一関市有形文化財  旧沼田家武家住宅

幕末に一関藩家老職を勤めた沼田家の旧住宅です。創建は18世紀の初頭から中頃と推定され、約300年の歴史を有していて付近を流れる磐井川の度重なる水害にも倒壊することなく今日に到りました。

平成15年3月に全面解体による修復工事を終えたこの住宅は、家老職就任以前の創建当初に近い姿を復原したものです。


藩政時代の暮らし

住宅は表側となる 道路により近い場所に台所、奥に座敷を置くなど、通常の武家住宅とは上下の関係が異なった珍しい間取りだそうです。

此れは座敷の日当たりと関係があると思われます。また、土間も比較的広い所など農民住宅の様式を残しています。一方、正面に格式に応じた三箇所の出入り口を持ち、裏側に備えた「部屋」の居室としての独立性、上座敷に書院飾りを施すなど武家住宅としての機能も併せ持っています。農民住宅を素地としながらも次第に武家住宅として体裁を整えていく過程を示す、素朴ながらも古式な遺構として貴重です。



フリー百科より

一関藩藩史 [編集 ]

万治 三年(1660)に仙台藩主伊達綱宗の叔父伊達兵部大輔宗勝(伊達政宗十男)が三万石の分知を受けてこの地に陣屋を置いたことに始まる。宗勝は綱宗の隠居により二歳で藩主となった綱村 の後見役として仙台藩政を担っていたが、寛文 十一年(1671年 )の伊達騒動 により失脚した。これにより一関藩は改易され、その領地は仙台藩 に返還された。

その後、天和 二年(1682)に陸奥岩沼より田村因幡守建顕が移り、再び大名領を形成した。田村家は、仙台藩二代藩伊達忠宗 がその子宗良に母・愛姫の実家である田村氏を再興させたのに始まる。宗良は、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となり陸奥岩沼にて三万石の大名に列した。建顕は宗良の子であり、外様ながら奥詰として将軍徳川綱吉 の側近として仕えた。明治元年(1868)の戊辰戦争では、仙台藩に従い奥羽列藩同盟に参加。後に仙台藩とともに明治政府へ降伏した。戊辰戦争後の明治二年(1869)、三千石の削減の上で藩主の実弟田村宗顕に家督を相続を許されたが、同年四月に藩籍奉還した。崇顕は一関藩知事に任じられたものの、明治四年の廃藩置県によって一関藩は消滅した。

また、松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野長矩を預かり、江戸上屋敷(藩邸)内で切腹させたことでも知られる。藩邸跡の日比谷通りの新橋 四丁目交差点脇の歩道に、切腹した場所を示す「浅野内匠頭終焉之地」の石碑がある。田村家菩提寺である祥雲寺には浅野長矩の供養塔がある。




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