『コ-カサスの草原にて』
桜が丘病院 理事長 堀田 宜之
毎夏、10日前後の休暇を取り若い頃から憧れていた地を訪れている。昨年はイタリアのドロミテ周辺の花を見ながらのハイキング。
Dolomiti
今年はコ-カサス(ジョ-ジアとアルメニア)山麓の花を愛でた。来年はスペイン側からフランス側へ、ピレネ-山脈を超えるハイキングを予定している。北緯42度以北一帯は半年以上も雪に覆われ、雪の解ける6月末にはあらゆる花々が一斉に咲き誇る。昨今は、日本の山の花々を見終わった老齢のご婦人の間で、この時期の花を愛でるツア-に人気がある。著者も若い頃は、ドロミテの岩峰を攀じたいと願い、コ-カサスの高峰へ日本人としての第一登を果たしたいとあくせくした時期があったが、いまは花を愛でて眺めるだけの歳になってしまった。
『コ-カサス』や『カフカス』あるいは『グルジア』という呼称は高齢の日本人には馴染み深いが、最近はほとんど使用されずグルジアも『ジョ-ジア』に変わった。
慌ただしい旅の雑文であるが、話の内容は以下の4つに絞られる。
1.蒸留酒のこと;チャチャとアルメニアン・コニャック。両国ともワインの名産地であるが、醸造酒には関心が無いので今回は省く。
2.世界遺産のこと;教会や古いキャラバンサライ。
3.野の花のこと;名前を知らないので描き辛い。
4.草原と牧畜;移牧のこと。
カタ-ルのド-ハからアゼルバイジャンの首都・バク-経由で、6月29日の昼過ぎにジョ-ジアの首都・トビリシに着いた。日差しはきついが空気は乾いている。山手にあるホテル周辺の坂道を下って、酒屋を捜して歩いたが見つからなかった。昔からコ-カサスの人々は度の強い蒸留酒(チャチャ・Chachaと呼ばれる40~70度のブドウの搾り滓から作る蒸留酒。
ウィキペディア(20170809 16:19)
ワインウォッカ、グレ-プ・ウォッカ、あるいはグルジア・ウォッカとも呼ばれ、世界で最も古い蒸留酒のひとつと考えられている。)を飲むので、長寿国として有名である。年老いた私は、人類が創ったものでは蒸留酒以外はほとんど関心が無い。今回の訪問地には、チャチャやアルメニアン・コニャックなどの銘酒があり、花見より酒が主目的の感があった。酒屋を見つけることはできなかったが、通りの街路樹に大きな桑の木が多数混じっており、その中に「白い桑の実」があることを発見した。青紫の桑の実は日本人に馴染み深いが、白い桑の実は初めてでびっくりした。ホテルの敷地内にある「白い桑の実の樹」の枝を手繰り寄せて熟した実を口にすると、すこぶる甘い。フロントのボ-イに見せると、ジョ-ジア語で“TUTA”(ツ-タ)だと教えてくれた。
このツア-は昨年と違い、各地に存在する世界遺産(主にジョ-ジア正教やアルメニア正教の古い教会)を訪れる機会が多くあった。翌日、大コ-カサス山脈の山麓へ向かう途中、古都ムツヘタに立ち寄り、スヴェティツボヴェリ教会を見学した。参道の入口から300m程は門前町を形成し、両側に並ぶ土産物屋にワインを売る店があり、そこでやっと念願のチャチャを1本手に入れた。アルコ-ル度数は51度。その夜泊まったカズベキ村(標高1700m)のホテルで、酒好きが集まって試飲してみた。一言では表現し難いが、ブランディとウイスキ-を合わせたような、きりっとした味であった。もっと癖のある酒と思っていたが、いろいろ飲んでみる必要があるだろう。ストレ-トで飲むのがこちらの風習であろうが、毎晩、水割りで寝酒にした。
翌日から花を愛でるハイキングが始まった。カズベキのホテルは、大コ-カサス山脈のなかで第3の高峰・カズベキ山(5,040m)を目前に控える高台にあり、その広いベランダから雪を頂いた秀麗な山容が良く望まれる(写真)。ホテルから4輪駆動車3台に分乗して、ハイキングの出発点であるジュタ村(標高2,250m)へ向かう。カズベキ峰とは反対側にあるチヤウヘビ山麓のお花畑を5~6時間散策した。ジュタ村から続く砂利道はかなりの急坂で、これを喘ぎ上ると視界が開けなだらかな尾根の末端に瀟洒な山小屋がある。晴天下で暑いが、花々は咲き乱れている。このコ-スは人気があるようで、山姿のハイカ-達が三々五々行き来する。この尾根の行き着くところはチヤウヘビ山稜から延びている雪渓の末端で、ハイキングの最終地点もそこで終わり同じ路を引き返す。故に適宜お茶を濁して引き返してもよい。私は、山小屋でチャチャを飲む魂胆があったので、最後まで付き合うことなく引き返した。
小屋でチャチャを注文すると、大きな40糎四方のガラス製の器に茶色っぽい液体(一応透明)が入っており、その一面に付いている蛇口を捻って金属製の小さいカップに注いでくれた。ストレ-トはきついので氷を依頼すると、カウンタ-の若い娘は怪訝な顔で「氷がいるのか?」と尋ねてきた。そうだと答えると、冷蔵庫から取り出した小さな氷片を数個皿に載せてくれた。彼女の対応振りから、チャチャの飲み方がおおよそ理解できた。ここで飲んだチャチャの味はかなりアクが強かったが、値段はビ-ルの半分以下であった。
再びトビリシに戻り、4―5人の酒好きがホテルのバ-で最後の夜を楽しんだ。このときは、かのチャ-チル首相が愛好したというアルメニアン・コニャック(銘柄はアララット)を注文した。注) 無論、ストレ-トで頂いたが、深く濃厚な味であった。バ-テンダ-に尋ねると、アララットの15年物で一本100USドルだという。このバ-でもチャチャのロックを2杯飲んだが、チャチャはストレ-トに尽きるようである。私は普段ブランディを口にすることはないが、アルメニアン・コニャックは甘くないので、いけそうである。そういう訳で、今回もチャチャ2本とアルメニアン・コニャック4本を携えて帰国した。
ドロミテの銘酒グラッパ、コ-カサスはチャチャやアルメニアン・コニャック、これらの蒸留酒は、所謂、スピリットと呼ばれるアルコ-ル濃度が高いもので、食卓で飲まれることはないし話題にもされない。従ってその名前や存在すら知らない人達が増えているようである。昔、ポ-ランドのどこかの街で、昼食時にウォッカを注文したら、「紳士は昼間から酒を飲まない。」と案内の同伴者にたしなめられたことがある。そう、欧米ではワインやビ-ルは酒のうちに入らない。殊に昨今は、世界的に健康志向が助長されており、酒(蒸留酒)の愛好者が減っているようである。葉巻をふかしてシングルモルトをぐいと呷るような男が少なくなった、と酒飲みは一抹の寂しさを感じる。
注)1945年4月、クリミヤで開かれたヤルタ会談で、スタ-リンはチャ-チルにアルメニアン・コニャックを勧めた。チャ-チルは痛く気に入り、彼の依頼でスタ-リンは毎年400本ほど送り続けたという逸話がある。因みに、スタ-リンはジョ-ジアのゴリ市出身で、現在でもジョ-ジア人は世界的な偉人・英雄としてスタ-リンを誇りにしている。ジョ-ジア人は人種的にはカルトヴェリ人というスラブ系民族であるが、一方で、2008年にはロシアとの間に南オセチア紛争などが持ち上がり、一応終結はしたが、南オセチアやアブハジア問題はなお未解決で、国内の反露感情は根強いという。
この旅ではジョ-ジアで4か所、アルメニアで3ヶ所の古い教会を訪問した。そのうち印象深く記憶に残っているものについて述べておく。まず、ムツヘタ市にあるスヴェティツホヴェリ教会(大聖堂)。ムツヘタは紀元前4世紀にイベリア王国の首都となったが、西暦334年にキリスト教が国教となり、ここに最初の木造聖堂が建設された。6世紀に首都はトビリシに移ったが、総主教座はムツヘタに残り、現在までジョ-ジア正教の中心地である。
クワ川とアラグヴィ川の合流地点の河畔に位置するこの街は、真ん中に大聖堂がひときわ大きく高くそそり立ち、古都の面影が麗しい(写真)。
ジョ-ジア正教もアルメニア正教も教会内にカソリック教会のような信者が座るベンチがなく、信者は聖職者の話を立ったまま聴く。照明は天井からの光だけで、石造りの内部は暗い。フレスコ画の残る壁面もあるが、カソリックのようにけばけばしい装飾はなく、概して質素である。この大聖堂の入口の扉には、牛の顔の像が二つ掲げられている。昔、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡でも牡牛が崇められていたのを思い出したが、ここの牡牛は遊牧民族の歴史的な遺産であろうか。
ハイキングの二日目は、秀峰カズベキ山麓の丘に建つ三位一体教会までひどいでこぼこ道を4輪駆動車に揺られて上り、そこから花を愛でながら沢沿いに草原をゆっくりと下った。この教会は簡素でこれといった特徴はないが、カズベキ村から徒歩で登る人々のすべてがハイカ-ではなさそうである。このジョ-ジア正教の教会は14世紀に建設され、正確にはツミンダサメバ教会(聖三位一体教会)と云い、2170mのクヴェミタム山の頂に立つ(写真)。ここからの眺望は素晴らしく、背後に雪を抱くカズベキ山を控え、眼下にホテルのあるカズベキ村と山麓にあるゲルティ村がくっきり望まれる。絶景である。
アルメニアは、西暦301年に世界で最初にキリスト教を国教にした国である。ここでは、アララット山が望めるホルヴィラップ修道院(6世紀建立)や岩山を刳り貫いて造られたゲガルド修道院が印象的であった。私は宗教には疎いので、教会はこれくらいにしておく。
この旅で最も感動的であったのは、アルメニアのセリム峠(2410m)付近に残る12世紀頃の隊商都市跡に建つ、所謂、キャラバンサライを見たことであった(写真)。
私がイメ-ジしていた広い中庭を方形の建物が囲むものとは異なり、往時のシルクロ-ドの旅の厳しさを彷彿とさせるものであった。石造りのこの堅牢な建物は、内部の一段低くなった両側に家畜(馬やラクダ)を繋ぐ細長い空間が設けられ、荷物用の部屋と管理人用の部屋が一つずつ設えられている。旅人の使用する空間は中央部にあり、照明用の明り取りが屋根に設けられている。全体的にみると質素で暗く、防御用に造られた夜の避難所である。盗賊から身を守って、一晩安眠できればそれでよしとする建造物である。このようなキャラバンサライが20~30kmごとに設けられていたが、現在ではこの建物だけが残っているという。コ-カサス地方は火山国で地震が多いので、教会の建物にもこのキャラバンサライの入口に見るような耐震用の石積みの工夫が施されていた(写真 切り込み接ぎ? 古川氏に直接尋ねる)。
これは熊本県多良木町の石倉ですが、このような石造りの倉庫が日本でも人吉盆地や栃木県の宇都宮(大谷石)一帯などに大量に認められるのです(編集者:古川注)。
欧州は6月初期から花の季節である。昔、トランシルバニアに出かけた時にそれを初めて実感した。梅や桜や桃が順々に咲く日本の春とは違い、半年以上雪に埋もれている地方は、それこそあらゆる花々が一斉に咲き乱れ圧巻である。昨年はイタリアのドロミテで花を愛でるハイキングに参加した。ドロミテ周辺はグラッパの生産地、保養地・観光地としても先進地で、野の花々もたっぷりと堪能できた。しかし、参加のご婦人たちはいずれも脚が達者で、いつも末尾から遅れぬように歩かねばならず、老人には慌ただしかった。今年は5日間のハイキング中、花を愛でながら開けた草原をのんびり逍遥できた。私が知っている花は、菜の花の類、マ-ガレット、バイケイソウ、リンドウ、ポピ-、アザミなど限られているが、今回は花の種類も多くお花畑も随分と広大であった(写真)。
日本であれば、核心部を区切って周囲に遊歩道を造り、そこから観察するのが普通である。日本人は花々を踏み倒してしまうことに罪悪感を抱くが、ここでは囲いも遊歩道もなく踏み荒らしっ放しである。家畜の食べない草花が草原に残っているという感じであるが、このままでは日本人のグル-プが野の花々を踏み荒らしてしまうと、不評を買うかもしれない。
コ-カサス地方はジョ-ジアもアルメニアも農業と牧畜が盛んである。そのことは日々食する野菜や果物が新鮮で旨かったことからも、容易に察しが付く。殊にトマトやキュウリの旨さは格別であった。恐らくハウス栽培などやっていないであろう。また、とろみのある「グミのジュ-ス」というものを初めて味わった。サクランボやアプリコットなど食卓を飾る果物の多くも、街路樹や庭園樹から捥いでこられたもののようである。私は乳製品に格別な関心はないが、ヨ-グルトやチ-ズの類も豊富であった。
旅の初日、トビリシからカズベキに向かう途中、急峻な草付き斜面に牛が放たれているのを遠望した。これほどの急斜面で放牧をみるのは、初めてである。「ジョ-ジア軍道」と呼ばれる北オセチアへ通じる主要道路に、十字架峠(2,395m)がある。ここから見下ろす膨大な尾根の斜面に、無数の羊の群れが放たれていた(写真)。
夏の放牧時にはどうやって羊や牛を放牧地まで連れてゆくのかガイドのF嬢に尋ねると、大型トラックで夏の放牧地まで家畜を運んでいるとのこと。アルメニアで一度だけ遭遇したが、夕刻、羊や牛の大群が道路一杯にひしめきあって家路に向かう光景は、すさまじかった。どこでも家畜の群れは自動車の邪魔になるが、運転手は慣れたものである。馬に乗った牧童たちも家畜が交通事故に遭わぬように、素早く導いている。
この旅で最も衝撃を受けたのは、「草原」に対してこれまで抱いていた概念がすっかり変わってしまったことである。コ-カサスの山々は稜頂部こそ雪を頂いているが、雪の消えてしまった尾根筋は岩壁部を除くとすべて緑の草付き斜面である(写真)。
このことは、ハイキング初日と翌日の二日間でよく観察できた。つまり、森林限界まで樹木が伐採されており、一度伐採された斜面は半年間雪に閉ざされるので樹木が生えてくることはない。伐採されなかった樹木群(原生林)が随所に残っていることから、それと判る(写真)。
従って、樹木を伐採した処は、緩傾斜でも急傾斜でもすべて緑の斜面、即ち、草原となってしまう。私がこれまで抱いてきた草原は、平らであり急斜面は含まれていなかった。阿蘇久住の草原がそうであるように、日本人は急な草付き斜面を草原とは決して呼ばない。勿論、阿蘇の米塚のように急斜面の草付きも存在するが、そういう急斜面で放牧されている牛を見ることはないし、概して草原とは平たいものというのが日本人の感性である。ところがコ-カサスの急斜面で放たれている牛や羊の群れを眺めていると、この感性が変わってくる。これは何処から生じてくるものであろうかと、しきりに頭をひねってみたがよく判らない。阿蘇久住で長年行われてきた「放牧」とコ-カサス地方で行われている「移牧」という牧畜形態は、どこが違うのであろうか。前者は「粗放牧畜」といわれ、春先から秋までの半年間、牛や馬はそれこそ野に放たれたままである。たまに塩を補給されたり水瓶に保水されることはあっても、この期間、家畜たちは自力生存を強いられる。移牧では、牧童が毎朝その日の草場に家畜を放ち、夕刻にはすべての家畜を連れて戻る。一頭たりとも無駄にはしないやり方であるし、その日に放たれる場所には充分な草が生えていることが前提条件である。アルメニアに移ってからのガイド・A氏は、ロシア系アルメニア人であった。阿蘇久住の草原は冬雪に覆われることがないので、草原の維持には「野焼き」が必要である。放置すると樹木が生えてきて森になってしまう。ところが半年間も雪に覆われるコ-カサス地方では、草原の維持に「野焼き」は必要ではない。北海道に住む知人に尋ねてみたが、北海道で野焼きを見たことはないという。その意味では、「草原の維持」が積雪のおかげで容易であると言える。しかし念のため尋ねてみた。こちらでは「野焼き」というものをやりますかと。答えは期待に反して「やっている」であった。こちらは阿蘇久住より数十倍も広大な地域である。そこをどうやって野焼きするのであろう。さらに詳しく尋ねる。野焼きは夏の居住地周辺の一部だけを、居住地を引き揚げる前の10月頃に共同で行う。翌夏、最初に放牧する部分に柔らかい草が生えるように、草刈りをして火を放つとのことであった。完璧に理解できたわけではないが、翌年の放牧に備えて 夏の居住地周辺に限って野焼きをしておくと、雪解け後に良い草が生えてくるので放牧を容易に開始できるということであろう。ハイキングの途中で彼らの夏の居住地を数か所観察できたが(写真)、機会があればこちらの野焼きを見てみたいものである。
自然環境を巧みに利用した人の営みは、遊牧・移牧・放牧と様々な牧畜形態を生み出してきたが、いずれも徐々に地球上から姿を消してゆく運命にある。しかし、人類が生き残るにはこれらの遺産を守れるか否かにかかっているような気がする。阿蘇久住における放牧はすでに終焉を迎えつつあるが、まだ地球上に残存する遊牧や移牧は当分継続されてゆくであろう。コ-カサスの旅で、はからずも移牧を垣間見る機会を得たが、事のついでに遊牧に関する著者の乏しい見聞を述べて筆を置くことにする。
最初は、1969年7月上旬、友人と当時のアフガニスタン王国に10日間ほど滞在した折、北のマザリシャリフやカブ-ル西方のガズニ-を訪れた。この途中で移動する遊牧民とラクダの長い列や、黒いパオに滞在する遊牧民達を観たことがある。サラング峠では雪の残る牧歌的風情のなか、多くの家畜(羊・ヤギ・水牛・乳牛・ロバ・牛・馬・ラクダ)が草を喰んでいた。砂漠に毛の生えたようなステップでは、200頭ものラクダが放牧されていた。これらのうちには、移牧も混じっていたかもしれない。
また、慢性砒素中毒やフッ素中毒の調査で訪れた中国の内モンゴル自治区(1993年~2004年)では、カシミヤヤギの放牧を各地で目にした。
カシミヤヤギの画像はネット上から
ここで地質・水質調査や飲料水供給プロジェクトに長らく取り組んだ、横井英紀氏の興味深い話を紹介しておく。内モンゴル自治区に住む遊牧民(モンゴル人)に対し当局は定住化政策を推し進めていたが、定住化した遊牧民の間に慢性フッ素中毒が生じてきた事例がある。遊牧民が定住化すると、同じ場所の飲料水を使用することになるが、この水のフッ素濃度が高いと当然中毒が発生する。従来の遊牧生活であれば1年で数か所に移り住むので、飲む水の場所も異なり中毒に罹ることはなかったが、高濃度のフッ素水の場所に定住化させられたために不幸な事態が発生した。
遊牧とは移動型の生活形態で、国境は遊牧民の移動を阻害するし各国政府はどこも遊牧民の定住化政策をとる傾向にある。どれが最後まで生き残れるかという話ではないが、古来人類が育んできた様々な牧畜形態を、人間の愚かさが消滅に導いていることだけは確かであろう。来年はピレネ-山中でどのような牧畜をみることになるか、どんな蒸留酒に巡り会えるのか楽しみである。
参考文献
1. 菊池川源流域―水の再生を願って― 堀田宜之 熊本出版文化会館 2016年3月
2. 砷地巡歴 水俣―土呂久―キャットゴ-ン 堀田宜之 熊本文化出版会館 2013年8月
3. ユ-ラシャ旅日記―1969年6~11月― 堀田宜之 未発表






















