『コ-カサスの草原にて』

                桜が丘病院 理事長 堀田 宜之


毎夏、10日前後の休暇を取り若い頃から憧れていた地を訪れている。昨年はイタリアのドロミテ周辺の花を見ながらのハイキング。


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Dolomiti


今年はコ-カサス(ジョ-ジアとアルメニア)山麓の花を愛でた。来年はスペイン側からフランス側へ、ピレネ-山脈を超えるハイキングを予定している。北緯42度以北一帯は半年以上も雪に覆われ、雪の解ける6月末にはあらゆる花々が一斉に咲き誇る。昨今は、日本の山の花々を見終わった老齢のご婦人の間で、この時期の花を愛でるツア-に人気がある。著者も若い頃は、ドロミテの岩峰を攀じたいと願い、コ-カサスの高峰へ日本人としての第一登を果たしたいとあくせくした時期があったが、いまは花を愛でて眺めるだけの歳になってしまった。

『コ-カサス』や『カフカス』あるいは『グルジア』という呼称は高齢の日本人には馴染み深いが、最近はほとんど使用されずグルジアも『ジョ-ジア』に変わった。


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慌ただしい旅の雑文であるが、話の内容は以下の4つに絞られる。


1.蒸留酒のこと;チャチャとアルメニアン・コニャック。両国ともワインの名産地であるが、醸造酒には関心が無いので今回は省く。

2.世界遺産のこと;教会や古いキャラバンサライ。

3.野の花のこと;名前を知らないので描き辛い。

4.草原と牧畜;移牧のこと。


カタ-ルのド-ハからアゼルバイジャンの首都・バク-経由で、629日の昼過ぎにジョ-ジアの首都・トビリシに着いた。日差しはきついが空気は乾いている。山手にあるホテル周辺の坂道を下って、酒屋を捜して歩いたが見つからなかった。昔からコ-カサスの人々は度の強い蒸留酒(チャチャ・Chachaと呼ばれる4070度のブドウの搾り滓から作る蒸留酒。


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ウィキペディア(20170809 16:19

ワインウォッカ、グレ-プ・ウォッカ、あるいはグルジア・ウォッカとも呼ばれ、世界で最も古い蒸留酒のひとつと考えられている。)を飲むので、長寿国として有名である。年老いた私は、人類が創ったものでは蒸留酒以外はほとんど関心が無い。今回の訪問地には、チャチャやアルメニアン・コニャックなどの銘酒があり、花見より酒が主目的の感があった。酒屋を見つけることはできなかったが、通りの街路樹に大きな桑の木が多数混じっており、その中に「白い桑の実」があることを発見した。青紫の桑の実は日本人に馴染み深いが、白い桑の実は初めてでびっくりした。ホテルの敷地内にある「白い桑の実の樹」の枝を手繰り寄せて熟した実を口にすると、すこぶる甘い。フロントのボ-イに見せると、ジョ-ジア語で“TUTA”(ツ-タ)だと教えてくれた。

このツア-は昨年と違い、各地に存在する世界遺産(主にジョ-ジア正教やアルメニア正教の古い教会)を訪れる機会が多くあった。翌日、大コ-カサス山脈の山麓へ向かう途中、古都ムツヘタに立ち寄り、スヴェティツボヴェリ教会を見学した。参道の入口から300m程は門前町を形成し、両側に並ぶ土産物屋にワインを売る店があり、そこでやっと念願のチャチャを1本手に入れた。アルコ-ル度数は51度。その夜泊まったカズベキ村(標高1700m)のホテルで、酒好きが集まって試飲してみた。一言では表現し難いが、ブランディとウイスキ-を合わせたような、きりっとした味であった。もっと癖のある酒と思っていたが、いろいろ飲んでみる必要があるだろう。ストレ-トで飲むのがこちらの風習であろうが、毎晩、水割りで寝酒にした。

翌日から花を愛でるハイキングが始まった。カズベキのホテルは、大コ-カサス山脈のなかで第3の高峰・カズベキ山(5,040m)を目前に控える高台にあり、その広いベランダから雪を頂いた秀麗な山容が良く望まれる(写真)。ホテルから4輪駆動車3台に分乗して、ハイキングの出発点であるジュタ村(標高2,250m)へ向かう。カズベキ峰とは反対側にあるチヤウヘビ山麓のお花畑を56時間散策した。ジュタ村から続く砂利道はかなりの急坂で、これを喘ぎ上ると視界が開けなだらかな尾根の末端に瀟洒な山小屋がある。晴天下で暑いが、花々は咲き乱れている。このコ-スは人気があるようで、山姿のハイカ-達が三々五々行き来する。この尾根の行き着くところはチヤウヘビ山稜から延びている雪渓の末端で、ハイキングの最終地点もそこで終わり同じ路を引き返す。故に適宜お茶を濁して引き返してもよい。私は、山小屋でチャチャを飲む魂胆があったので、最後まで付き合うことなく引き返した。

小屋でチャチャを注文すると、大きな40糎四方のガラス製の器に茶色っぽい液体(一応透明)が入っており、その一面に付いている蛇口を捻って金属製の小さいカップに注いでくれた。ストレ-トはきついので氷を依頼すると、カウンタ-の若い娘は怪訝な顔で「氷がいるのか?」と尋ねてきた。そうだと答えると、冷蔵庫から取り出した小さな氷片を数個皿に載せてくれた。彼女の対応振りから、チャチャの飲み方がおおよそ理解できた。ここで飲んだチャチャの味はかなりアクが強かったが、値段はビ-ルの半分以下であった。

再びトビリシに戻り、45人の酒好きがホテルのバ-で最後の夜を楽しんだ。このときは、かのチャ-チル首相が愛好したというアルメニアン・コニャック(銘柄はアララット)を注文した。注) 無論、ストレ-トで頂いたが、深く濃厚な味であった。バ-テンダ-に尋ねると、アララットの15年物で一本100USドルだという。このバ-でもチャチャのロックを2杯飲んだが、チャチャはストレ-トに尽きるようである。私は普段ブランディを口にすることはないが、アルメニアン・コニャックは甘くないので、いけそうである。そういう訳で、今回もチャチャ2本とアルメニアン・コニャック4本を携えて帰国した。


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ドロミテの銘酒グラッパ、コ-カサスはチャチャやアルメニアン・コニャック、これらの蒸留酒は、所謂、スピリットと呼ばれるアルコ-ル濃度が高いもので、食卓で飲まれることはないし話題にもされない。従ってその名前や存在すら知らない人達が増えているようである。昔、ポ-ランドのどこかの街で、昼食時にウォッカを注文したら、「紳士は昼間から酒を飲まない。」と案内の同伴者にたしなめられたことがある。そう、欧米ではワインやビ-ルは酒のうちに入らない。殊に昨今は、世界的に健康志向が助長されており、酒(蒸留酒)の愛好者が減っているようである。葉巻をふかしてシングルモルトをぐいと呷るような男が少なくなった、と酒飲みは一抹の寂しさを感じる。


注)19454月、クリミヤで開かれたヤルタ会談で、スタ-リンはチャ-チルにアルメニアン・コニャックを勧めた。チャ-チルは痛く気に入り、彼の依頼でスタ-リンは毎年400本ほど送り続けたという逸話がある。因みに、スタ-リンはジョ-ジアのゴリ市出身で、現在でもジョ-ジア人は世界的な偉人・英雄としてスタ-リンを誇りにしている。ジョ-ジア人は人種的にはカルトヴェリ人というスラブ系民族であるが、一方で、2008年にはロシアとの間に南オセチア紛争などが持ち上がり、一応終結はしたが、南オセチアやアブハジア問題はなお未解決で、国内の反露感情は根強いという。   


この旅ではジョ-ジアで4か所、アルメニアで3ヶ所の古い教会を訪問した。そのうち印象深く記憶に残っているものについて述べておく。まず、ムツヘタ市にあるスヴェティツホヴェリ教会(大聖堂)。ムツヘタは紀元前4世紀にイベリア王国の首都となったが、西暦334年にキリスト教が国教となり、ここに最初の木造聖堂が建設された。6世紀に首都はトビリシに移ったが、総主教座はムツヘタに残り、現在までジョ-ジア正教の中心地である。

クワ川とアラグヴィ川の合流地点の河畔に位置するこの街は、真ん中に大聖堂がひときわ大きく高くそそり立ち、古都の面影が麗しい(写真)


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ジョ-ジア正教もアルメニア正教も教会内にカソリック教会のような信者が座るベンチがなく、信者は聖職者の話を立ったまま聴く。照明は天井からの光だけで、石造りの内部は暗い。フレスコ画の残る壁面もあるが、カソリックのようにけばけばしい装飾はなく、概して質素である。この大聖堂の入口の扉には、牛の顔の像が二つ掲げられている。昔、クレタ島のクノッソス宮殿遺跡でも牡牛が崇められていたのを思い出したが、ここの牡牛は遊牧民族の歴史的な遺産であろうか。

ハイキングの二日目は、秀峰カズベキ山麓の丘に建つ三位一体教会までひどいでこぼこ道を4輪駆動車に揺られて上り、そこから花を愛でながら沢沿いに草原をゆっくりと下った。この教会は簡素でこれといった特徴はないが、カズベキ村から徒歩で登る人々のすべてがハイカ-ではなさそうである。このジョ-ジア正教の教会は14世紀に建設され、正確にはツミンダサメバ教会(聖三位一体教会)と云い、2170mのクヴェミタム山の頂に立つ(写真)。ここからの眺望は素晴らしく、背後に雪を抱くカズベキ山を控え、眼下にホテルのあるカズベキ村と山麓にあるゲルティ村がくっきり望まれる。絶景である。

アルメニアは、西暦301年に世界で最初にキリスト教を国教にした国である。ここでは、アララット山が望めるホルヴィラップ修道院(6世紀建立)や岩山を刳り貫いて造られたゲガルド修道院が印象的であった。私は宗教には疎いので、教会はこれくらいにしておく。


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この旅で最も感動的であったのは、アルメニアのセリム峠(2410m)付近に残る12世紀頃の隊商都市跡に建つ、所謂、キャラバンサライを見たことであった(写真)。


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私がイメ-ジしていた広い中庭を方形の建物が囲むものとは異なり、往時のシルクロ-ドの旅の厳しさを彷彿とさせるものであった。石造りのこの堅牢な建物は、内部の一段低くなった両側に家畜(馬やラクダ)を繋ぐ細長い空間が設けられ、荷物用の部屋と管理人用の部屋が一つずつ設えられている。旅人の使用する空間は中央部にあり、照明用の明り取りが屋根に設けられている。全体的にみると質素で暗く、防御用に造られた夜の避難所である。盗賊から身を守って、一晩安眠できればそれでよしとする建造物である。このようなキャラバンサライが20~30kmごとに設けられていたが、現在ではこの建物だけが残っているという。コ-カサス地方は火山国で地震が多いので、教会の建物にもこのキャラバンサライの入口に見るような耐震用の石積みの工夫が施されていた(写真 切り込み接ぎ? 古川氏に直接尋ねる)。


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これは熊本県多良木町の石倉ですが、このような石造りの倉庫が日本でも人吉盆地や栃木県の宇都宮(大谷石)一帯などに大量に認められるのです(編集者:古川注)。


欧州は6月初期から花の季節である。昔、トランシルバニアに出かけた時にそれを初めて実感した。梅や桜や桃が順々に咲く日本の春とは違い、半年以上雪に埋もれている地方は、それこそあらゆる花々が一斉に咲き乱れ圧巻である。昨年はイタリアのドロミテで花を愛でるハイキングに参加した。ドロミテ周辺はグラッパの生産地、保養地・観光地としても先進地で、野の花々もたっぷりと堪能できた。しかし、参加のご婦人たちはいずれも脚が達者で、いつも末尾から遅れぬように歩かねばならず、老人には慌ただしかった。今年は5日間のハイキング中、花を愛でながら開けた草原をのんびり逍遥できた。私が知っている花は、菜の花の類、マ-ガレット、バイケイソウ、リンドウ、ポピ-、アザミなど限られているが、今回は花の種類も多くお花畑も随分と広大であった(写真)。


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日本であれば、核心部を区切って周囲に遊歩道を造り、そこから観察するのが普通である。日本人は花々を踏み倒してしまうことに罪悪感を抱くが、ここでは囲いも遊歩道もなく踏み荒らしっ放しである。家畜の食べない草花が草原に残っているという感じであるが、このままでは日本人のグル-プが野の花々を踏み荒らしてしまうと、不評を買うかもしれない。


コ-カサス地方はジョ-ジアもアルメニアも農業と牧畜が盛んである。そのことは日々食する野菜や果物が新鮮で旨かったことからも、容易に察しが付く。殊にトマトやキュウリの旨さは格別であった。恐らくハウス栽培などやっていないであろう。また、とろみのある「グミのジュ-ス」というものを初めて味わった。サクランボやアプリコットなど食卓を飾る果物の多くも、街路樹や庭園樹から捥いでこられたもののようである。私は乳製品に格別な関心はないが、ヨ-グルトやチ-ズの類も豊富であった。

旅の初日、トビリシからカズベキに向かう途中、急峻な草付き斜面に牛が放たれているのを遠望した。これほどの急斜面で放牧をみるのは、初めてである。「ジョ-ジア軍道」と呼ばれる北オセチアへ通じる主要道路に、十字架峠(2,395m)がある。ここから見下ろす膨大な尾根の斜面に、無数の羊の群れが放たれていた(写真)。


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夏の放牧時にはどうやって羊や牛を放牧地まで連れてゆくのかガイドのF嬢に尋ねると、大型トラックで夏の放牧地まで家畜を運んでいるとのこと。アルメニアで一度だけ遭遇したが、夕刻、羊や牛の大群が道路一杯にひしめきあって家路に向かう光景は、すさまじかった。どこでも家畜の群れは自動車の邪魔になるが、運転手は慣れたものである。馬に乗った牧童たちも家畜が交通事故に遭わぬように、素早く導いている。

この旅で最も衝撃を受けたのは、「草原」に対してこれまで抱いていた概念がすっかり変わってしまったことである。コ-カサスの山々は稜頂部こそ雪を頂いているが、雪の消えてしまった尾根筋は岩壁部を除くとすべて緑の草付き斜面である(写真)。

このことは、ハイキング初日と翌日の二日間でよく観察できた。つまり、森林限界まで樹木が伐採されており、一度伐採された斜面は半年間雪に閉ざされるので樹木が生えてくることはない。伐採されなかった樹木群(原生林)が随所に残っていることから、それと判る(写真)。


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従って、樹木を伐採した処は、緩傾斜でも急傾斜でもすべて緑の斜面、即ち、草原となってしまう。私がこれまで抱いてきた草原は、平らであり急斜面は含まれていなかった。阿蘇久住の草原がそうであるように、日本人は急な草付き斜面を草原とは決して呼ばない。勿論、阿蘇の米塚のように急斜面の草付きも存在するが、そういう急斜面で放牧されている牛を見ることはないし、概して草原とは平たいものというのが日本人の感性である。ところがコ-カサスの急斜面で放たれている牛や羊の群れを眺めていると、この感性が変わってくる。これは何処から生じてくるものであろうかと、しきりに頭をひねってみたがよく判らない。阿蘇久住で長年行われてきた「放牧」とコ-カサス地方で行われている「移牧」という牧畜形態は、どこが違うのであろうか。前者は「粗放牧畜」といわれ、春先から秋までの半年間、牛や馬はそれこそ野に放たれたままである。たまに塩を補給されたり水瓶に保水されることはあっても、この期間、家畜たちは自力生存を強いられる。移牧では、牧童が毎朝その日の草場に家畜を放ち、夕刻にはすべての家畜を連れて戻る。一頭たりとも無駄にはしないやり方であるし、その日に放たれる場所には充分な草が生えていることが前提条件である。アルメニアに移ってからのガイド・A氏は、ロシア系アルメニア人であった。阿蘇久住の草原は冬雪に覆われることがないので、草原の維持には「野焼き」が必要である。放置すると樹木が生えてきて森になってしまう。ところが半年間も雪に覆われるコ-カサス地方では、草原の維持に「野焼き」は必要ではない。北海道に住む知人に尋ねてみたが、北海道で野焼きを見たことはないという。その意味では、「草原の維持」が積雪のおかげで容易であると言える。しかし念のため尋ねてみた。こちらでは「野焼き」というものをやりますかと。答えは期待に反して「やっている」であった。こちらは阿蘇久住より数十倍も広大な地域である。そこをどうやって野焼きするのであろう。さらに詳しく尋ねる。野焼きは夏の居住地周辺の一部だけを、居住地を引き揚げる前の10月頃に共同で行う。翌夏、最初に放牧する部分に柔らかい草が生えるように、草刈りをして火を放つとのことであった。完璧に理解できたわけではないが、翌年の放牧に備えて 夏の居住地周辺に限って野焼きをしておくと、雪解け後に良い草が生えてくるので放牧を容易に開始できるということであろう。ハイキングの途中で彼らの夏の居住地を数か所観察できたが(写真)、機会があればこちらの野焼きを見てみたいものである。


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自然環境を巧みに利用した人の営みは、遊牧・移牧・放牧と様々な牧畜形態を生み出してきたが、いずれも徐々に地球上から姿を消してゆく運命にある。しかし、人類が生き残るにはこれらの遺産を守れるか否かにかかっているような気がする。阿蘇久住における放牧はすでに終焉を迎えつつあるが、まだ地球上に残存する遊牧や移牧は当分継続されてゆくであろう。コ-カサスの旅で、はからずも移牧を垣間見る機会を得たが、事のついでに遊牧に関する著者の乏しい見聞を述べて筆を置くことにする。

最初は、19697月上旬、友人と当時のアフガニスタン王国に10日間ほど滞在した折、北のマザリシャリフやカブ-ル西方のガズニ-を訪れた。この途中で移動する遊牧民とラクダの長い列や、黒いパオに滞在する遊牧民達を観たことがある。サラング峠では雪の残る牧歌的風情のなか、多くの家畜(羊・ヤギ・水牛・乳牛・ロバ・牛・馬・ラクダ)が草を喰んでいた。砂漠に毛の生えたようなステップでは、200頭ものラクダが放牧されていた。これらのうちには、移牧も混じっていたかもしれない。

また、慢性砒素中毒やフッ素中毒の調査で訪れた中国の内モンゴル自治区(1993年~2004年)では、カシミヤヤギの放牧を各地で目にした。


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カシミヤヤギの画像はネット上から

ここで地質・水質調査や飲料水供給プロジェクトに長らく取り組んだ、横井英紀氏の興味深い話を紹介しておく。内モンゴル自治区に住む遊牧民(モンゴル人)に対し当局は定住化政策を推し進めていたが、定住化した遊牧民の間に慢性フッ素中毒が生じてきた事例がある。遊牧民が定住化すると、同じ場所の飲料水を使用することになるが、この水のフッ素濃度が高いと当然中毒が発生する。従来の遊牧生活であれば1年で数か所に移り住むので、飲む水の場所も異なり中毒に罹ることはなかったが、高濃度のフッ素水の場所に定住化させられたために不幸な事態が発生した。

遊牧とは移動型の生活形態で、国境は遊牧民の移動を阻害するし各国政府はどこも遊牧民の定住化政策をとる傾向にある。どれが最後まで生き残れるかという話ではないが、古来人類が育んできた様々な牧畜形態を、人間の愚かさが消滅に導いていることだけは確かであろう。来年はピレネ-山中でどのような牧畜をみることになるか、どんな蒸留酒に巡り会えるのか楽しみである。


参考文献

1. 菊池川源流域水の再生を願って堀田宜之 熊本出版文化会館 20163

2. 砷地巡歴 水俣土呂久キャットゴ-ン 堀田宜之 熊本文化出版会館 20138

3. ユ-ラシャ旅日記―19696~11堀田宜之 未発表

『菊池川源流域 ―川の再生を願って―』を出版して(前編)(2/2)

                       桜が丘病院 堀田 宜之


菊池川左岸域で最大の支流・ナメリ川を遡行すると、大きな瀞に阻まれ両岸は絶壁で手が付けられない。水上を小舟か筏で進むか、泳ぐしか選択肢はない。ここは一旦退き、他のル-トから瀞の上流部に出ることにした。国土地理院地図(25000分の1)を丹念に検索し、まず右俣左岸支流IIから下降した。このときはまだザイルがなく、蘇友会OBY君の協力を得て二人で下降した。ナメリ川右俣本流のこの部分は、調査区域では最も手ごわく最後まで残った部分であった。途中で下降できなくなり、止む無く右岸斜面の自然林を数時間トラバ-スして、右俣と左俣をわける中央稜に達した。この経験から、登攀用具を改めて整え踏査に臨んだ。数ヶ月後、右俣左俣分岐部に達する最短のル-トを地図上に探し求め、ナメリ川本流右岸斜面の自然林からナメリ川本流に下降した。

ナメリ川本流の右俣左俣分岐部に向かい合うと、左俣の関門は高さ十数米の溶岩質の涸れ滝で塞がれている。ハ-ケンは効かない。それでも半分ほど刺さったハ-ケンに鐙をかけて上方を伺っていると、ハ-ケンが抜け2mほど真直ぐに落下した。岩盤を支えた右脚に激痛が走った。翌日、整形外科で診察を受けたが骨折はなく、「右脚内側靭帯損傷」の診断で松葉杖を3週間使用する羽目になった。この時期、ブ-タン旅行のツア-に申し込んでいたが、この不祥事で参加できず残念なことをした。左俣本流は関門の滝が登れないので、上流部から懸垂下降して関門に降り立った。


菊池川右岸支流で最大の沢は、市成川である。この下流域の岩床や側壁は溶結凝灰岩の柱状節理が目立つ。幾つかの涸れ滝があるが、圧巻は谷を扇状に塞いだ十数米の涸れ滝。この滝にはハ-ケンが打ち込めるリスが走っている。左岸寄りにル-トを求め、作業用のタイガ-・ロ-プでこさえた鐙2本を駆使して乗り越えた。数十年振りに振るったハ-ケンの音が谷間に心地よく響き、心で快哉を叫んだ。この滝を最初は扇滝と呼んでいたが、70歳の老人が初登攀したことを記念して、以後は「古希の滝」と勝手に呼んでいる。この涸れ滝の登攀は、著者がこれまで阿蘇界隈で経験した滝では最も快適なものである(写真2)。


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写真2


著者は45歳頃からヤマメ釣りを始めた。お師匠はすでに亡くなられた大山繁先生と、まだご活躍中の武原重治先生のお二人である。お二人に連れられ、主に脊梁山系の河川を彷徨した。球磨川水系と耳川水系が多かった。23年はお師匠さんに習ったが、ひとしきり覚えると単独釣行が多くなる。著者は釣りには才能がなく、漁獲量、殊に尺物釣りに目くじらを立てていた師匠たちは呆れ果てていたようで、半ば源流部の沢登りを楽しんだ。こうして10年ほどヤマメ釣りに明け暮れたが、この経験が調査に生かされた。

その第一は、ヤマメとアブラメの棲息域が健全な川では一定しているという知識が身に付いたことである。イワナのいない九州ではヤマメが最上流域にアブラメはその下流に棲息し、健全な河川ではこの原則はどこも変わらない。これが逆転しているのは、菊池川源流域が初めての経験であった。実はこの逆転現象が、河川水の衰退を物語る状況証拠になると気付いたのは、写真集を纏める段階になってからである。このことに気付き勇躍して、ひょっとしてこれは著者ひとりの発見かもしれないと思いながら、最終稿を書き綴った。菊池川源流域の水の衰退を招く要因は、日本全国の河川に共通する部分を含むと思われるので、渓流魚の棲息分布は河川水の衰退を知る尺度(生物学的指標)として有効であろう。調査中はアブラメの棲息確認を、少なくともその地点まではかって水が下流域から繋がっていた生物学的証拠として重要視し、隈なく目を凝らして遡行した。一方、ヤマメを菊池川本流で確認(目視)できたのは正確には2ヶ所だけである。菊池川の昔のヤマメ釣りの状況は多くの人から情報を仕入れたが、著者自身の経験も参考にした。実際の棲息場所をみて余りの環境の悪さに驚きもしたが、いずれ消滅するしかない極限状態であった。雑食でタフなアブラメは水さえあればどこでも生存できるが、孤立した僅かな水に棲息しており、徐々に生存が難しくなるであろう。


著者は林業に疎く、源流域の水の問題を論じるには経験者の知恵をお借りする必要があった。ただ素人であっても数十年も登山やヤマメ釣りをやっていると、森林に関する多くの知見を経験できるので、専門家のお話もそれなりに理解はできた。

菊池市木護で農業に従事しておられる哲学者の正木高志氏は、健全な森作りに黙々と植林(落葉広葉樹や照葉樹)に従事されている。仲間たちと木護に「花鳥山」という見事な森を育てられ、その後もひとり阿蘇市西湯浦地区のカルデラ壁斜面で理想の森作りに専念されている。最近は、木護地区で林野庁が放置している人工林の山を借り受け、昔並みの地表水を産生する取り組みを始められた。正木氏の活動からは、真の森と地表水を復活させたいという気迫がひしひしと伝わってくる。

一般社団法人エコシステム協会代表の平野虎丸氏は、飯田山麓で晴耕雨読の生活。子供の頃は焼き畑を経験され、昔は林野庁の自然林伐採作業にも従事されたことがある。平野氏のお話は素人にも明快である;山には二種類の樹木が育っている。自然が与えた「実生の木」と、人間が作った「挿し木苗」から生じた樹木である。前者は太く長い直根を出して大地を支え、保水力がある。後者は細い根が横に広がり、100年の大木でも簡単に倒れ、保水力がない。平野氏は林業以外の植林活動には否定的で、各地に購入された山で「植えない森」を実践されている。ここに存在する人工林は、徐々に伐採されている。林床では多くの種類の実生が陽の光を待っており、人が手を加えずとも自然の森が復活してくるという循環の思想である。お二人の活動は50年~100年先を見据えたスケ-ルの大きいもので、どちらも国土保全に命を掛けた憂国の士である。


断片的になるが、お許し戴きたい。この510日に著者の出版記念祝賀会が催され、この会で「ミニ菊池川サミット」を小1時間開催した。招待した10名ほどの識者に、菊池川再生へのご意見をいただいたが、古文書関係に詳しい3人の方々から興味ある話を伺えた;

現在の日本の河川がなんとか水を維持できているのは、江戸幕府の植林行政にある。菊池川源流域にある北外輪山の管理は、肥後藩がやっていた(藩有林:山口支配、山番役)。実生・育苗・接ぎ木などで植えられた苗数は、毎年数百万単位の規模。苗木の種類も多種多様(十数種類)で、必ず雑木類も植えていた(落葉が腐葉土となり保水力を増すため)。江戸期から昭和初期までの菊池川は舟運が盛んで、河川の浚渫が毎年行われその水位は今より1.2mも高く、豊かな水量があった。現在、菊池川の水量が辛うじて保たれているのは、江戸時代の山林管理の賜で、今なおその保水力が持続しているからである。

この豊かな河川を衰退に導いた元凶は、自然林を皆伐し「挿し木苗」による人工林を植え続けている林野庁である。戦後の拡大造林から日本の山々を人工林に変えて、風水災害の度に被害を増大させ、日本の国土を崩壊させている林野庁の山林行政は速やかに廃止すべきである。菊池川源流域では、放置された人工林が蔓延っている。

平野虎丸氏によると、日本の人工林の面積は必要とされる木材需要を賄う面積の100倍ほどある。最近、林野庁はこの人工林からの材木を原料にした火力発電所を各地に建設し始めている。そのひとつが大分県の日田市天ヶ瀬町にあり、先月、見てきた(写真3)。

発電量5700キロワットの「木質バイオマス発電」と銘打っているが、これは「すべてのごみは資源である」という発想で、岡山県真庭市が建設したバイオマス発電所とは似て非なるものである。


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写真3


伐採期を迎えた人工林からの材木の処理に困った林野庁が、このような手段で自己の正当性を保とうとする姿は、断末魔のあがきに似て見苦しい限りである。そもそも本来の目的以外に木材を使用しなければならないこと自体、すでに山林行政の破綻を物語っている。林野庁は幾重にも税金の無駄使いをしながら、日本の国土を荒らしている。平野虎丸氏の著書「日本政府の森林偽装」は、林野行政の多くの矛盾を暴く名著である。


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嫌なことをこれ以上書き連ねたくないので、少し楽しい話で結びとしたい。

827日~28日、鹿児島県の甑島を訪れた。昔から一度は行きたいと思っていたが、昨年11月に後期高齢者となり今年は喜寿を迎える身。いつ死ぬか判らないので、今年の旅行地に選んだ。現地の旅行社に丸投げした計画であったが、上甑・中甑・下甑を2日間で見て回り結構くたびれた。

数々の観光名所より特記すべきは、この島全体が原生林(主に照葉樹林)に覆われ、人工林は殆ど見かけないことであった。島はどこも海岸から急峻に尾根がせり上がり、平地は少なく天草のように干拓の歴史もない。人工林がないから林業の歴史もない。急峻な山襞は密で大きな川はひとつもないが、一つひとつの小さい山襞の間からは原生林が育んだ水が流れ、観光名所になっている滝も何ヶ所か存在する(写真4)。


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写真4


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そして、この水を上流部で堰き止めたささやかな堤から、島民の生活用水を賄っている。甑島では水に困った話はこれまで聞いたことがないと、地元出身のガイド。このような島で生活用水を自給できるのは、奇跡的なことで感動させられた。島全体が照葉樹林の原生林で覆われていること自体特筆すべきで、こういう地域は九州本土といわず日本全国でも存在しない。

これは健全なブナの森が、青森・秋田に跨る白神山地にしか残っていないことにも匹敵する。まさしく甑島は日本の珠玉の宝であり、世界遺産(?)として大事に守られるべきである**。この原生林は水を育み、その水に運ばれたミネラルや植物性プランクトンが海の生態系を育み島の漁業を支えている。自然の循環が健全に保たれてきたのは、孤島という地理学的・地形学的諸条件があるにせよ、著者には新発見で非常な驚きであった。地元の人は、島を覆う照葉樹林の功徳に気付いていないようで、観光案内にも原生林の文字は一言もみえない。農耕地が少なく林業が存在せず商業主義も蔓延っていないので、健やかに自然が守られ島民の生活にも穏やかさがある。唯一の産業である漁業でも、獲れたものは甑島から外部には出さず、殆ど地元で消費してしまう。獲れすぎると地元民に分け与える習わしが残っており、所謂、地産地消の現代版ユ-トピアである。甑島で味わった「きびなご」の刺身の旨さには感動した。これを食べる目的だけでも、甑島に行く価値がある。

しかし、3島合わせても住民は5000名で、3島を結ぶ橋の建設が進行中である。下甑島の稜頂部には、日本で3基しかないレ-ダ-が設置され自衛隊が200名ほど常駐している。これは国防上致し方ないにしても、国はここに相当の予算をつぎ込んでいることが、余りにも立派過ぎる道路整備や橋・トンネルから垣間見える。そのうち飛行場もどこかに建設されるかもしれない。将来、甑島が俗化されないよう、あの素晴らしい照葉樹林の原生林が健全に維持されるよう祈るしかない。

甑島は川内原発から345kmの距離にある。原発は炭酸ガスを出さないから地球温暖化には寄与しないとの話は、真っ赤な嘘である。海水で炉を冷却しているから日本沿岸は海水温度が上昇し、海の生物が消え失せ生態系に多大の影響を与えている。このことを漁師たちはよく知っているが、川内港周辺の海でも生態系の異常が生じればそれは間接的に甑島の海の環境に影響する。この意味からも、川内原発は速やかに廃棄すべきである。


** 昨今の世界遺産ブ-ムには首をかしげざるを得ない。オリンピック誘致にも似て、商業主義に毒されているように思える。少なくとも日本においては、これに登録されると観光客が雪崩を打って押し寄せ、本来の意義を失ってしまうのではないかと杞憂する。

甑島は現在、国定公園であるが国立公園以上の価値がある。日本の国立公園も本来のインタナショナルな価値基準とは、似て非なるものである。


末尾になるが記しておく。人は昔から馴染んでいても、目の前を流れる川の上流部についてはほとんど知らない。けれども、関心は抱いている。矢護川流域で育った読者が、そう書いてきた。著者もこの調査で源流域がどうなっているのか初めて知ったので、沢の遡行は知的好奇心を掻き立てる行為であった。その意味では、本著は菊池川源流域の教科書的役割も果たしている。幸か不幸か、今度の熊本地震で源流域の地形や川の流れ、水の存否などが相当に変わってしまったと聞いている。地震以後は道路閉鎖で源流域を訪れていないが、拙書は地震以前の菊池川源流域を記録した貴重な資料となったようである。


参考文献

1.木を植えましょう 正木高志、南方新社、2002

2.有明海異変 古川清久・米本慎一、不知火書房、2003

3.日本政府の森林偽装 平野虎丸、中央公論事業出版、2008

4.草原が危ない 熊本日日新聞社、2012

5.里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く 藻谷浩介・NHK広島取材班、角川書店、2013

6.砷地巡歴 水俣-土呂久-キャットゴ-ン 堀田宜之 熊本出版文化会館、2013

7. 菊池川源流域-川の再生を願って- 堀田宜之、熊本出版文化会館、2016


<写真説明>

写真1.熊本地震で斜面崩落した北外輪の突端部(南阿蘇村立野地区高野台)

写真2.菊池川右岸支流市成川下流域の涸れ滝・古希の滝の登攀

写真3.日田市天ヶ瀬で稼働中の火力発電所(林野庁建設)

写真4.下甑島西海岸(内川内海岸)に落ちる滝と原生林

『菊池川源流域 ―川の再生を願って―』を出版して(前編)(1/2)

                       桜が丘病院 堀田 宜之


6年半を要した菊池川源流域の流水調査を、本年31日に写真集で上梓した。これに関し、反省を含め少し裏話を述べておく。拙書をご覧になっていない方々のために、冒頭、その概要をお伝えしておく。


目的:菊池川源流域の表流水の状態を、写真で記録する。

調査期間:20094月~201511

調査区域:菊池川左岸域(菊池市、阿蘇市、菊池郡大津町)、菊池川右岸域(菊池市、阿蘇市、大分県日田市)、合志川左岸域(菊池市、阿蘇市、菊池郡大津町)

     上記の3市・1町に含まれる、菊池川本流とその支流である合志川左岸に注ぐ支流(28本)、および支流に注ぐ支沢(48本)、並びに対照区域に選んだ二つの河川、斧岳中腹に発する筑後川支流の中原川(南小国町)および瀬田裏原野に発する白川右岸支流の東山川(大津町)。


編集者挿入資料 ①


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調査方法:各支流の出合いから遡行し、水の状態、河床、両岸の樹林帯などを隈なく撮影し記録した。生物学的指標として、アブラメおよびヤマメの棲息を視覚的に観察・記録した。調査は、主に渇水期の10月~5月に行った。


編集者挿入資料 ②


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結論  :上記の方法で得られた資料(写真1200枚と踏査記録)を基に考察し、以下の結論に達した。

1.菊池川源流域の3区域で、表流水は源頭部の森林・草原・牧畜・開発行為の影響を受けている。菊池川左岸域は、源頭部が草原であることが川(表流水)の衰退の最大の要因である。さらに草原の牧草地化は泥土の流出を来し、各河川に泥土汚染を招いている。菊池川右岸域は源頭部が森林(自然林と人工林)で覆われ、比較的表流水が保たれている。右岸域に存在するゴルフ場その他の大規模施設は、表流水の衰退と生態系に影響していると推察される。合志川左岸域は源頭部が急傾斜で自然林が皆伐され、この区域の人工林は土砂災害の主因となっている。

2.源流域の自然林の割合は少なく、放置された「挿し木苗による人工林」は流域の乾燥化を促進させ、表流水を奪っていると推察される。

3.阿蘇久住の草原は、九州中部・北部の一級河川の表流水を衰退させ、有明海に諸々の負荷を掛け続けている。自然林の減少と挿し木苗による広大な人工林が、これを助長している。山・川・海は三位一体で、豊かな有明海を取り戻すには健全な「実生の森」と川の再生が要請される。

4.菊池川源流域は諸々の垂れ流しが、放置されている。家畜の屎尿・牧草地からの

泥土・人工林の斜面崩壊・林業廃棄物・林道建設時の土砂、家庭・企業・ゴルフ場からの排水などである。これらは源流域の河川に垂れ流され、表流水や生態系の衰退を助長している。

5.渓流魚のヤマメとアブラメは、菊池川源流域のすべての水域でその棲息分布が逆転している。通常はヤマメが最上流域に、アブラメはヤマメの下流域に棲息するが、菊池川源流域ではこれが逆転している。このことは、河川の衰退(水温低下、水量減少)を物語る生物学的指標として有効である。


編集者注 ① アブラメ


川魚には多くの地方名がありますが、ここで堀田先生が言われている「アブラメ」とは恐らく「タカハヤ」の事で、西日本全域で「アブラメ」と呼ばれているものと思います。画像はネット上の「九重ふるさと自然学校」より借用したもの。

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通称“アブラメ”。アブラメといわれる淡水魚は日本の多くの地域にいるが、西日本に生息しているものはタカハヤ、東日本に生息しているものはアブラハヤである。

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この調査は計画的に始めたのでも、急な思い付きで施行したのでもない。長い潜伏期間が必要であったし、年齢的に間に合うぎりぎりの時期に開始したように思う。

著者は若い頃から菊池渓谷や北外輪の山に親しみ、阿蘇の草原が菊池川源流域の水に及ぼ
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す影響に懸念を抱いていた。また、昭和
347月、初めて九州脊梁山脈の国見岳に登り、その折幕営した内大臣川の広河原周辺を覆う原生林の素晴らしさに目を奪われた。その後も50年数間、脊梁山地には登山・スキ-・ヤマメ釣りで頻繁に出かけたが、林野庁の拡大造林政策で原生林は源頭部まで伐採されてしまった。そして、昭和50年から始めた宮崎県高千穂町土呂久の慢性砒素中毒の臨床的研究を契機に、海外の砒素汚染地を巡り「表流水の衰退と地下水の過剰な収奪が、地下水の砒素汚染をもたらした」という事実を知った。

熊本県は草原賛歌、林野庁は植林謳歌一色、そして企業は地下水収奪。これらを支えているのは、商業主義である。著者は商業主義を否定するものではないが、なりふり構わず内外でまかり通っているこの歪んだ構造に、どこかで歯止めをかけないと日本の国土保全は維持できない。昭和20年代までの日本の田園風景や山林の状況を知る人達は、著者と同じ思いを抱きながらも、時の流れは仕方ないと諦めておられる。それ故なおさら、現在の表流水の状況を視覚的に写真という形で残しておきたい。言葉や文字で幾ら説明しても、昔を知らない世代からは信用してもらえない。

拙書を読まれた方々の多くが、その読後所感に「菊池渓谷への著者の深い愛情・郷土愛が、この困難な仕事を達成させた」、という意味のことを述べられている。しかし、それは少し違う。菊池川源流域を調査対象に選んだのは、著者がこの地域を熟知していたからである。昔を知っていないと、調査においては比較ができない。

確かに、阿蘇・久住の草原は素晴らしい。草原の光と影。影の部分を長年凝視してきた著者は、この調査結果(影の部分)を公表する義務があった。読者のひとりは、私の論理の展開に異論を述べられてきた。その詳細をここに述べる余地はないが、阿蘇の草原の成り立ちについての誤った先入観が刷り込まれている気がする。それは阿蘇の草原は、自然の草原であるという認識である。大部分の人はそう思い込んでいる。

重要な事柄なので改めて述べておくが、多雨地帯の日本には地理学上の乾燥地帯は存在しない。従って、日本に存在する草原はすべて人為的な産物・人工草原である。草原の維持には莫大な労力を要する。長らく阿蘇久住の草原で行われてきた「放牧」が終焉を迎えている現在、草原の衰退に危機感を抱く人々は諸々の対策を考え実行しておられる。阿蘇の大自然を代表する風物詩は、広大な草原とそこに放たれた牛馬であり、これは春の野焼きと共に観光資源として維持されなければならない。それが草原賛歌の実態であるが、そこでは草原も川も衰退しているのである。

著者は草原賛歌に敢えて反対はしないが、随分前から「有明海の衰退は、阿蘇久住の草原化に始まった」、という仮説を唱えていた。無論、有明海の衰退には多くの要因があろうが、この地域の草原化と放牧の歴史が判然としていない現在、この仮説を実証することは困難である。

拙書では菊池川の再生およびカルデラ周辺の地理学的脆弱性への長期対策として、草原とカルデラ壁を覆う人工林は徐々に実生の森に変えてゆくべきであると結論した。草原とカルデラ壁を覆う人工林は、20127月の北部九州豪雨災害でも今回の熊本地震でも、その地形学上の脆弱性を露わにした。殊に南阿蘇村立野地区では、斜面崩壊の稜頂部はいずれも草原でその下部斜面に人工林が連なっている(20127月立野地区新所、20164月立野地区高野台:写真1)。


今度の熊本地震で、反対運動が続く「立野ダム」建設計画が立ち消えになることを著者は切に祈念しているが、国土交通省は簡単に諦めないであろう。川辺川ダムもそうであったが、霞が関の省庁は自分た

ちの省益のためなら何でもやるので、熊本県民は今後の推移を注意深く見守る必要がある。

草原賛歌の人々が唱えている信条に、「草原は熊本市の地下水を賄う水瓶であるから、草原を守らなければならない」というものがある。これは論理的におかしいが、多くの人達が信じ込まされている。草原は保水力がなく降水はすぐに川へ流れ込んでしまう。これが実生の森に変わると、保水力のある本来の自然林は降水を長く保持することができるので、地下水の保全には健全な森の方がより貢献度は高いはずである。


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写真1


ついでに、草原賛歌派が支えにしているおかしな理屈も紹介しておく。これは林野庁森林管理局の学者が唱えている説で、「阿蘇の草原がすべて森林に変わると、阿蘇を源にする河川の水量は減る」という。それは森林の遮断蒸発量が2025%で、草原のそれが510%と少ないからだという。その差15%の分だけ降水が浸透して地下水になったり河川に流れ込んだりする量が減るという計算らしい。しかし、降水が蒸発するのは遮断蒸発だけではなく、これが蒸発量に占める割合は全蒸発量の一部である。しかも、遮断蒸発が起こるのは降水時だけで、晴天時の地面からの蒸発量が蒸発量の大部分を占めるから、遮断蒸発量の差だけで河川の水量を論じるのは無理がある。

因みに、熊本気象台によると阿蘇市乙姫の年間降水日数は135.6/年で、平均降水量は2381.6/年である。乾燥地帯にある自然草原では年間蒸発量は降水量を遥かに上回るが(例えば内蒙古自治区では420倍)、実際の蒸発散量は降水量に等しいといわれる。つまり、乾燥地帯にある自然草原では、降雨の殆どは蒸発してしまう。多雨地帯にある阿蘇の人工草原の蒸発散量に関する資料はないが、遮断蒸発量(降雨時のみ)と蒸散量は草原が森林より少なく、地面蒸発量は草原が森林より多い*。水収支式は「降水量=流出量+蒸発散量」で、草原は保水力が小さいので河川への流出量が大きい(森林総合研究所)。つまり、草原の蒸発散では遮断蒸発と蒸散の割合は少なく、地面からの蒸発が大部分を占める。陰のない草原からの地面蒸発量は、森林からのそれより遥かに大きい。また、草原への降水は一気に河川へ流れ込むので、保水力に乏しい草原からは豊かな水が湧いてくることも、水が恒常的に河川に供給されることもない。これらは理屈抜きで誰もが知っていることであり、何よりも実際の調査結果が如実に物語っている。


* 遮断蒸発:降水の大部分は地面に届くが、一部は樹木の幹や葉、草の葉を濡らすだけでそのまま空気中に蒸発する。これを遮断蒸発という。

蒸散:植物の地上部から大気中へ水蒸気が放出される現象。蒸散の大部分は葉の裏側で起こるが、表

側や茎・花・果実にもみられる。蒸散は生物体が能動的に行う水分の調節である。


源流域には諸々の問題が存在し、それらは著者一人では処理できない専門外の分野である。森林学、水門地質学、生物生態学などに加え、土木工学、河川学などで、それに付随する専門分野も数多い。しかし、表流水の現状を具に観察してそれを写真に記録することが主題であるから、怖気づくことはなかった。

調査区域は結果的に広範囲となったが、調査を重ねるうちに自然に決まった。20094月といえば、著者は685か月である。65歳からの著者は、山で遭難して迷惑が掛からぬよう山歩きには必ず付き人を伴うことを原則にしてきた。付き人は家内や子供、あるいは桜が丘病院の若い職員のグル-プ・桜渓流会の会員達であった。また、登攀用具を必要とする踏査では、大学山岳部のOB組織・蘇友会会員の協力を仰いだ。それでも実際には、やむを得ず単独で出かけることもしばしばあった。調査の後半になると、それまで姿を見せなかった猪や鹿が、昼間から出没するようになり相当に気を使った。猪はつがいで動くことが多く、人が近付くと唸り声をあげて逃げて行くが単独行で出遭うとやはり怖い。

調査はさぞかし大変だったでしょうとよくいわれるが、さほどのことはなかった。著者は60歳過ぎて変形性頸椎症を指摘され、整形外科医から「車の運転を含め、首を回すことを一切やらぬように」、と釘を刺されていた。真直ぐ向いて出来るのは、麻雀と歩くことだけである。麻雀はともかく歩くことは身体機能維持に必要で、山歩きは唯一の運動として日常不断に努めていた。従って、普通の山歩きが沢歩きに変わっただけのことである。しかし、645歳ころから両手両足は日常的に「シビレ」をきたし、平衡感覚は万全ではない。つまずき易く、バランスを崩すと身体がひとりでに持ち直してくれることはもはやない。調査中は随分注意して遡行したが、二度も整形外科にお世話になった。最初は滝の登攀中

にハ-ケンが抜けて落下し、右脚内側靭帯損傷で3週間松葉杖を使用。二度目は浮石を踏んでバランスを崩し強かに背部を打撲した。

菊池川源流域といっても、著者が知っていたのは菊池川本流のみである。これは、若いころから何度も兜岩の源頭部まで本流沿いに歩いたことがある。しかし、菊池渓谷の広河原から上流部の本流自体を遡行したことはなかった。従って、昔を知っているといっても本流の水量と水温くらいである。無論、この流域の地形や地理は概ね頭に入っている。あとは国土地理院の地形図を頼りに、目指す沢を遡行する。老人の歩みは昔より4倍も遅くなっており、一本の沢に何回も掛ってしまう。菊池川左岸域と合志川左岸支流の峠川は源頭部が草原でそこには立派な道路があり、何回か歩くと一本の沢を完全遡行できる。しかし、菊池川右岸域の木護川右俣・左俣本流は奥深く、日帰りで源頭部まで遡行し引き返すのは老人には不可能である(藪漕ぎが多く車が入れない・車を帰途用に回しておく道路がない)。従って、この流域の源頭部はほぼ未踏査だが、水が流れているか否かの確認は出来た。