が不得意な私にとってはびっくり仰天。

発言者が一区切り話したところで通訳者が翻訳するのなら解るが、

同時通訳が何故出来るのが不思議でたまらなかった。
白黒画面のテレビに張り付きながら見ていたのを思い出す。

初めて米国からの通信衛星経由のTV画像はJ.F.ケネディ大統領の暗殺報道であった。
現場の大混乱に輪をかけて通訳の対応も混乱しており状況を飲み込むのに時間がかかった。
サイマルテニアスリーと云う言葉もこの頃覚えた。

同時通訳は先読みするのだろうか?
一区切り話す前に言葉を発するとなると会話の全体の流れや業界の知識が無ければ対応出来ないし、

何よりも両文化を理解出来ずには難しい。

西山千さんに関するエピソードを紹介されたブログを・・ 

この中での、NHK職員の対応の下りが印象に残りました。 
・・・・ すると、色々な人から、NHKに 


「あの、英語を即座に日本語にする機械は何という製品だ?ウチの会社でも使いたいんだ」 
という、今のひとには信じられないだろうが、そういう問い合わせが殺到した。 


番組担当者は当然ながら、 
「機械ではありません。通訳者が英語を聞きながら同時に日本語に訳しているのです」 
と答えた。ところが視聴者は、なかなか信じてくれなかったという。 
「ウソを言うな。英語を聞きながら訳すなんて、出来るわけがない」 
「ウソではありません。本当に人間が訳しているんです。」 
「それなら、訳している人間を見せてみろ」 


NHK担当者は、ムキになった。 
「わかりました。今夜の放送からお見せします」 
といういきさつがあり、それ以降、西山千さん達は、スタジオ内のブース(雑音を遮断するためのガラスの囲い)で 
通訳させられるハメに陥った。 
百聞は一見にしかず。日本中がびっくりした。ひっくり返るほど驚いた。 


「日本人がなりたい職業」というアンケートだか、世論調査があり、

それまでは、必ず「医者」か「弁護士」がトップだった。 
アポロの年、なりたい職業ランキングの1位は何と「同時通訳者」になった(実際は簡単になれるものではないことは、 
云うまでもない)。 
http://jiro-dokudan.cocolog-nifty.com/jiro/2007/07/post_b65c.html ;

因みに今の小学生に聞くと「ユーチューバー」だそうです。


米国で名が通っていたソニーと言うブランドにはかなり多くの提案がトップに舞い込みます。
これを一手に引き受けた方が西山千さんです。
数年前にお亡くなりになりましたのが残念です。
ソニーの顧問の他、日本翻訳家協会会長も務められ、日本ペンクラブ名誉会員もされておりました。

この西山さんから 「米国の一青年からの提案書だがまったくチンプンカンプンな話だ、どうもコンピュータ関連の話だ」 ということでちょっと検討しろ。・・・・と

まあ、丁度、米国から帰って着たばかりでブラブラしておりましたので、勉強になると思いお引き受けいたしました。
 

海外からの「与太話」を一手に引き受けていたのが西山千さんという理事でした。

西山千さんの話の前に、
実はこの話を始めるに当たって、「 ためらった 」 ことがありました。


マイクロソフト社の初期のビジネスプランに触れることですから、

そしてマイクロソフト社との特許の軋轢でした。

後者は小さな会社を経営していた頃の事件です。

Eメールは一般のツールですがスマホでもPCでも
Enterキィーを押した瞬間に相手に届きます。

このメールの配信を意図的に遅延させ未来へのメール又は過去からのメールの配信サービスを提供するビジネスモデル特許です。
「自分の未来に宛てた手紙」のEメール版ですネ!

特許申請を日本と米国に出したのですがマイクロソフト社からOutLookに抵触するとの異議申立が届きました。


確かにOutLookで誕生日メールの様にスケジュールを登録してメールを発信することで「未来に宛てた手紙」を出せます。
しかし、これはクライアント側のPCで運用するサービスですが、
私の特許はサーバー側のサービルであり抵触しないと判断したのです。

然しながら電話帳のような英文の異議申立書の分析とその反論書を出すことは膨大な時間と経営を圧迫するコストが掛かると無念の涙を飲みました。

マイクロソフト社の特許戦略とその周りに蠢(うごめく)弁護士、弁理士の経営戦略に翻弄されました。

然しながら、
「ビル・ゲイツからの手紙」は純粋に彼のビジネスに対する情熱が溢れ出る物です。
これからボチボチとお話を進めていくことと致します。

 

 

 

「ビル・ゲイツからの手紙」 (その1) 

 

はじめに!

 

大分前のお話ですから、記憶の糸を辿りながらつづっていく事に致します。

私にもサラリーマン時代がありました。

ソニーのサラリーマン時代はロンドン、オランダ駐在員、その後ベルギィーのアントワープに在るNATO(北大西洋軍事機構)のPXビジネス(米軍の軍人向けビジネス、ほヾ一国のビジネスに相当する)ソニー全権代表、ベルリンに未だ壁があったころです。パリでソニーフランスを設立して一時帰国。

その後1981年のIBMがPCを発表したころアメリカのサンンディエゴで過ごしました。


これからお話致します「ビル・ゲーツからの手紙」ですが、「手紙」と言うのは分りやすく表現したもので、実際には事業提案書のようなものです。

どうも手紙にこだわっている傾向がありますネ・・・・
別の機会に「自分の未来に宛てた手紙」のお話をさせていただきます。

丁度日本に帰国したころの話です。



ソニーと言うブランドは比較的米国では名が通っておりましたから、かなり多くの提案がソニーのトップに舞い込みます。今ですとベンチャー・ビジネスのエンジェルと云った表現をしますが当事はそういった言葉は聴いておりませんでした。

多くのそのような海外からの「与太話」を一手に引き受けていたのが西山千さんという理事でした。