南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

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 四.転換点としての大津皇子の変

 
(大津皇子の墓ー鳥谷口古墳) 

六七二年に近江朝を斥け、壬申の乱に勝利し、天武は畿内大和に倭国を再興し、大和朝廷をここに開朝したに関わらず、その三〇年後の七〇一年、大和朝廷は大宝を建元し、天智が呼称した日本国と改める。正史編纂もまた倭国を再興した天武が計画したが、成立を見たのは日本国の天智を顕彰する正史であった。そこでは天武紀が大書されるも、倭国再興の誉れは壬申の乱とされ、天武は「賊」扱いされ、持統の父・天智皇統が正統とされている。それゆえ歴代皇統の位牌を祀る京都の泉涌寺には、天武系七代の天皇位牌はない。(天武陵↓)

天武は天智皇統の近江朝を斥け大和朝廷を立ち上げた。その大和朝廷の皇統への変質なしに、倭国から日本国への転換はありえない。その契機はどこにあったのか。六八六年天武が崩御するや持統は称制を引き、六九〇年に即位するも、六九六年に孫の文武に禅譲する
ところで、『日本書紀』は幕引きされ転換記事を記さない。しかし、唐の正史・『旧唐書』日本国伝は、
(←天智陵

「倭国は自らその国名を嫌い、日本と改称した」と日本国の言い分を記す一方、「日本はもと小国、倭国の地を併合した」と記す。この『旧唐書』の後者の知見が確かなら、事件は天武崩御の六八六年から七〇一年の間にあったはずだ。簒奪は隠してこそ誉れとなるなら、六八六年の天武崩御に連続する大津皇子の変の末尾が「この年、蛇と犬がつるめり、しばらくして共に死す」とあるのは大いに注目されよう。蛇は出雲王朝の、犬は「倭は呉の太伯の後」とされた九州王朝の嚆矢となった金印国家・委奴(イヌ)国のトーテムであることに気づくなら、その意味は天武体制である九州・出雲連合をここに粛清したことを、これは寓意するものだ。この大津皇子の処刑と前後して持統と藤原不比等の政治の表舞台への登場が始まる。ここに持統から文武への道筋がつけられ、その十年後、高市を除き、持統からの文武への禅譲をうたい『日本書紀』は閉じる。その文武は天武の孫だが、大和朝廷がこのとき尊重したのは持統を介して文武に流れた天智皇統の血統であった。ここに一度は六七〇年に天智が日本国を標榜するも挫折した夢を、天智と鎌足の子である持統と不比等がその血統を戴き、七〇一年に日本国を成就したわけだ。

  今、飛鳥にその日本国誕生の契機を成した大津皇子

の変の痕跡は、何一つないかに見える。しかし、正史がその倭国から日本国への転換を、持統の称制と即位の裏に隠したように、飛鳥の大津皇子の変の粛清現場は、大化改新の粛清現場に姿を変え、これ見よがしに公開されている。飛鳥寺裏の入鹿の首塚
(写真)が大津皇子の処刑場なら、その飛鳥寺と向きあった甘橿丘の裾野から蘇我邸宅跡が発見を見たが、それは大津皇子の物部氏の邸宅で、そこから山辺皇女は髪を振り乱し、裸足で走り出て大津に殉じたのだ。そして飛鳥名物の石舞台古墳は通説は蘇我馬子の古墳とするが、真実は壬申の乱で、東国の物部氏を糾合し、近江朝に苦杯を舐めさせた物部連雄君の古墳が墓暴きされ、無惨な姿を晒すが、それが自然崩落にあったように観光客は見ている。
 

この大津皇子の素性を隠すために、『日本紀』を改竄し、現在の『日本書紀』は成立するが、系図一巻は紛失していた。その大津の母・大田皇女の父を『日本書紀』は天智とする。しかし、大田と大津に加え、その姉・大伯皇女はこぞって大を誇っており、出雲王朝源流の大洲(おおくに)の大氏の流れにあったことを証言する。ここに指示表出による実証史学の危うさがあり、私が幻想表出による幻想史学を提唱する理由がある。その大氏は八岐大蛇(やまたのおろち)退治により、また大国主命も国譲りにより共に出雲を追われ、その末裔は共に東の畿内大和を新天地とした。三輪山周辺の唐古遺跡や纏向遺跡はこの大氏一族に加え、九州の倭(やまと)を追われた出雲系皇統の饒速日命(ニギハヤヒ)により拓かれたから、その地を大倭(おおやまと)と呼ぶのだ。

 

その大氏と結ばれた物部氏に、蘇我氏に九州を追われた物部守屋の子・物部連雄君があり、彼は壬申の乱で東国の物部氏を組織した大功によって、戦後、物部氏の氏上となる。その子が大田皇女で天武の第一皇后であったことを『日本書紀』は隠した。つまり天武体制とは天武・物部体制で、その申し子・大津の次期皇位は誰一人疑う人はなく、姉の大伯も喜んで伊勢斎宮に下った。しかし、雄君に次ぐ、予期せぬ大田皇后の急死に伴い、持統の第二皇后の誕生で歯車は狂い、天武崩御に及んで持統は称制を引き、大津皇子の首は吹っ飛び、天武体制は崩壊する。


 

室伏志畔の大阪講演会

 

演題 大化改新の構造

 

日時 2017年9月9日13時

 

場所 天王寺の吉田ビル2F

 

 阿倍野ステーションビルから谷町線沿いに150m、饅頭屋の隣り

 

連絡先8053046373 吉田安男まで

 


 
 

三.白村江の戦の真実       室伏志畔


 



 

それは六六三年の白村江の倭国敗戦によって公然化する。敗戦後、唐の倭国占領機関である筑紫都督府が大宰府にそそり立ち、倭国権力は解体させられるが、九州の朝倉宮にあった倭国皇統の斉明・天智政権は賑わう。ここに倭国残存勢力は白村江戦で皇統が唐に通じていたことを知り、四年後の六六七年に朝倉宮を襲い、斉明を亡き者とした。

今夏、私はその朝倉宮址(写真)を再訪し、斉明の埋葬伝承をもつ恵蘇八幡宮の背後にある御陵山に登った。この朝倉宮の変は天智称制の年でもあるが、『日本書紀』はそれを白村江戦前の百済滅亡の六六一年に造作

し、天智が百済王統を引き継ぐことを暗示し、倭国を売った皇統の卑劣な側面を隠し、九州から近江への天智の逃亡を大和飛鳥からの遷都とし、近江朝の開朝とした。
その朝倉宮址に近接し朝闇(あさくら)神社があり、朝闇がチョウアンと読め、長安寺址があることは、如何に皇統が長安(唐)に傾倒していたかを窺わせる。それは戦時内閣の閣僚であった岸信介の戦後の対米追従への変身に重なり、安倍内閣はこの流れにある。

 

倭国のNO.2にすぎなかった倭国皇統は、白村江の戦いで倭国を裏切り、倭国王統に代わる日本国皇統の樹立を、唐の手を借り謀った。この策は当たり戦後、朝倉宮は賑わったが、六六七年に襲われ暗転する。朝倉宮の変である。この天智逃亡を隠すために『日本書紀』はそれを百済滅亡の翌六六一年に造作し、天智は列島で百済復興の先頭に立ったとした。

この天智皇統の危機を、唐は新羅との軋轢が増し、吐蕃の反乱に慌て救えなかったばかりか、六七二年、列島及び半島から唐兵を引き上げた。

この唐軍撤退の一ヶ月を待たずに近江朝打倒の兵を
(松浦俊和著『古代近江の原風景』より)→
挙げたのが大海人皇子の天武であった。この意味は、天武は倭国王統で、壬申の乱は天智・天武兄弟の皇位争いでなく、倭国と日本国の新旧国家の興亡戦で、結果が天武の勝利に帰し、大和飛鳥に宮を開いたことは、畿内大和での九州王朝・倭国の再興を意味した。

 

伊勢神宮の謎は、この倭国の天武が計画し、天智を父とする持統が孫・文武を日本国皇統として立ち上げたねじれに、「なにごとのおはしますか」が判らぬ謎が生まれた。それは天皇史以外を見失った日本人のつけ以外ではないのだ。




 

室伏志畔の大阪講演会

 

演題 大化改新の構造

 

日時 201799日13時

 

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 二.倭国から日本国への王朝交代


(二中歴の九州年号と日本国年号の繋ぎ目)
二中歴

 

 

本質を疎外し、権威を逆手にとった国家権力に従順な列島住民が日本人の誕生で、それ以前、倭人と呼ばれ歴史的に区別されることすら怪しくなった。その倭国から日本国への転換に触れた『新唐書』は、日本人は「矜大にして、実をもって答えず」と記すが、その転化はいつ始まったのか。日本国の誕生を韓半島の『三国史記』は六七〇年代の天智朝に置く。しかし、このとき列島盟主は倭国で、それに代わる日本国
の誕生は七〇一年であることは動かない。その倭国年
九州年号
号である九州年号が七〇〇年で途絶し、七〇一年に日本国が大宝を建元(はじめて国家が年号を建てること)したことにそれは明らかである。

しかし、通説は五一七年の継体にはじまり、大化六年の七〇〇年を最後する三〇数種に及ぶ連続する倭国の九州年号を、偽年号と排し、皇統を唯一無二とする大和朝廷一元史観をもって、倭国を「日本国のかつての亦の名」としてきた。このため、我々は倭国と日本国の熾烈な興亡を見る眼を一切、失った。しかし、歴史は敵対する矛盾の興亡史以外ではなかった。


 

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演題 大化改新の構造

 

日時 201799日13時

 

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 一.列島王権の興亡と住民移動




 

博多から車で市街を抜け西下すると、眺望は一気に開け、博多湾が眩しく光る伊勢の二見ヶ浦の海岸線に出る。一昔前、私はそこで車を降りたのは、目前の玄界灘の荒波に屹立する夫婦岩に眼を止めたことにある。それは三重県の伊勢の二見ヶ浦の今にも毀れそうな夫婦岩が辛うじてあるのとちがい、注連縄が張られてあるとはいえ、海水浴客は屈託なく、その夫婦岩に登り楽しんでいるのが好ましかったことによる。大和中心の畿内の風物は、伊勢の二見ヶ浦一つをとっても、その原風景を九州にもっている。大和の三輪山でさえその例外でない。この風物地名の空間移動は列島

王権の興亡に伴う地名を伴った住民移動にある。この空間移動をともなう歴史の重層性を記紀史観は大和一元説をもって千二百年にわたり洗脳してきた。こうして日本人とは列島各地で生起した大和朝廷前史としての、前天皇史を見る眼をもたない者の総称となり、今も公教育は子女をその犠牲としている。

戦後、この流れは戦後史学が「神話から歴史へ」と前天皇史研究を放棄するお墨付きを与えたことで、古代史学は天皇史以前を掘削することを忘れ、皇統史に皇統外の史実を取り込む体たらくにある。その典型的な徒花が卑弥呼を大和に取り込む邪馬台国畿内説で、畿内説学者は四千人を越えるまでに全国に瀰漫し、地方の遺跡・遺物を皇統史に取り込んでいる。この大和中心史観からの解放なくして、歴史の奪回ははかれない。その一つに伊勢神宮問題がある。

 

なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼれる

 

と西行11181190が記紀成立から五百年近くして伊勢神宮に詣でたとき、「なにごとのおはしますか」と歌ったのはやはり注目されてよい。それから八百年近く経った現在の我々の知見がそれを越えているかは怪しい。公教育はそれを皇祖神・天照大神を祀り、それを日神の化身とする。そう皇室が日神信仰を誇るなら、遠く皇軍は日神に帰依する蝦夷征伐に乗りだし、近くは日の丸を掲げる幕軍に錦の御旗を持ち出すほかなかったのは何故であろう。その上で、受験知にある貴方に、天照大神は伊勢神宮以外の何処に祀られてあるかお聞きしたいものだ。たいがいは絶句し、知ったかぶりは全国に散在する天照神社や天照御魂神社を挙げる、しかし、それら神社に祀られてあるのは、神武に先駆けヤマトに降臨した饒速日命(ニギハヤヒ)で、決して天照大神ではないのだ。天照大神は神明神社にあって、それは記紀に合わせ創られた新しい神社なのだ。この無知とずれに気づかぬ頭蓋に天皇制はそそり立ってきた。

たうとさに 皆押しあひぬ 御遷宮   芭蕉

 

ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅心 

   うたた童(わらわ)にかへるかな  吉川英治 

 

こう芭蕉や国民作家の吉川英治が句や歌を成し、昨年、伊勢参拝に押しかけた三〇〇万人近いの日本人は、伊勢神宮の正体を知ることなく、「たうとさ」と「心のふるさと」をそこに感じた。この本質に疎外されたままに、伊勢神宮を有り難がる日本人を批判するのはたやすく見えるが難しい。なぜなら、この「たうとさ」と「心のふるさと」を皇室に直結させた手品に天皇制は基盤を置いているからだ。その大衆基盤を血を流すことなく皇室から切り離す知見に我々もある以上、伊勢神宮の本源に参内し、天皇制の解体も難しいが、左翼は神々アレルギーにあって正面から向き合う勇気をもたない。


 

幻想史学への招待状

 

 

 室伏志畔を代表とする「幻想史学の会」では2ヵ月ごとに、「奪回・古代研究」を年6回、発行しています。現在、先着、新会員30名に『薬師寺の向こう側』(1600円)を謹呈しています。

  年会費 3000

   郵便振替 普通    00920 7 82729 

  名義 幻想史学の会

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  電話 0721 63 7672  室伏志畔

 


 
 

 伊勢神宮と日本人        室伏志畔

                                  (写真はremmikkiのブログより)

 
              

 皇室の伊勢神宮参拝が繁茂である。それは昨年の式
年遷宮もあって、先日は、浩宮家の伊勢参拝が報じられたが、それは昨年の秋篠宮家に続くものである。そこに浩宮後の皇位継承を巡る両家の思惑が絡むが、伊勢参拝は皇室を筆頭に、歴代内閣を巻き込み、国民を動員するに至っている。それは明治に至るまで、持統天皇
645702を最初の最後として、皇室の伊勢参拝がなかったことを思うなら、これは近代日本に始まった異変である。しかし、識者はこぞって「皇大神宮に皇室が参拝されて当然」と、したり顔に現状の政治的動向に投棄している。 

この皇室の伊勢参拝の動きは明治維新の隠された秘事に由来する。それは一握りの維新トップの胸中深くしまわれていたが、九〇年代に至り鹿島曻が『三人の裏切られた天皇』で一石を投じ、知る人ぞ知る。長州の吉田松陰と水戸の藤田東湖の契りが、維新を南朝革命(北朝の天皇を南朝の天皇に代える)としたように、木戸孝允(桂小五郎)が「すでに我々に南朝の玉の用意がある」と西郷隆盛に打ちあけたことで、犬猿の仲にあった薩長が同盟に至り、明治維新が実現する。その薩長の掌中の玉は、長州の奇兵隊の一である力士隊にあった大室寅之祐で、南朝落胤であった。それを宮中の天皇と差し代えたと

ころに、幕末、佐幕派を押さえ尊皇派の薩長が権力を握れた秘密がある。これは秘中の秘として明治末年まで隠されたが、降って湧いた皇統正閏論争で、明治天皇が「南朝をもって正統とする」と聖断を下したことで始めて公然化した。しかし、その聖断を日本人の多くが「皇室は北朝のはずだが」と首をひねったのは、維新前夜の天皇のすり替えを隠し近代日本が胎動したことによる。

ここに明治天皇の皇后が皇太后(前天皇の皇后)と呼ばれ、写真を撮らせなかった理由があり、力士隊隊長であった伊藤博文の破格の出世も生まれた。ここに
至り、記紀が皇大神宮としながら、伊勢神宮を千年以上にわたり放擲してきた北朝の慣例を破り、南朝の天皇による伊勢神宮への参拝が明治天皇を嚆矢として公然化する理由があった。この皇統の北朝から南朝への切り替えなくして、薩長が政界を牛耳り、かつての朝敵、隼人系の小泉純一郎が首相となり、蝦夷出自の安倍晋三が内閣を組織する現在に至る百鬼夜行はありえなかった。拙論は、記紀で皇大神宮とされながら、千数百年ないがしろにされ、明治以後、皇大神宮としてそそり立つように復活した伊勢神宮と日本人の関係にまつわる物語である。

 



 

民間史学の大展開③       室伏 志畔


 

民間史学の到達点・南船北馬説


 この「磐井の乱とは何か」の九州シンポジウムを契機に飯岡由起雄が、福永晋三と私を誘い、「古代史最前線」を発刊し、私も年刊誌「越境としての古代」の編集が始まった。それは「大和から疑う」史論が、大和を九州の倭ヤマトに奪回した以上、可能となったことを意味する。このシンポジウムから数カ月して古田が「磐井の乱はなかった」と発言し、さらに退行して行くのを我々は見た。

 これらと前後して私は、九州王朝説をベースに、その限界を「古田枠」を越え展開した三人の先達、平野雅曠・兼川晋・大芝英雄の論の総合化に乗りだし、「季報唯物論研究」に「南船北馬の向こう側」の連載に入り、列島古代史の新たな定義に乗り出した。

  結論から言うなら、列島古代史は東アジア民族移動史の一繭で、列島社会は長江下流の南船系倭人の渡来により拓かれた集団稲作社会の上に、韓半島経由の北馬系勢力が乗っかる二重構造にあり、その基本矛盾は海彼の二王権の南船北馬の興亡の結果、発祥した。その列島王権は出雲王朝-九州王朝-近畿王朝と三変し、天皇制の成立は、自村江の九州王朝・倭国敗戦後の壬申の乱に勝利した天武崩御後の、六八六年の大津皇子の変のクーデターにより大和朝廷を変質させ、持統に流れた百済系の天智皇統の文武を戴き日本国を成立させたことによる。それを正史・『日本書紀』が日本国に先在した列島王権の成果をことごとくわがものにするグラフト(接ぎ木)国家説をもって、その継ぎ目を隠蔽した皇統一元史観をそそり立たせたことによる。この歴史造作が成功した秘密は、皇統の舞台である豊前の倭ヤマトを畿内大和に変換し、皇統の前身を隠すことに成功したことにある。

 
 その継ぎ目隠しは、聖徳太子問題一つをとっても、飛鳥仏教が畿内飛鳥への九州仏教と吉備仏教の取り込み造作に気づかないことによって、畿内に架空の飛鳥仏教の功労者が皇室の刻印を打って、九州や吉備の仏教功労者の偉業を独り占めにして架空の聖徳太子が正史に出現を見たのだ。飛鳥寺が元興寺、法隆寺が斑鳩寺という別名を持つのは、飛鳥寺の本尊が豊前の椿市廃寺址にあった元興寺仏の移坐なら、法隆寺は播磨の斑鳩寺の移築・移坐により建立されたことによる。つまり聖徳太子は、九州の多利恵北征や播磨の上官法王を事跡を中心に、椿市廃寺にあった元興寺の善徳の功績をも取り込み、つまり列島の仏教功労者の精華を掠め、皇室の出自を持つ人物として創造を見たミックス像以外ではないのだ。

 

 それでは畿内の天皇陵とは何か。それは六八六年の天武崩御後の大津皇子の変で、畿内大和を拓いた出雲系の大和豪族・大氏を粛清した持統や藤原不比等は、十八氏の豪族に墓記提出命令を出した。それに連続し、八世紀を前後して、粛清した大氏を中心とする豪族の地に、九州の倭ヤマトから移住した住民に、倭ヤマト地名に合わせ、好字二字による新地名を大和地名を創出させた。それは墓記が抜き取った畿内豪族の大古墳に、数百年かけ天皇陵を比定していったものにすぎない。それでは初代神武から四十代持続までの天皇陵で確実なのは天武・持統合葬陵のみにすぎないので、しかも天武は皇統一元史観の必要上、皇統に取り込まれた倭王で、山科の天智陵は、持統の陰に隠された高市天皇の寿陵を天智陵に改修したものでしかない。このことは日本国は天智皇統を戴くため、京都の皇室の菩提寺・泉涌寺の天皇位牌から、天武系七代の天皇は排除されていることは知っておいた方がよい。

 

 列島古代史は、畿内大和中心の皇統一元史観を「大和から疑い」、皇統一元史を出雲王朝や九州王朝へ開き、海彼の東アジア民族移動史に開くことなくして、本来の姿の回復はありえないことを、21世紀の民間史学は、記紀史観を突き抜け、学界を尻目に大展開してきたのである。しかしそれを知る人はまこと少ない。それは、我々がそうであったように、我々の子女が大和中心の皇統一元の記紀史観による洗脳が公教育として罷り通るため、その皇統枠を越えて歴史を考えられないことによるが、それを越えることなくして真実の歴史の奪回はないのだ。

 

 

 

      室伏・幻想史学への招待状



 

 室伏志畔を代表とする「幻想史学の会」では2ヵ月ごとに、「奪回・古代研究」を年6回、発行しています。現在、先着、新会員30名に『薬師寺の向こう側』(1600円)を謹呈しています。

 

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民間史学の大展開②                 室伏 志畔 

 

 豊前王朝説と九州シンポジウム


  

 平野雅曠や兼川晋に先立ち大芝英雄は「市民の古代」12集に、「九州の『難波津』の発見」(I990)を発表した。これは『古事記』の安閑記に「牛を難波の大隅島と姫島の松原とに放って、……」とする一条から大芝は、今は埋め立てで消失した企救半島横の大隅島(軽易)と国東半島横の姫島の間に難波津を見、それを豊前の行橋市に比定した。そこは長狭川、祓川、今川の三川が流れ込み、三津をなす『古事記』の難波津の形状にふさわしく、その地の大坂山の向こう側に大芝は皇統の発祥地・原大和を幻視した。こ刮目すべき論から大芝は大展開に入り、一連の論を『大和朝廷の前身 豊前王朝』(同時代社)(写真右)として2004年に発刊する。これらは古田枠を越えての民間史学の90年代の大展開であった。

 その古田が90年代に「偽書疑惑」の策動に陥る中、九州王朝説に蹴られたこれら民間研究者が「古田枠」を越えて列島王権の淵源を東アジアに、また大和中心の皇統一元主義に対し、皇統の発祥・展開地を豊前の原大和に引き戻す瞠目すべき研究に乗り出せたのは、学界の教授と弟子の師弟関係を越える自由が民間史学にあったことを語る。その上で画期の「磐井の乱」の九州シンポジウムがこれらの成果に併走し、私は、記紀の読みを指示表出からする実証史学に対し、その幻想表出からする幻想史学を提唱し、古代寺址が筑紫に14寺があるのはともかく、豊前に11寺あるのに驚き、その址を豊前に訪ねる「向こう側」シリーズの執筆にあった。その豊前の廃寺の一つに四天王寺式伽藍様式の椿市廃寺址があり、その古瓦は畿内の飛鳥寺と同様式にあった。       

 

    

(椿市廃寺址の願光寺)    (三諸山の香春岳)

 そこに一堂からなる願光寺が今、侘びしく立つが、その山号が叡野山、地番は福丸で、その頭音を結ぶと叡福となる。それは畿内の聖徳太子のお墓のある叡福寺に重なる。しかも、その願光寺が蘇我馬子建立の元興寺と音を同じくする。その元興寺を別名にもつ畿内の飛鳥寺は本尊を金堂に入れようとして、てんやわんやした話を伝える。本尊が入らない金堂の設計などありえないから、これは畿内の飛鳥寺への移坐に伴う事件で、本来の元興寺はこの椿市廃寺址にあったと幻視するほかなかった。

 加えて、豊前地名の多くが畿内地名に重なる問題がある。豊前の大坂山の大坂は明治以前の表記で、椿市は現在もある大和地名として知られ、また勾金マガリカネといった特異地名も重なる。東京は明治まで江戸であったがその江戸表記が残るのは江戸川くらいで、豊前で失われたのは江戸と同じヤマト名ではないのか。それは大和表記が大和→大倭→倭と遡行でき、倭国が九州王朝なら、その淵源に倭ヤマトの国が九州のこの地にあって不思議がないのは、そこが倭国だからである。そんな疑念を持って帰阪したところ、雨で煙り見えなかった香春岳のかつての勇姿を撮った写真が届けられた。それは想いもしない三諸山で、なぜ三輸出が三諸山と別表記されるについての多年の疑問を解いた。なんのことはない畿内の大和地名は豊前の倭ヤマト地名のコピーでしかなかったのだ。こうして私は『法隆寺の向こう側』で「倭国の別顔」を書き、大芝英雄の豊前王朝説と歩調を合わすことになった。

 

  州シンポジウム「磐井の乱とは何か」

 

 そんな折、「九州古代史の会」主催で2002年に九州シンポジウム「『磐井の乱』とは何か」が、九州古代史の会の灰塚照明が音頭を取り、兼川音を軸に大芝と私を招き聞かれた。それは通説が、磐井の乱を大和朝廷に対する九州豪族・磐井の反乱とし、それを古田が九州王朝の倭王・磐井に対する大和朝廷の反乱とかつて逆転させた。しかし、それは通説と同じ畿内対九州の構図であったが、兼川は筑紫王朝対豊前王朝の九州王朝の内部対立に転換させる画期のシンポジウムとなった。私は「磐井の乱を九州域内の内部対立として取り上げたことが、どんな意味を持っていたかと云うことを、必ずや振り返ることがあるだろう」と言祝いだ。それは古田九州王朝説が記紀を首肯し神武畿内東征論に堕し、「もうひとつの九州王朝」である豊前の倭ヤマト朝廷を敵に売り渡したことへの九州王朝説内部からの批判の集大成を意味していた。そのパラダイムの大転換に百名近い聴衆が詰めかけたことに、我々の志気は大いに上がった。

 


 

      「奪回・古代研究」への招待状



室伏志畔を代表とする「幻想史学の会」では2ヵ月ごとに、「奪回・古代研究」を年6回、発行しています。現在、先着、新会員
30名に『薬師寺の向こう側』(1600円)を謹呈しています。

 

 年会費 3000

  郵便振替 普通 00920 7 82729   名義 幻想史学の会

  連絡先 586 0073

 河内長野市大矢船西町3-1-201

  電話 0721 63 7672



 

民間史学の大展開①               室伏 志畔

 

 海彼の王権論の民間展開


 

(平野雅曠の若き自我像)

 1990年代末に日本国が「日の丸」を国旗に、「君が代」を国歌に回収するや、考古学で前期旧石器握造事件がスクープされ、文献史学では井真成墓誌問題で、井氏を半島系の葛井氏や井上氏に比定し、藤井寺市へのとんでもない里帰り運動が惹起した。それ戦後史学の体制化に伴う願廃を象徴する。そうした状況で市民の歴史運動はそれに抗しつつ刮目すべき展開に入る。その前提は70年代の日本での大和朝廷に先在する九州王朝説の提起であり、80年代に始まった神庭荒神谷遺跡からの358本の八千矛の発見、90年代の加茂岩倉遺跡からの銅鐸39個の神宝の発見にあった。今ひとつは中国における河姆渡遺跡に始まり、長江を遡行するように良渚遺跡、三星堆遺跡と進展した長江文明の発見は、ほかならぬ原アジアの稲作文明の発見であったことによる。

日本人のルーツの一つとして、柳田国男が南方からの榔子の実の『海上の道』を問題にし、それを列島の母型制の問題として吉本隆明は90年代に深めたことは記憶に新しい。しかし、列島稲作王権のルーツは黒潮でもその分流の対馬海流で、それに乗り長江下流の呉越の稲作民が、北九州、出雲、越(高志)に集団稲作を伝え、弥生国家を胎動させた。皇統一元史観から戦後史学はこの海彼の王権を無視し、九州王朝説は皇統枠を越えたが一国枠を出ない王権論を取った。しかし、漢籍の多くは「倭は呉の太伯の後」と九州王朝のもう一つの主体を伝えてきた。この呉越はその興亡で名高いが、秦の中国統一過程で滅び、亡国の民として中国内外に四散するが、呉越同舟して黒潮分流に乗り列島や韓半島南部に渡来した。呉は九州で、越は丹後半島を前後する出雲と越で降り棲み分けた。それは前四世紀を前後する縄文稲作の伝播で、その一世紀後、三世紀に弥生稲作として爆発的な列島で盛行を見る。日本語が呉音なのはこの渡来によるので、私は船を多用する呉越の民を南船系倭人としてきた。

 列島における弥生稲作の空前の繁栄を見ていた韓半島の北馬系勢力は、壱岐・対馬を橋頭堡にこの南船系稲作国家への侵攻を始めた。それを記紀神話はスサノオのヤマタノオロチ退治、ニギハヤヒの天神降臨、ニニギの天孫降臨として伝えてきた。戦後史学も倭国をニニギの天孫降臨に始めた九州王朝説も、その意味で北馬系史観に立つ。

 

 海彼の王権論―平野雅曠と兼川晋  

 皇統一元史観から王朝交替論に拓く雨期をもった九州王朝説は、戦後史学に飽き足らない歴史愛好家に支持され、その機関誌「市民の古代」に寄稿する多くの民間史家を生み出した。その幾たりかが90年代に入ると自立し、九州王朝説を踏まえつつ、その問題点にも目を向け、「古田枠」を越え自説を展開し始めた。

その一人に熊本の平野雅曠(写真ー若き自画像)があった。平野は古田の倭国・天孫王朝説の古層に、漢籍が指摘する「倭は呉の太伯の後」があることに注目し、『倭国のふるさとー火の国山門』を1996年に上梓した。そこで平野は『新撰姓氏録』から「呉の太伯の後」を誇る松野連を見つけ、その系図を国会図書館から引き出した。それによれば、火の国山門への呉王夫差の子・公子忌の来島にそれは始まり、その流れに後漢の光武帝から金印を賜った王を宇閉とし、卑弥呼や倭の五王に連続する瞠目すべき南船系倭王系図であることが判明した。

 この南船系倭王に対し、「九州古代史の会」の兼川晋は、九州王朝説が倭王を皇統に先在するとするも、壱岐・対馬の天国アマクニ以上に王統を韓半島に遡行させない一国枠を越え、北馬系王権に架橋する探索に入った。それを2009年に『百済の王統と目本の古代』(不知火書房)(写真右)として発刊した。これは倭王統がある時から百済王統と縁戚関係に入ったとし、韓国で60年代に問題となった百済二系統説をさらに深耕するもので、これが現在、三刷に入ったことは、民間史学がもはや侮れないものであることを逆証する。


 

 室伏・幻想史学への招待状

 

室伏志畔を代表とする「幻想史学の会」では2ヵ月ごとに、「奪回・古代研究」を年6回、発行しています。現在、先着、新会員30名に『薬師寺の向こう側』(1600円)を謹呈しています。

 

 年会費 3000

  郵便振替 普通 00920782729 幻想史学の会

  連絡先 586 0073 河内長野市大矢船西町3-1-201

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  九州王朝説『偽書疑惑』の波紋3     室伏志畔


『東日流外三郡誌』と安倍政権

 

 

 『東日流外三郡誌』は安倍・安東・秋田氏の文書である。その所蔵者である和田喜八郎の葬式に、安倍晋三(写真右)の母堂が出席している。その父・安倍晋太郎(写真左)は「昭和の妖怪」岸信介の長女を嫁とし安倍晋三が生まれ、それがやすやすと総理大臣にのし上がれる構造に、この国の奥深い歴史の秘密が絡んでいる。それは記紀史観と密通した邪馬台国畿内説論者者4000名を藩屏とする体制化した学界により支えられる。この体制化現象はジャーナリズム界に連勤し、偽書説は大手を振って罷り通るに至った90年代の堕落に、21世紀を前後して起こった二つの学界の不祥事が、それを証言しよう。


 まず考古学学界は毎日新開のスクープ(上記写真)により、前期旧石器捏造が明らかになり、学界の権威は地に墜ちた。さらに歴史学界がスクーブを免れた事件に、中国で発見を見た井真成墓誌問題がある。学者はこぞって井氏を中国一字姓とし、半島系の葛井氏や井上氏に比定したため、にわかに大阪の藤井寺市で町興しの里帰り運動が惹起した。しかし、私に言わせれば、この町興し狂想曲は皇統に先住した九州王朝の倭王隠し以外てはなかった。『姓氏辞典』にあたれば、和姓として井氏はあり、井一宇でイイ、正確にはヰヰで、その派生系として井伊氏に始まり、伊井、飯井、井居、飯の各氏の全国分布を見る。

 その本貫は熊本県産山村で、私が訪ねたとき村長も助役も井氏で、63戸286人の井氏がお住まいであった。この和姓の井氏を見向きもせず、中国一宇姓とした学者に朝日新聞社を初めとするマスコミが協賛し、葛井氏や井上氏の住んだ藤井寺市への里帰りに大阪府は1200万円を出し官民挙げて井真成のお酒や饅頭を売り出しだのは、旧石器握造事件の「……原人騒動」による町興しは倣うものであった。呆れた私は仲問を誘い『和姓に井真成を奪回せよ』(同時代社)を発刊したが、朝日新聞社が後援するその墓誌を展示する博物館での販売は拒否された。 

 井(wi)は本来は倭(wi)で、その表記を憚らざるを得ない時代をもったのは、それが倭国の倭で、その倭を通説は小さくねじけたとする卑宇に貶めたが、漢字学者の藤堂明保や白川静は稲穂がたわわに穏った姿を表す佳宇とする。この倭が大和をヤマトと読む淵源

にあることは、倭人とは原大和の倭ヤマトに集団稲作を持ち込んだ稲作民の意で、その淵源は漢籍に載る「倭は呉の大伯の後」に行き着く。それはほかでもない倭王の姓で、朝敵・熊襲の王に重なる。蝦夷が正統皇統を主張するのに対し、「偽書疑惑]がかけられたと同様に、倭王の井氏を、通説は中国一字姓とし、半島系の葛井氏や井上氏をもって、皇統に先住した倭王隠しを20匪紀を前後して展開し、その後裔を朝敵・熊襲としているのだ。

 この原大和の倭ヤマトにニギハヤヒの天神降臨に続き神武東征があった。つまり倭ヤマトで王朝は三変し、最後の勝利者が皇統であった。この原大和での三王朝変遷隠しが、記紀が畿内大和を造作しなければならなかった所以である。その神武を架空、読く欠史八代も虚構とし、戦後史学は十代崇神に皇統史を始めたが、それらは畿内大和に痕跡がないが、九州の倭ヤマトの豊前に戻すと、彼らの歴史はリアルに立ち上がる。そのとき、初代神武紀が四年、十代崇神紀が5年に具体的に始まることは意味深長である。この間の天神降臨と欠史八代が神武東征に先立つ天神降臨に始まるニギハヤヒ旧皇読史であった。

 そのことは神武とは、ニギハヤヒの威を借りた崇神で、ニギハヤヒの偉業をバクって崇神東征が神武東征とされ、皇統史の冒頭に作為されたのである。この意味は崇神がニギハヤヒ旧皇続から皇位を簒奪し、崇紳新皇統が立ちトかっとことを草昧するが、記紀は皇統一元の建て前上、それを隠すために二代緩靖から九代開化までを矢史としてはめ込み、神武の大逆を隠した。この新皇統によって倭ヤマトを追われた長髄彦は二ギハヤヒ旧皇統で、その末裔の蝦夷が正統皇統を主張する根拠はあったわけだ。

 現在の安倍内閣の強権政治の源泉は、安倍晋三がニギハヤヒ皇統の化身を自負し、今上天皇を偽天皇とするところに、閣議決定をもって一切を進める強権政治が生まれたのは、閣議を御前会議の決定とするところにあろう。『東日流外三郡誌』が秋田藩主の命で成立したように、安倍内閣の番頭格の菅官房長官が秋山県出自であることは、安倍一族の家老を自負しているわけだ。


九州王朝説『偽書疑惑』の波紋2           室伏志畔



「偽書疑惑」と九州王朝説の反動化





 

 九州王朝説の提唱から20年たった90年代は、少数とは会員内論客はすでに自立し、古田武彦の業績を認めた上で、その問題点が論議されつつあった。その批判的継承をもって九州王朝説のさらなる進展と打開が模索され始めていた。しかし、古田の会再編はこれに水を差し、異端者を『東日流外三郡誌』での造反者と同じ穴のむじなとし、会から追放をはかった。それは九州王朔説を古田枠に萎縮させる反動化の始まりであった。

 それを象徴するのは、九州王朝説の主舞台の九州の「多元の会九州支部」の追放であった。その「九州支部」は九州王朝説の金字塔となった「君が代」の舞台を博多湾岸だと古田に教えた会の追放で、古田のご乱心を語る。この追放によって九州の新情報が途絶えた古田は史論展開に急ブレーキがかかり、九州王朝説は急激に陰ってゆく。

 『東日流外三郡誌』問題は、明治期に柳田国男がその養子先の柳田家に関わる十三湖伝承に重なる。一時期、柳田国男が深く関わった問題で、決して戦後の偽書といった浅い問題ではなかった。偽書疑惑は古田の論ではなく、古田が組んだ和田喜八郎に焦点が向けられたのは、かつて皇居の近衛兵として勤務し、中野学校にいたと調べればすぐわかる問題で和田は経歴詐称し、戦後、和田旧家の天井裏から文書が落ちてきたとするさらなる証言が、その家を昭和十五年に新築したとする当の大工よって否定され、和田喜八郎頼りの古田は、一人反論に立つも、会員離れは進行し、現在、若い人で九州王朝説を知る人は少ない。

 偽書問題は、この国では記紀史観と衝突する限り発生を余儀なくされる問題で、それは大和中心の皇統一元史を庇護するために、政治的に仕掛けられる問題としてある。江戸時代まで珍重された『先代旧事本紀』は聖徳太子の手になるとした一行のため、それから一世紀した『日本書紀』からの引用が明らかになるや、偽書の汚名を現在も受け、記紀と大違いの扱いにある。ましてや、90年代を前後して会員800名、そのシンパがその10倍に及んだ九州王朝説は、体制側にとって脅威であった。そこに生じた「偽書疑惑」問題は、毀誉褒貶激しい『東日流外三郡誌』を古田が称揚したのを、好機と見て作為されたのである。



 その意味で「偽書疑惑」問題は、安本美典(写真を仕掛け人とするが、その主意は九州王朝潰しにあったので、バックの影は奥深い。  

その四千余巻からなる再写文書が和田喜八郎一人の手に成るとする偽書派の言い分を鵜呑みするわけにはいかない。問題は安倍・安東氏が正統皇統を主張するところに核心があるので、それは1300年かけて創られた皇統一元の記紀史観の恩恵にあずかる権力層にとって見逃すわけにはいかず、それが皇統に先在する九州王朝説とタイアップすることに、体制側が危機感を覚えたことに「偽書疑惑」問題の本質がある。