新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって、
「アフターコロナ(AC)」という、新しい時代に入ったと思っている。

 

それは、

「ケ」の世界、日常生活のあれこれが、社会の中でその比重を増やしているということであり、

「ハレ」のあれこれ、イベントごとなどに、そのぶん大きな、マイナスの影響が出ている。

 

まず、音楽や演劇など、ステージから「観客」がいなくなった。

大勢が集まること、

特に、大声や飲食で、「呼吸を合わせる」ことが避けられている。

 

飲食業界、観光業界、広告の出資元にカネが回らない。

 

スポーツの場もやり玉にあがり、

大会がなくなり、再開されても、スタジアムやアリーナから「観客」が消えた。

選手や監督コーチの生声が、妙に大きく中継画面から響いてくる。

 

テレビ番組からも、

笑い声や拍手が消えた。

出演者は空に向かって語りかけ、芸を見せて、

実にやりにくそうであった。

 

この年末年始のテレビ、

レコード大賞や紅白歌合戦、

箱根駅伝もサッカーの高校選手権も、無観客である。

バラエティ番組にも、余計な笑い声や拍手がめっきり少なくなったように思う。




 

それまで、あまり意識していなかった、

テレビのあちら側の観客と、画面越しに見ているこちら側の観客との違いを、

強く意識するようになったのは、私だけではあるまい。

 

始まりと終わりに拍手がないと、区切りがついた気がしない。

なるほどと感心する場面も、テレビから「ほお」という吐息が聞こえないと、自分だけが感心しているのではないかと不安になる。

面白くもない芸も、テレビに笑い声が満ちることで、面白いように思えていたのだ。

 

テレビの中の客席は、
元々が、劇場やスタジアムを模したものだったはずだ。

 

一人でテレビを見る我々が、客席の一人であるかのように「錯覚」させる装置といえるだろう。

 

それが機能しなくなったとき、テレビの画像は、かくも寒々しいものであったかと愕然とする。

 

当たり前のことだが、

祭りは祭りでしかない。

ハレの日を永遠に生きるわけにはいかない。

 

コロナ禍で、我々は、正気に返ってしまったのではないか、

テレビという「ハレの箱」を失ってしまったのではないか、

そこまで考えている。