HOSANNA BLOG -2ページ目

HOSANNA BLOG

姫路のアイリッシュパブ、スコティッシュパブ「ホサンナ」です!
姫路で1番たくさんおいしい生ビールが飲める店☆常時10種以上!
ウエディングパーティーや貸切も大歓迎です♪

第三十九話

  

トラックの仕事をしながらオープンに向けての準備をしていきました。
オープンの日を忘れられない日にする為に、そして阪神大震災の事を忘れないように、ちょうど一年後 の1996年1月17日のオープンに決めました。
設計士の武井さんや工事店の皆さんに無理を言って、大晦日も元日も店の工事をして頂き、何とかギリギリ間に合いました。

アルバイトも教会で一緒にボランティア活動をしてくれていた大学生を誘って二人決まりました。
趣味の一つである熱帯魚の水槽を買って来て、大袈裟なろ過装置も付けて綺麗な海水魚を水槽に沢山入れて入り口に綺麗なディスプレイも出来ました。
家具屋の成井さんに勧められて作ったパンフレットも完成しました。

 

友人に頼んでハンフリーボガード風の私の似顔絵を描いてもらい看板や名刺に入れて完成しました。


お酒も酒屋さんから次々と揃い、バック棚がお酒で埋まり始めました。
生ビールのサーバーも設置され、当時姫路で他では扱っていなかったキリンのハートランドビールを置きました。
ようやくSimon's Bar Hosannaが完成しました。
たった11坪と小さいながらも初めての自分の店。
予算も少なかったので完成した時にはまだまだPUBと言えるものではありませんでしたが、やっと夢の階段を登り始めた気がしました。

第三十八話

 

エルデベルグ平井という酒屋の社長に、家具屋さんと金物屋さんを紹介していただき、毎晩のように飲みながら朝まで構想を練っていました。
この家具屋さんは成井さんと言ってイギリスが大好きな洒落たおじさんで、金物屋の松尾さん、酒屋の平井さんという3人組でいつも悪巧み?をしている悪ガキのような3人でした。
ちょっと家具などの打ち合わせに行くと必ず2人も集まってきて朝まで話が終わらないのです。
話はほぼ脱線しっぱなしで、歴史から美術や車、食べ物、酒、あらゆる方向へ話が次々に広がり、肝心の打ち合わせは決まらずに朝を迎えることがほとんどでした。
私も、負けてなるものかと朝まで付き合い続けました。
その3人組の決まり文句が、「俺たちは山ほど色んな人の店を造ってきた、それで、山ほど潰してきた。」でした。
ちょっと不安になりながらもその経験を信じて色々とアドバイスをいただきました。

カウンターの椅子は肌触りが大切だと言って、皮革屋さんを紹介してくださり、皮を選んで椅子のシートを作ったり、その余った皮でメニューの台紙を作ったり、ドアに覗き窓を作ってそこのガラスに成井さんが天使の絵を描いてくださったり、本当に沢山こだわりのつまった店が出来ました。
本当にこの3人組には大変お世話になりました。
この3人組も酒屋の平井さんを残して成井氏、松尾氏は先に旅立ってしまわれました。
亡くなられるまで本当にhosannaを愛し続けてくださり感謝しています。
今の立町のhosannaの角に天使の絵が描いてありますが、これは成井氏が最初の店の覗き窓のガラスに描いてくださったものを写して描いた成井氏の形見です。
いつも成井さんと松尾さんが見守ってくださっている気がします。

第三十七話
 
ほぼ仕事とボランティア活動に毎日励んでいたおかげで、震災の一年後までに目標の500万円が貯まりました。
それで、国民金融公庫へ行って500万円を借りる段取りをして、いよいよ開業の準備に入りました。
バーテンダー時代の常連さんで、姫路の繁華街にビルを持っている方がいらっしゃって、「福ちゃんが店出すときは俺に言いよ、うちのビルのテナントを貸してあげるから」と言っていただいていたので連絡してみました。
すると、すぐにビルのテナントを案内してくださりました。
スナックがほとんどのビルの二階だったのですが、当時は人通りも多く、良い場所だったので、そこを貸してもらうことにしました。
それで、修行時代にお世話になっていた酒屋さんに行って相談してみると、「今は郊外の時代だから、そんな繁華街の中でするのは辞めとき」と言われました。
確かにその当時、郊外に駐車場が広い飲食店が沢山出来てよく流行っていました。
でも、ウイスキーが大好きな私は、郊外店では車でしか来れないからハードリカーを売れないと思い、駅から歩いていける場所ですることに決めました。
そして、修行時代の常連さんで「福もっちゃんが店を出す時は俺がタダで設計をしちゃるから俺に言いよ」と言ってくれていたウイスキー好きの武井さんという方に連絡すると、快く引き受けてくださいました。
そして本当にタダで設計をしてくださいました。

第三十六話

 

夏になり、流石に餅つきも合わないので、次はそうめん隊に名前を変えて色んな仮設住宅を回りました。
1年ほど経つと仮設住宅も大きな場所にまとまって来て、組織化されて来ました。

私たちの援助も必要性が薄まり、回る周期も二週間に一回になり、月に一回になり2年ほど経った時に仮設住宅回りは解散しました。
その当時の学生達は今でも時々店に来てくれます。
それからはしばらく手薄になっていた養護施設の子供達の元へ戻って活動を続けていきました。
夏休みに河原へ鮎つかみに連れて行ったり、バーベキューをしたり、竹を切ってそうめん流しをしたり、毎年色んなイベントをして、普通の子供達が親にしてもらう様な楽しみを味わってもらいました。
資金は姫路カトリック教会から出していただけたので本当に有り難かったです。
店を持ってからも毎年クリスマスに養護施設の子供達を招待して店で映画を見せて、美味しいクリスマスディナーをプレゼントしています。
毎年社員たちがボランティアで協力してくれるので有難いです。

子供達との付き合いも20年以上になり、行き始めた当時の子供達は就職して、家庭を持って頑張っています。
店にも時々顔を出してくれます。
去年、施設出身のある兄弟が店に訪ねて来てくれてくれました。
そして、「俺たち兄弟がちゃんと良い会社に就職できたのはジャイアン(子供達にそう呼ばれていました)たちのおかげなんや。小学校や中学校の時に、夏休みとかの宿題を終わらせてなかったらジャイアン達がやってくれていた遊びに行ったらいけないと施設の先生達に言われていたから、毎年宿題を早く終わらせてたから、勉強も遅れずについていけたし、頑張れたんや。だから俺ら兄弟はほんまに感謝してるんや。」と言ってくれて涙が出そうになりました。
元気をもらっていたのは私たちの方でしたが、子供達の役に立っていたことが実感できて本当に嬉しかったです。

 

第三十五話
 
この餅つき隊には教会の信者さんや学生達が本当に沢山参加してくれました。
外国人もいて、ものすごいパワーで餅をつき続けてくれて、毎回30臼くらいつきました。
その中に、複雑な家庭の事情もあり、やんちゃでケンカばかりしていて、いつも手や顔に包帯やバンドエイドが絶えない中学生の男の子が居ました。
教会で仲良くしていたのでその子を誘ったのですが、行くのを嫌がっていました。
でも無理やり連れて行ってみると、人の役に立って感謝されるのが嬉しかったみたいで、毎回参加してくれる様になりました。
だんだんケンカもしなくなり、顔つきもどんどん明るく穏やかになっていきました。
人間、何かやりがいを持てる物が出来ると良い方向へ向かう事を実感しました。
特に若い間は迷い苦しみ、エネルギーをどこへぶつけたら良いのかわからないのです。
やりたい事ややるべき事が見つかると人は悪いことなんてしている暇が無くなるのです。
子供達は望んで悪い事をしているんじゃない。
夢が持てないから迷いエネルギーの使い方を間違えるのです。
そんな事を実感した活動でした。

その炊き出しなどに参加してくれていた中に、今のホサンナのビルの持ち主の奥様がいらっしゃって、ビルを売って欲しいとお願いした時に強力なサポーターになっていただけたのですが、それはまた別のお話し。