オリジナルの出版からは10年ほどになる

デヴィッド・グレーバーの「負債論」を読んでいる。

 

 

サブタイトルが「貨幣と暴力の5000年」という大仰な感じで、

目次のあと、

本文があとがきまで入れて589ページ、
そのあとの「訳者あとがきにかえて」と、原注とが770ページまであって、

さらに参考文献だけで66ページ分のノンブル(ページ数)がふってある。
本体6000円+税、厚さ55ミリの堂々たる「塊」みたいな本だ。

 

砺波市図書館で申し込んで、県立図書館から借りてもらった。

2週間の貸出期間を少しのばしてもらって、半分ほど読み進めたところだが、

やはりこのまま最後まで読み通すことは難しそうなので、

読んだ範囲で、そのエッセンスをメモに残しておこうと思う。

 

経済、あるいは経済史というジャンルの本だと思って読みだしたのでびっくりしたが、

筆者はいわゆる「文化人類学」といわれる分野の学者で、

ウォールストリートの占拠などに参加した社会活動家でもあるという。

 

人文系の論文にありがちな、衒学的でサービス精神旺盛な文体は

訳者も相当な苦労をしただろう、はっきりいって読みにくいものだ。

 

だが、この本の主張するところは、ラジカルにして明快で、

「貨幣は『負債』から始まっている」

という、ワンフレーズにまとめられるもの、といっていいだろう。

 

それは、

歴史的に『貨幣』というものが発明?あるいは流通?し始めたシーンの、解説であるとともに、

いま私たちの手元にある現金や、通帳に残っていると信じている残高の、定義でもある。

 

あらゆる契約書は、将来について約束したもので、

モノや役務を提供するという「負債」と、決められた金額の貨幣を提供するという「負債」とが定められ、将来交換が行われるものと想定して結ばれる。

 

通帳残高というのは、将来、誰かがそれに見合う「価値」と交換してくれる、という約束の記録、いわば期限のない「手形」に過ぎない。

 

そして、紙幣も、もっといえば金属貨幣も、

それ自体の価値というより、国家や都市コミュニティの負債、いずれ価値あるものに変えることができるだろうという、額面限りの「信用」を表すものに過ぎない

 

人はもともと、「物々交換」など、してはいなかった。
 

あったのは互いの余剰と余力を提供しあう、コミュニティ内の贈与経済

貨幣の概念は、結婚や侵略、祭祀などの「非日常的な取引」に、
暴力や支配の影が見え隠れする大きな「負債」と、その返済のために生まれたという。

「支払いきれぬ負債」が、奴隷や身売りを要求する。

それとも、奴隷や体を売る女を得るために、貨幣という仕組みができたのか?

 

 ◇  ◇  ◇

 

以下は、私の感想である。

 

生活を称して「食べていくこと」というが、

食材だけなら、自家栽培でも、ご近所にもらうことだってできる。

だが、調理をするためには水や熱源、それなりの道具も欠かせない。

どれもタダじゃない。

 

持ち家には住宅ローンや税金、借りた家には家賃

水道光熱費に新聞代通信費

定額でも従量でも、サービスを受けるためには、ずっと支払い続けるという契約をする必要があって、

いわば生活は「債務」を返済する営みである。

 

なけなしの給料は、毎月、それらの債務の支払いに消えていく。

通帳残高だけは債権だが、将来の債務を考えると、その金額はあまりにも心細い。

そして、カネが我々の生活と心を支配してしまう。

 

地震なら、天災だ。
異常気象や感染症も、人の力ではいかんともしがたい点はあるが、

考えてもみよ、カネのことはすべて人災なのである。

 

なにがどうなろうと、命までとられることはない。
借金で首が回らないのは、貸している奴の責任でもあるじゃないか

そういう社会にしているのは誰の策略だ?

債務がなんだ。ないものはない。開き直っていく手もあるぜ。