サブタイトル:石工として最も難しかったであろう職人技の紹介          写真/文責:児玉博文

1、    はじめに

名勝 渉成(ショウセイ)園【通称:枳殻(キコク)邸】について説明します。

ここは東本願寺の飛び地(境内地)で、第13代宣如上人が 三代将軍 徳川家光から土地を

寄進された事に始まります。後に宣如上人が退隠した時の隠居所とし、名前を「渉成園」と名づけたのです。   
                  場所:現在の京都市下京区烏丸通七条上る 

今回は、「渉成園内」に作られている「高石垣」について紹介しますので「高石垣」の

全体写真を見て下さい。 

写真-1 高石垣遠景 

 

2,    渉成園の高石垣 (タカイシガキ)

渉成園は過去に幾度かの火災に遭い被災しています。

主な被災は安政5(1858)と元治元年(1864)の「蛤御門の変」の大火で園内の諸殿が灰燼に帰しています。

従って、現在の渉成園内の建物は 慶応元年(1865)から明治初年にかけて復興・再建されたものです。 

                            (一部大宮御所車寄移築)

但し、建物以外の多くの池泉・石組・築山等は渉成園の創始の頃と殆ど変わっていないと

云われています・・・・・

前記の二回の大火で被災した建物の礎石や散在していた野石、石臼、灯篭、瓦等を集めて

構築された石垣が 今回紹介する「高石垣」でメインテーマとしています。

次に 「高石垣」の詳細を紹介します。

写真-2  詳細  石臼が判ります

写真-3  詳細   石灯篭の基壇部

写真-4  詳細   (同上 竿との接合ダダボ用凹)

写真-5   (切石・敷石・自然石 千差万別何でもあり!!)

 

3,  最も難しい仕事

どんな仕事でも完成までには施工順序や手順というものが必要です。

例えば、最初に「使用目的」があり、その完成に向かって準備を整えます。

それらにある程度の目星が付いてからはじめて着工し,やがて完成する。

 

今回紹介する「高石垣」の築造にあたって「使用目的」は明確です。

しかし、準備として予め加工を完了した加工石、或いは野面積みの場合の野石を

集積するといった材料集めの段階では 今までとは全く勝手が違っています。

具体的には 誰の指示でどんな石工職人達が仕事を行なったのか判りませんが、

(資料は残されていませんし、完成予想図もありません)

ただし、闇雲に集積した石材を積上げたのではありません。 

          それは不可能だからなのです。

 

仮にそんな事をすれば工事中に倒壊したり、或いは石垣の腹が膨れたり、重大な災害を

引き起こす事が容易に予想されるからなのです。

例え高石垣の築造工事が無事に完成したとしても その後、現在までの約150年間の

風雪や地震災害に耐えている事実は この石垣築造技術が計算され尽くした

経験智(値)に基づいて施工が成された事を証明しているのです。

今まで職人達が営々と積上げて着た経験値や実績を以てしても、この様なランダムな

石積みの工事は想像以上の難工事だったと想像します。

 

今までだったら 施主の要望を聞き、石の加工の程度によって「野面積み」

「打込み接(ハ)ぎ」「切り込み接(ハ)ぎ」或いは特殊工法を選択する事も出来るし、

積み方に拘りがあるとすれば「布積み」「乱積み」「巻石垣」見た目から選択すれば

「算木積み」「谷積み」「亀甲積み」と云った、其々過去に実績のある工法を採用すれば

「簡単で安全で短工期、尚且つ安価」な施工が可能である事は 間違いがありません。

それを、わざわざ無作為に石垣を積む事の難しさは 経験を積んだ石工職人でないと

判らないと思います。

 

この作業は 石工達にとって「難行苦行」だったと思わざるをえません。

素人からみると「衝撃的意匠」だったとしても、其れだけの評価ですが

この「高石垣」は正に玄人好みの「一世一代の労作」だったと思います。

 

4、   さいごに

京都駅から程近い「西本願寺と豊国神社」を真東に結ぶ直線上の中央部に、

まるで割って入る様に「東本願寺と渉成園」が同軸線上に位置しています。

ご存知の如く、西本願寺は太閤秀吉の肝煎りで造られていますし、東本願寺は

徳川家康の肝煎りで造られた経緯がある為、幕末動乱期には西本願寺は勤皇派 

東本願寺は佐幕派と明確に分かれていました。

 

今回紹介した「渉成園」には 第14代将軍・家茂(イエモチ) 第15代将軍・慶喜公その他、

尾張藩主・徳川慶勝や福井藩主・松平慶永(春嶽・シュンガク)も訪れています。

また、明治期には明治天皇・ロシア皇太子ニコライ(後のニコライ二世)

昭和期には吉田茂やヘレン・ケラー等の著名人の来訪も記録されています。

 

渉成園は京都御所や二条城を除けば 洛中で随一の規模を誇っています。

多くの文人墨客が訪れた彼の地に「お庭拝見」と洒落てみては如何でしょうか? 

筆者お勧めの「隠れ家」的存在です。    

                                                                                                                                            

写真-6          写真-7 正門奥 突当り部にあるのが高石垣  

  

                                                                                                                                                        【完】

                                     ~ 備後、鞆の浦にみる職人気質 ~ 

1、はじめに

広島県福山市の南端に位置する通称「鞆の浦」とは「鞆に位置する入江」をさす言葉です。ここは「汐待の港」として古より栄えた港町で江戸時代には「朝鮮通信使」の立ち寄った町でもあり「北前船の航路」にも位置した事もあって非常に栄えていました。

今回はこの「鞆の浦」に栄えた大店に見る施主の主人と大工職人との間にあったであろう交流をエピソードとともに紹介します。

 

2、かって栄えた老舗を訪ねて

ここ鞆の浦には 長く営業を続けているお店がありますが その中でも今回は「澤村舩具店」の店舗に使われている「塩木」を紹介します。 まずはその「店構え」です。

写真-1 澤村舩具店の現在の「店構え」   

写真-2 看板                                                                                                              

江戸時代からここ鞆の浦の大商人達は それぞれがそれぞれの「分を守って」生活していました。海に張り付いたような狭い敷地に発展していったここ「鞆の浦」では限られた空地に多くの人々が生活していましたから、昔に建てられた長屋風の建物を上手に使いこなしてきたのです。例えばこの「澤村舩具店」のお店は元々二軒だったものが一軒のお店として使われているのです。

時代とともに 商売も繁盛するときもあればそうでないときもあります。景気が良くなってお店が手狭になるとお隣の家を買い足して店を広げ、逆の場合はその自宅や店を手放す。

そんな事が代々連綿と続けられて今日に至っているのです。

ただし、単にそれだけなら何も特別の事でもなく広く全国的に行われていた事でが ここ鞆の浦では 事情が少し異なっているのです。

(但し、これについては別の原稿で一章設けます)

江戸時代から続く家々が今でも現役で使われている事に まずは驚きです。

 

そんな町屋の痕跡がここ「鞆の浦」には数多く残っているのです。

そんな古くから続くお店には 代々の店主が持ち続けた「拘り」があるのです。

ここ鞆の浦の大店の店主にとっての拘り、それが「塩木」なのです。

 

3、そもそも「塩木(シオギ)」とは?

 字のごとく「木を塩水(→この場合は海水をさす)に1年以上漬けた物」を言い

ます。木を海水に漬けるとはどの様な事を意味するのでしょうか?

まるで判じ物かクイズのようですですが 先ずは写真を見ていただきましょう。

       「一目瞭然、百聞は一見に如かず」ですから・・・・

写真-3 お店の真ん中に鎮座する一抱えもあろうかという梁です。この木が「塩木」

なのです。これだけでは 理解できないでしょうから次の写真を見てください。

写真-4 この写真は お店の外部からこの梁の端部を写した写真です。

意味が分からないと思いますので下の写真の説明をします。

写真の上部は外部の小庇です。そしてこの庇の下が外壁に突き出た大梁の端部です。

色が白っぽい事に注目してください。同時に大梁の端部(小口部)と小庇の端部が

小さい閂(カンヌキ)状の金物で辛うじて繋がっている事も併せて確認してください。

 

「塩木(シオギ)」の説明を続けます。ここ鞆の浦の商人達は 自分が建てる建物は絶対に朽ちては困るのです(当然のことながら・・・・)その為には腐れや虫食い(シロアリ等)に対する対策にはお金を惜しまなかったのです。

その昔、自分が自分のお金で家を新築する場合、その1年以上前から木材を切り出し、乾燥させていました。一般的にはそれが常識だったのです。

処が鞆の浦の大商人達はそれに加えて「塩木加工」を施したのです。

砂浜に穴を掘らせてそこに材木を埋めて1年以上放置します。

海水の干満を経て砂浜に埋められた木材には 常に海水が飽和・浸水した状態になります。その後、掘り出して乾燥させた後に加工するのです。

ここ鞆の浦の人達は 竣工祝いに来てくれた人達にこの「塩木」を見てもらう事が

正に「ハレ」だったのです。

また、竣工祝いに訪れた町の人々はこの「塩木」に感嘆したり、意見を述べあったり、中には批判めいた事を言う人も居られた事でしょう。

このような事は 全国的にみても非常に珍しい事だと思います。

 

5,施主と職人

考えてもみてください。日本の木造大工職人達は昔も今も「道具は全て自分持ち」

つまり、自分の道具を使って材木を加工するのですから 塩水に浸かった材木を加工する事は大変なリスクであり、出来ればやりたくなかったと思います。

なぜなら、道具はすぐに使えなくなります。“アッ!”と云う間に鉄製の道具類は

錆てしまうでしょう。今と違って「使い捨ての道具」等は無い時代、そもそもそんな

発想など何処にもなかった時代に 大工達にとっては命の次に大切な財産でもある

大工道具が錆びついてしまうのですから、本心は「こんな仕事はやりたくない」

そう思う気持ちは 誰でも同じだと思います。

そんな気持ちを察する施主。尚且つ、それに応えようと道具を手にする職人達は

どんな気持ちだったのでしょうか?   この旦那のためなら・・・・ 

あるいは 大工の意地? いずれにしても多くの道具類を犠牲にする事に値する

以上の施主との関係は 相当に深いものだったに違いないと思います。

 

こんな仕事や施主に巡り合う職人は 幸せだったのではないでしょうか?

いずれにしても、鞆の浦での普請は大変な散財だった事が容易に想像できます。

其れに応えた職人達、現代の建築業界に身を置く一人の建築屋にとっては 何とも羨ましい仕事を見る事ができた「鞆の浦」探訪でした。

 

6、さいごに

上記 写真-4で紹介した小庇の取り合い部分のあの金物の意味についての説明が残っていました。これには訳があったのです。

の事は 澤村舩具店の現店主より直接その訳をお聞きしましたので 簡単に説明して筆を置かせていただきます。下の写真をご覧ください。

写真-5 少しアングルを引いた写真です。

昔から、ここ鞆の浦には大店が軒を連ね大変に栄えた港町でした。

その為、盗難を恐れた店主達は 夜間に賊が(二階に忍び込む事を恐れ、賊が足を掛けると簡単に回転する小庇を設置したのです。賊がこの小庇に足を掛けると簡単に小庇が回転(落ちて)して賊を二階に上げることができない仕組み。こうする事で盗賊を退散させる、

そんな防犯上の知恵がこのような簡易の仕組みを作り上げたのです。

その為に 敢えて華奢な小庇に作ってあるとは・・・・    何とも凄い話です。

沢村舩具店の店主から直接お聞きしたこぼれ話でした。              (完)

                             

 

 

 

 

1,はじめに

今回は 古代から続く形態が名詞になった「地元に愛され大切にされてきた史跡」を

紹介します。

取り上げる史跡は 東日本から1箇所、中部日本から1箇所 西日本から1箇所の合計3箇所をピックアップしてみました。    

これらは 何れもその形態からネイミングされたものです。事実その場所に立つと

古(イニシエ)人が 呼び習わしてきたその名前に全く違和感を持つ事無く、「成る程!」と

自然と納得してしまうのですから不思議です。

 

2, マイマイズ井戸について

  大昔から、武蔵野台地に数多く掘られていた井戸の一つの形態です。

この説明だけでは 理解できないでしょうから 先ずは写真を見てください。

 写真-1  これは、本物の井戸です。

地盤面から水を汲むためにぐるぐると螺旋状に設けられた小路を通って地下に降りて行くと一番深い処に水をたたえた井戸があります。

(地中に見える井戸は更に垂直に掘られている)      地上から見下ろした写真 

写真-2 現在でも不浄を嫌い、神聖な処として地元では 今も大切に守られています。

 

                                                                               2010年5月12日撮影:児玉博文

 

「マイマイズ」とは 関東では「カタツムリ(蝸牛)」を表します。

この井戸と、そこに至る螺旋状の小路を真上から見下ろした状景が「カタツムリ」の殻の渦巻きと同じだと思いませんか?戦後暫く、武蔵野にはこの様な形式の井戸が各地に残っていました。同様の形式を持つ井戸は東京都の多摩地域や狭山(現在の埼玉県西部)・両毛地域(現在の群馬県と栃木県)、少し離れた伊豆諸島にも見られたと云われています。「マイマイズ井戸」の「まいまいず」は 「武蔵野の枕詞」として平安時代には既に広く知られていました。

他にも「ほりかねの井戸」とも呼ばれています。因みに「堀兼井(ホリカネノイ)とも書かれ、読みは「ホリガタイ」と読ませている地域も有りました。

場所:東京都羽村市五ノ神一丁目一番地 五ノ神社境内 鎌倉時代(東京都指定史跡)

因みに、羽村市には江戸時代に行われた一大事業「玉川上水」の集水口があり、ここで多摩川本流から集水された清水が遠く江戸の城下まで引かれています。現在では、この堰と取水口まわりや水路の両脇の土手に数え切れないほどの桜が植えられ見事な桜の帯やトンネルになっています。春先には地元は勿論のこと、都内からも花見客が押し寄せる「花見のメッカ」となっています。

 

3, ギリギリ山古墳について

  ここで紹介する古墳は 四世紀中~後半に築造された「前方後円墳」です。

場所:岡山県岡山市北区尾上 国指定史跡 正式には「尾上車山古墳」と呼ばれています。

地元では古くから「ギリギリ山古墳」と呼ばれて 子供達の遊び場となっていました。

この古墳の位置は 古代吉備国の中心に位置する「吉備の中山 注-1」と呼ばれる丘陵の東南にあり、古代の大首長墓とされてきました。

では「ギリギリ山」のギリギリとはどんな意味があるのでしょうか? 上記しましたが

「吉備の中山丘陵の外れ」に位置する事から「ギリギリに外れた処」等と解説されることもあります。

写真-3 「尾上車山古墳」前方後円墳 前方部より後円墳を望む

後円墳が三段に重ねられている事が判る。但し、後円墳の各段は螺旋状に繋がっており、

前方部から後円墳の段部分を歩くと、三周で頂上部に登る事ができる。

 (後円墳の右側に見えるスロープは後世、最短距離で頂上部に登る際に付けられたもの)

                                                                                2017年1月28日撮影:児玉博文

この後円墳部分を仮に真上から眺める事ができたなら、「つむじ」に似ていると思います。西日本の方言には特に「つむじ」の事を「ギリ」と呼んでいますから「ギリギリ山」とは

「つむじ」の形状を現すのではないかと考えています。但し、阿波(徳島県の一部)では、つむじの事を 「まいまい」と言う処があります。

「尾上車山古墳」について話を進めます。尾上は明らかに地名ですが問題は「車山」です。

一般に「車」は車輪のイメージから「丸」を表す事が多く、この場合も 後円墳の丸を

表す言葉として「車」+「山=墳墓」で「車山」と表しているのではないかと 私は考えています。

 

4, 丸を表す言葉「車」と「車田」について

 我国には 幾つか「丸い田圃」が古(イニシエ)より現代まで残っています。

代表的な車田(くるまだ)と呼ばれる丸い平面を持った田圃を紹介します。

有名なものとしては 下記の3つが特に有名です。

①   岐阜県高山市松之木町  

②   新潟県佐渡市北鵜島(キタウシマ)  

③   岡山県加賀郡吉備中央町豊野 (地元ではゆりわ田と呼んでいる)

何れも 由緒正しい古(イニシエ)より続く田圃です。

ここでは飛騨高山「飛騨の里」に松之木町の車田を復元したものを紹介します。

場所:岐阜県高山市上岡本町 1-590 飛騨民俗村「飛騨の里」

写真-4

伊勢神宮に献上する神饌米を作る田と云われ、車輪の形のように同心円に苗を植えている。

                                                                                2011年6月12日 撮影:児玉博文

5,さいごに

 古代から現代に至るまで 連綿と継承されてきた史跡や習慣或いはシキタリが 今、この瞬間にも消え去ろうとしています。しかも大量に・・・・。

安直な「ミニ開発」や「軽薄な思いつきの計画」によって 実に多くの遺跡や史跡が無造作に消えて行ったのです。これらが一度途絶えると再生は到底不可能なのです。

こんな 何でもないような物も 我々日本人が後世に伝え残さなければならない「物、或いは心」なのでは無いでしょうか?

それこそが後世の人達にとっての「文化」なのですから・・・・。        【完】

                                                    写真・文責:児玉博文

                                                                                2017年6月9日書き下ろし

 

注-1:「吉備の中山」とは 古代吉備国の中心地に位置する 丘陵地を表し、

   旧備前国と旧備中国の国境線はこの吉備の中山を貫いて引かれている。

   また、北西の山裾には 旧備中国一ノ宮である吉備津神社が鎮座し、

   同じく北東の山裾には 旧備前国一ノ宮である吉備津彦神社が鎮座する。

      両社の直線距離は 僅かに1.2km程の近さであり、律令制時代の我国の

      他国の一ノ宮との間隔(距離)としては異常に近く、他には見られない特徴

     である。