樋口了一インタビュー vol.3.1
こんにちは。
宣伝マンKです。
いよいよ明日11/21に、樋口了一ニューアルバム「了~はじまりの風~」が発売となります。
是非、一人でも多くの方に届く事を願っています。
さて、前回のインタビューでは、樋口さんの病気のことについてうかがいました。
今回はデビュー前から、デビューまでのお話「その1」です。
■では、デビュー前に話をさかのぼります。プロフィールでは、1983年に立教大学に入るも1986年に中退。その後、バンドを組んで活動し、コンテストで賞を獲ったり、海外でライブをやったりするも90年解散。バンドからソロに移行し、1993年に東芝からメジャーデビューとなっていますが、バンド解散から、ソロでデビューするまでに3年の空白がありますが、、、。
100%バンドでなきゃ駄目だ、バンドでデビューするんだと思ってて、バンドにこだわりがあって。
ライブをやっても、どうやってお客さんを増やそうかと考えたり、ちゃんとしていかなきゃいけないっていう時に、バンドが解散して。。。
それで「俺は本当にバンドに向いてるのか?」ってなって。「もしかしたら、良い曲を作って、人に届ける事が出来れば、もしかしたら僕にとってそれ(音楽)を仕事にする事の近道になるんじゃないか?」って、ちょっと立ち返ったんですよね。
ちょうどその頃、バブルが崩壊する頃で、少し僕もその恩恵に浸ってて。会社にバンドで所属できたりもしてたんですけど、そこの会社も駄目になって追い出されることになって。。。
じゃあ、一(いち)から行こうと思ったんですよ。一から。一から誰もが文句言わない良い曲、みんなが良い曲だねって言ってくれる曲だけを作る事を考えて。まあみんながというわけにはいかにだろうけど。。。
でも、とにかく「いい曲だね」って言ってもらえる曲を作る事だけ考えようと思って、その事だけしか考えなくなったんですよ。
その為には時間を多く作らなきゃいけないってことで、森竹忠太郎君(大学の後輩で、樋口さんのサポートギタリスト)に紹介してもらった宅配便の内勤のバイトが、行きたい時に行けばいい仕事だったんで、それを見つけて。
それで、家で曲をずっと作っていたんですよ。するとね、何か不思議なもんでね、ふっと門が開くんですよ。
当時、それまで一緒にバンドやっていたドラムの奴が、前にいた会社に残った組で、スタジオ経営をしてまして。スタジオ経営だからレコード会社に「うちのスタジオ使ってください」って売り込みに行くわけですよ。それで各レコード会社の当時のディレクターたちに営業に行くわけです。
その中に、東芝の三宅さんという方がいらっしゃって。その三宅さんが彼に「男のソロのボーカリストで、面白い奴はいないか?」っていう話になって。で、彼が「一人いますよ!」って僕の事をプッシュしてくれたんですよね。
僕はその頃、「良い曲を作ろう作ろう」って曲を作って貯め始めていた頃だったんで「じゃあ4曲くらい出させてください」ってなって。一生懸命作っていた曲を自分で録って渡したんですよ。自信はなかったんですけど、、、。
どんなコンテスト出たって、バンド組んで頑張ってアピールしたって、全然開かなかった門が、そうやって人づてに渡ったデモテープが、その東芝の三宅さんに渡ったことで、その門が開いたんですよね。三宅さんがデモテープを聴いた時に「ヴィジョンが見えた」とまで言ってくれたんですよね。
それで2年後にデビューってことで。ただ、「詞が弱いから、半分プロの作詞家の先生が書いてやろうと思う」って具体的な話に突然なって。
最初は信じられなくってね。東芝に行って話してるうちに「あぁ本当なんだ」と。今までそういう良い話を匂わされては無くなるという繰り返しだったんで、半分負け癖が付いてて(笑)
話を重ねていくうちに、本気だっていうことがわかってきて。。。
それから、今後1年で50曲~100曲くらい曲を貯めて、選んで選んで選び抜いた曲をアルバムにしたいっていう考えだっておっしゃったんで、じゃあ頑張って作りましょうと。だからその3年間(解散からデビューまで)というのは、バイトしながら曲ばっか作ってた日々だったんですよね。
■仕事上、色々なアーティストのインタビューに立ち会うことが多いのですが、こんな話を2人のアーティストから聞いたことがあるんです。
最近では、アーティストが表現したい、歌いたい歌詞、曲がだいたいそのまま音源となって出ていっているようなことが多いんですけど、あるアーティスは、そうやって自分で作った曲がそのまま発売できると思って東京に出てきたのに、東京に来たらすべて有名な作家の方に手直しされる。それが何度も何度もあると。
でも結局直されたもので結果がでる。すなわち売れると。
もう一人のアーティストは、今も個性爆発で、自分の世界を凄く持っているアーティストの方なんですけど、やっぱり同じように東京に来て、有名な先生に曲を歌詞を直される。当時は本当にムカツクくらいその事が受け入れられなかった。
けど、何度も何度もそれを続けていくうちに、やっぱりそっちの方がいいなあってことになってくる。その2人のアーティストは同じように、今振り返るとその時期が間違いなく今の自分を支えていると言ってたんですよね。
それはね、よく解ります。何というか反発と受け入れるという気持ちが混在してるんですよ。
自分の言葉ではないという強烈なアレルギーと、「さすがはプロだな。こんなの思いつかないよ」っていうその両方を突きつけられる感じがして。。。
そんな中で、周りはもうデビューに向けて動き始めているわけじゃないですか。全国の営業所や、宣伝や何やら、とにかくプロジェクトが進んでいるわけです。それに押し流されて「いやこれは違う」という間もなく全部が進んでいきましたね。
それで2枚(シングル)作って、その曲を歌ってきて、そのさっきのアーティストじゃないけど、そこで初めて自分の言葉がどういうものだったのか見える。
だからそういうこと(曲の駄目出し)をさせてもらえたと言うのは確かに大きいですね。
■その当時(20年位前)はそういったこと(プロの作家による楽曲の手直し)が盛んに行なわれていたと思うんですけど。
いやあね、、、本当にそういう経験をさせてもらったことが、本当にありがたいと思ってますよ。自分が好きなように書こうと思えば書けるんですよ。
やっぱポップミュージックでしょ。音楽が好きな人に届けるわけでしょ。その人達が引っ掛かるような音を作らなきゃいけないわけでしょ。当時そのジャンルでは成功させ続けていた人達の方法論を見せてもらえたっていうのは、(見てないのとは)絶対に違うと思うんですよね。
(つづく)