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母のにぎったおにぎり。
食べたのはいつぶりだろうか。

まだ小学生の頃、受験のために通っていた塾に向かう電車の中、そっとかぶりついていたことを今でもよく覚えている。
三角ではない、ちょっとぼてっとした四角とも楕円とも言えないこの形。
ご飯に混ぜてある具材にバリエーションはあるけれど、必ず中心には梅干し。
少し苦手な酸っぱい梅干し。
殺菌効果で腐るのを抑えてくれる効果があると言われたけれど、腐るほど時間をおいて食べるわけでもないのにと思っていた酸味は、今では良いアクセントになっていた。

私にとってこのおにぎりは、学校が終わった後の栄養補給。
これからさらに頭を使うぞという覚悟の味。
そこには周りの視線など気にする余裕はない。

その習慣が身につき、さらに空いた時間でご飯を食べるということが珍しくもない今の仕事でも鍛えられ、いつでもどこでも食べたければ食べることに抵抗はなくなった。

ここにすれ違いがあったことを知ったのはついこの間のこと。
母は私が電車の中でおにぎりを食べていることを知らなかった。
塾について授業が始まる前にさっと食べられるようにと作ったおむすび。
決して不特定多数の人々の前でもぐもぐさせるためのものではなかったのだ。
こうであるはず、そうしてくれているはず、言葉を交わさない暗黙の了解は時にこのような大きな認識の違いを生んでしまうのだ。
だからそう、会話をしよう。

母親になった今、改めて母との関係について考えてみる。
そして父との関係も。
このようにどうしても先ずは"母"と出てきてしまうところが私にとっての母の強さだ。
これはそれぞれの家族の形態が違うように、子供が親に対してどう思っているのかも千差万別。
過ごす時間が長い方と良くも悪くも濃い関係が築かれていくのは当たり前のことで、もう一方との関係がどうなるかは前者の手腕が大きく関わってくる。
我が家の場合は・・・書き始めると事細かく話してしまいそうなのでやめておく。
ついつい言ってしまう。
私の悪い癖。
会話がうまくないからこそ、話し始めると余計なことまで言ってしまう。
人を不快にさせることなく楽しませるとは、なんと難しいことなのだろう。

正直、家族に対して心から感謝ができるようになったのはそう昔のことではないと思う。
何不自由なく生きてこられたことよりも、さらにその先にある欲求を求め、非常なわがままを心に抱いてきた。
それは私の幼さでもあるけれど、その願いを今周りに押し付けるのではなく、次の世代が喜んでくれるようにと役立てるなら、私の甘さも無駄ではない。
少しずつ少しずつ、この世の流れを学んでいるのだ。
命を繋いでいくということ。
私をこの世に生み出した親の人生を見届け、そしてまた、私がこの世に残した命に見守られながら我が人生を終える。
これほど幸せなことはない。

年を重ねた親の姿に、いつか必ず来る別れを感じてしまうけれど、むしろまだ一緒に居られるのはとてもありがたいことなのだ。
しかもこうやってにぎってもらったおにぎりを食べることができるなんて。
鼻の奥がツーンと痛い。
冷めてもなお感じる暖かな愛情を、今は移動の車の中、さらにもう一口頬張った。
もぐもぐと大きく口を動かして、しっかりしっかり噛みしめて。