正月恒例の箱根駅伝をテレビで見ていたが、

往路優勝、創価大学だという。



(写真は復路、6区の選手)

上智や同志社、立教などは、キリスト教系の大学だというし、

国学院は神道系、

同じ浄土真宗でも大谷派は大谷大学、本願寺派は龍谷大学とか、
大学が宗教の影響のもとにあるのは

珍しいことでもなく、非難すべきことでもない。
 

ただそれは、

宗教が、教育への「影響」の範囲内にとどまっているからで、

宗教が教育を支配するようでは、大学として「本末転倒」だと思っている。

 

そして、申し訳ないが、
創価学会の大学というのは、そんなふうな教育をしているのではないかと、

どことなく気持ち悪く感じている。

 

その理由は、公明党という政党の存在である。

 

宗教というのは、そもそも排他的なものであり、

他の宗教を否定し、かつ自身の正当性を信じなければ成り立たないものである。

それは、異なる考え方や文化を学び、
自らの考え方を、より正しい方へと修正する「学問」や、

より多くの人の支持を得るために、

主張や政策の合意点を探っていく「政治」とは、

そもそも、矛盾するものなのではなかろうか、と思うのである。

 

もちろん、矛盾を乗り越えて人は考えを深めるし、

宗教の自由は大いに尊ぶべき人権の基本である。

 

彼らは、そういう「ぶれ」に乗じて、
自分たちの主張、信じるところを広めるために
政治や学問という「場」を利用しているのではなかろうか、と疑ってしまうのである。

 

人は、正邪ではなく、損得で動く。

得だと思う方を選ぶ。

あらゆる「場」を利用して、さまざまな才能を集めることに成功すれば、

宗教はやがて、世俗をコントロールする力を持つ。
 

他の宗教と同時に、世俗というものを否定しようとするのが、宗教というものなのだと心得ている。


旧ソ連や今の中国をコントロールしたのは、

社会主義や共産主義という、経済学や政治信条のふりをした「宗教」なのではなかろうか、と思っている。