東京六大学の応援文化について | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

昨日は、「応援席から見た六大学野球」という記事を書いたが、

今日は六大学野球の応援団、そして応援の文化について、もう少し掘り下げて書いてみたい。

 

東京六大学の各校には、応援団が存在し、一般客の応援をリードしているのだが、六大学の各校の応援団は、

「東京六大学応援団連盟」に所属し、六大学の間で様々な形で交流している。

 

六大学の応援団は、それぞれが良きライバルであると同時に、みんな六大学に所属する仲間である、とも言えるわけである。

 

さて、この「東京六大学応援団連盟」は、戦後の1947年に結成された。

戦前から、各校には応援団が存在していたが、東大にだけは無かった。

その東大が、1947年に応援団を組織したのを機に、同年、六大学の応援団が交流するために「東京六大学応援団連盟」が作られた。

 

東京六大学の応援団は、日本の野球の応援に絶大な影響を与えてきた。

というより、日本の野球の応援の形を作った、と言っても良い。

 

まず、戦前の早慶戦で、早稲田が校歌「都の西北」を制定し、それを歌って気勢を上げていたが、慶応には当時は校歌に当たるものが無かった。

 

そこで、慶応は早稲田に負けまいと「若き血」という応援歌を作り、早稲田に対抗すると、慶応野球部は早速その効果もあってか、昭和初期に全盛時代を築いた。

 

すると、早稲田も更にまた慶応に対抗しようと「紺碧の空」という応援歌を作り、打倒慶応の旗印とした。

 

要するに、早稲田と慶応の対抗意識が、それぞれの応援歌を誕生させたわけであるが、応援歌による両校の応援合戦というものが、この時代に早くも生まれたわけであった。

 

これらの校歌や応援歌は、未だに早慶両校で歌い継がれている名曲であるのは言うまでもない。

 

ちなみに、日本に野球が伝来した明治時代初期に、まずは旧制第一高等学校(一高)で野球が大ブームになり、やがては一高は正式に野球部を結成、その後、一高黄金時代というもの築くのだが、この一高の野球部を後押しするために、当時の一高生達は、全校を挙げての応援を行った。

 

つまり、野球部と応援団というのは、最初から切っても切れない関係だったわけである。

これが、日本の野球の大きな特徴であった。

 

初期の頃の野球応援というのは、誠に野蛮なものであり、応援している側が勝つために相手を滅茶苦茶に野次るのは朝飯前で、相手がエラーするようにわざと守備を邪魔しようとしたり、とにかくやりたい放題だったようだ。

 

だが、裏を返せば、それだけ野球というものが、人々を熱狂させる力を持っていた、という事であろう。

 

応援団といえば、1903年に始まった早慶戦は、一度、応援団同士のトラブルが原因で、何と19年もの長きにわたって中止された事が有ったのである。

 

1903年に第1回早慶戦が行われ、大成功に終わった後、早慶両校は、毎年それぞれの学校のグラウンドを訪れて試合を行う、という取り決めをした。

 

早慶戦の人気が高まり、応援も年々過熱していた1906年、遂に騒動は起こった。

この年の第一戦、早稲田のグラウンド・戸塚で試合が行われ、慶応が勝利を収めた。

 

試合後、勝利に興奮に酔った慶応側の応援団は、三田へ帰る途中、たまたま慶応のテニス部とバッタリ会い、そこでテニス部も勝った事を知ると、思わず万歳を三唱した。

その場所というのが、たまたま早稲田の創立者である大隈重信の家の前だったというのである。

 

これを早稲田に対する挑発、と受け取った早稲田側はカチンと来た。

「おのれ慶応、今に見ておれ」

というわけである。

 

そして、慶応のグラウンド・三田での第2戦で、今度は早稲田が勝った。

すると、応援に来ていた早稲田側の応援団は大喜びし、

わざわざ慶応の創立者・福沢諭吉の家の前まで行って、高らかに万歳三唱をした。

おまけに、延々と「早稲田、万歳」と言いながら、三田を行進し続けたというのである。

 

これは、完全に早稲田による慶応への仕返しであった。

当然、慶応もこの早稲田の仕打ちには激怒した。

 

こうして、早慶両校の間に不穏な空気が流れる中、第3戦は一体どうなってしまうのかと思われたが、応援団同士によるトラブルを恐れて、早慶の大学当局が話し合い、遂に第3戦の中止が決まった。

 

当初、これは一時的な措置と思われたが、両大学の間の感情がこじれ、何とこの後、早慶戦は19年間も行われない事になってしまったわけであった。

 

このように、応援団がヒートアップし、大事件を起こしてしまう事もあったが、

1925年に早慶戦が19年振りに復活、東大の加入により東京六大学野球がスタートした後は、二度とそのような悲劇を起こさないよう、節度ある応援をしよう、という気持ちが、各校の間に有ったようである。

 

その後も、応援にまつわる様々なトラブルは有ったのだが、熱くなりすぎて野球の試合をぶち壊さないようにしよう、という意識は常に有ったように思われる。

そう考えれば、早慶戦中止騒動も無駄ではなかったわけだ。

 

日本の野球が成熟して行くと同時に、初期の野蛮な応援から、応援文化もまた、徐々に成熟されて行ったと、私は思っている。

 

戦後、六大学の各校にブラスバンドが揃うと、応援歌にも様々なレパートリーが生まれ、応援そのものが洗練されて行った。

早稲田の「コンバットマーチ」、慶応の「ダッシュ慶応」、法政の「チャンス法政」などという応援歌が生まれ、それらの応援歌は高校野球の応援のスタンダードとなって行った。

 

ちなみに、チアリーダーによる応援をいち早く取り入れたのは慶応である。

1960年秋の早慶戦で、初めてチアリーダーが登場し、満場をあっと言わせたそうである。

その時、早稲田側からは、悔し紛れに「チンドン屋!」という野次が飛んだそうであるが、「流石は慶応だ」と感心する声も多かったのだとか。

やがて、1970年代には各校にチアリーダーが勢揃いした。

 

応援団には、長い伝統に裏打ちされた厳しい上下関係があり、そして、六大学の試合の華やかな舞台に立つために、日々厳しい練習を乗り越えてきているのだが、

時代とともに応援にも新機軸を取り入れたりと、常に日本の野球の応援文化をリードする存在であり続けてきた。

そして、常に応援席の一般客を楽しませてくれている。

 

六大学野球の主役は野球部であるが、応援団もまた、もう一方の主役であると思う。

これからも、六大学野球を盛り上げるために頑張って欲しいと、六大学の応援が大好きな私からも、彼らにエールを送らせて頂きたい。