樋口了一インタビュー vol.3.2
こんばんは。宣伝マンKです。
いよいよ明日、樋口了一ニューアルバム「了~はじまりの風~」が発売となります。
明日は、ニッポン放送のラジオ番組「ごごばん」に出演いたします。
この番組は、樋口さんの「手紙」が発売された時にいち早くフルコーラスでOAして頂いた、上柳昌彦さんの番組です。
久しぶりの再会となります。どんなお話になるのか?
是非、ラジオが聞ける環境の方は、ニッポン放送「ごごばん」(13:00~OA)をお聞きくださいませ!
さて、昨日はデビュー前からのお話でしたが、今回はデビュー後のお話となります。
■当時にしても今にしても、年齢的には遅い「29歳の新人」としてデビューしたわけですが、、、
29歳だったんですよ。とにかくデビューした時は一生懸命でしたね。
デビューが遅かったとはいえ「この曲が駄目だったら終わる」というような思いやあせりはなく、とにかく曲を作り続けてましたね。だから頭の中には10曲ぐらいの曲があって、ずーっと曲を作りながらキャンペーンやプロモーションを行っているという感じでしたね。
■「売れる」とか「伝わる」とか、デビューした事によって周囲から「何枚売れた」とか「オリコン何位」だどか聞こえると思うわけですけど。そういったものは気にせず、それでも「いい曲を作る」という思考だったのでしょうか?
いやあ、決してそうではないですね。僕はね当時サンプル盤(発売前にラジオ局などに配るもの)を6000枚作ったんですよ。(笑)レコード店に出荷する初回盤よりも、サンプルの方が明らかに多かったんですね。
未だに覚えてますけど、僕に最初にサインをして下さいって来た人は、そのサンプル盤だったんですよ。どこかの誰かが中古CD屋さんに出したCDで。その人はそれを買ったんでしょうね(笑)
■中古CD屋さんが全盛の時ならではのエピソードですね。(笑)
最初にサインしたのが見本盤だったわけですから。たぶん会社的には凄く力を入れてくれたんでしょうね。
その頃は、本当にCMやテレビのタイアップが決まるとCDの売上に直結するようなタイアップ至上主義な時代で、そうやって繰り返しテレビで流れるとすぐに100万枚というような時代で。。。
僕は「売れる」ということと「多くの人に届く」ということは一緒で、もちろん「売れなきゃいけない」というプレッシャーも常にありました。とはいっても、僕のCDが「売れている人」みたいに、突然魔法がかかったかのように売れるという事がないわけで。
だからデビューしてリリースを重ねる度に、一見僕は(売上を)気にしていないようで「これが売れなければ音楽を続けていけない」という恐怖も常にありましたよ。あの当時のアーティスト達はみんなそうだった。
メガヒットといわれるものと、そうでないものの落差が本当に激しい時代でしょ。今みたいに全体的に落ち込んでる時代じゃなくて。。。
一方で、昨日まで一緒に話してたような人が、ある日突然ボーンと売れるような時代で。なおさら妙なジレンマとか、嫉妬心とか、、、正直、僕も含めみんな持っていたと思う。
■そんな気持ちの反動とかは、曲を作るというようなことで相殺されていた?
そうですね。その悔しさというか、、、次へ次へと。ただ東芝時代はうまくいかなかったですね。
そうやって3枚アルバムを作ったんですけど、その3枚目を作り終えたとき「本当に自分がやりたいことが出来た」という思いで「これが売れなかったらこのまま終わるな」って思いましたね。(1997年「GOGH」発売時)
■そのアルバム「GOGH」が発売され、その後、メジャーとの契約が切れます。シンガーソングライターとして、何か限界を感じましたか?
やっぱり、人間みんなどこか弱いもので、そうやって結果が出ないと何かのせいにしたがるもので。
僕はその当時の、大きなプロダクションや大金を賭けるような「システム」の中に居ることが、自分にとっては合わないと。当時の「システム」の中で売り出されるような魅力を持ち合わせていなかったのだろうし。自分自身が商品として、そういったお金をかけるシステムにそぐわないんだと思ったんですよね。
だから、曲が悪いんじゃなくて、(当時の)そういう「システムが悪いんだ」って。システムに馴染まないせいだって。。。
じゃあどうしようかって。そうしたら、3枚目のアルバムが全然売れなかったんだけど、なぜか業界内で評判が良くて。太田さんが(今のプロダクションの社長。当時はまだ所属していない)、僕のアルバムのアレンジをやってくれた森俊之を売り込むつもりで、あるアイドルグループのスタッフにそのアルバムを渡したんですよね。「森がアレンジする音楽」を聞いて欲しくて。
そうしたら、そのグループのスタッフの方が「森君のアレンジも良いけど、そもそもこの元々の曲を書いている人は誰だ?」っていう話になって。
「よかったらアルバムの1曲目みたいな曲(GOGH)を彼らに書いてみてくれないか」っていう話を僕に持ってきてくれたんですよね。
なんだか、(その当時の)音楽業界のヒットのシステムでやっていけないという“解答”に“じゃあ楽曲で勝負してみなよ”って、誰かが言ってくれたような気がしてね。
もうね、これはね、一生懸命やりましたよ。ここが“生命線”だと思って。これ(楽曲)が否定されたら、もう、何にもないだろうって。
そうしたら最初に作った2曲を先方が気に入ってくれて。多くの楽曲を聴いているプロジェクトで、50曲の中にいい曲が1曲あればいいというような確率で探している人達が、たった2曲しか出さなかったその2曲を気に入ってくれたんだから、もの凄く嬉しかったですよ。良かった~って。
この世界で生きていく縁(よすが)があったって思いましたよ。
その後も曲を提供するようになって、ビギナーズラックっていうことかと思ったけど、(それをきっかけに)その後もいくつかのアーティストに曲を提供して、当時、その提供した曲が累計で100万枚売れたんですよ(楽曲が収録されたアルバム)。
正直、馬鹿みたいな話だなって思いましたよ。きっと自分は、自分で表に出て行くんじゃなくて、こうやって自分が作ったもので勝負するタイプだって凄く思いましたよ。そこで「チャンネル」が切り替わっちゃったんですよね。
■その後、曲を作るということが順調になって、むしろ発注が増えていくようになってったと思うのですが、メジャーを離れた97年から、02年から今も続く「定例ライブ」を7thFLOORを始めてますが、約5年間に何か変化はあったのですか?
そうやって、作家を始めて評価をされるようになって。。。
それで、曲の発注が来ると、そのアーティストの為の曲、その人に会う曲を作るということになっていくわけです。それで、その事(アーティストに合わせた曲作り)が出来てしまうわけです。だから自分は器用な人間なんだと。そういうセルフイメージを持ってしまうんですよね。
だから、その「方法論」を作っていくほど、どこか小手先でしか曲を作らなくなっていくわけです。
もともと曲って、何か訳のわからないところからマグマのように立ち上がってくる。それが有機的に形作られて形を現すようなもんなんですよね。そういう原子のスープみたいなプロセスを経ずに、自分の頭の脳細胞の中で「このコードが来たらこれだな」とか、そういうことをやっているって事に気が付いたんですよね。
もちろん「それ」でやれている人もいるけど、僕の場合は「絶対違うな」って思って。
なんだか森の奥からブワーって出てくるような自分汁みたいなものが「枯渇しているな」って気が付いたんですよね。その事に気が付いてから、まったく曲が採用されなくなった。
きっと(作家を始めた)前半は、マグマで作ってたんですよ。器用に作り分けているようなふりして。
それで、自分汁みたいなものが枯渇して、小手先で作るようになったら全然採用されなくなるんですよ。
こっち(マグマ)は涸れるは、こっち(小手先)は否定されるは、、、本当に何をやってるんだかわからなくなって。そんな時に身の回りでもいろいろあって、、、。
茅ヶ崎でサーフィンばっかやってるし、、、荒れた生活で金髪で坊主頭だし(笑)とにかく、自分でもよく解らなくなっちゃって。。。このままじゃ音楽続けらんないなって。
メジャーで3枚目に出した「GOGH」が売れなかった時よりも危機感を感じましたね。ピアノもギターも触りたくなかったし。。。
毎日、サーフボード持ってサーフィン行くわけですよ。たぶんサーフィンやりたいわけじゃないんですよ。逃げてるんですよ。他にやることがなくて。。。。。。やばいなあって。
そこで、本当に感謝してるんですけど、太田さん(今の事務所の社長)に「もう一回ライブよろうよ」って。「昔の曲でいいから。新曲やらなくていいからやろう」って、そうやって2002年に(定例ライブが)始まったんですよね。
(つづく)