政治家などの公人が、

法律やマナーに反しているとか、

公共の利益をコソコソと、自分や身内に付け替えているらしいという話を

「疑惑」という。

 

かつては、
疑惑をもたれたことに対して、責任をとって役職を辞する、

あるいは「事実上の更迭」ということが頻繁だったが、

総理大臣を筆頭として、

昨今、責任を取るものなど皆無である。
逮捕されても、自分が悪いとは言わない。

 

代わりに、本人の「説明責任」やら、総理大臣の「任命責任」やら、
マスコミはいう。

沈痛な顔で「責任を痛感しています」といえば済むやつだ。

知らん顔をしていても、時間がたてばみな忘れてしまうやつだ。

そんなものが「責任」なのだろうか。

昭和の時代、木材の世界では、高価な国産の銘木に似た木を

「銀ダモ」「台湾ヒノキ」「シベリア松」などと、頭に○○をつけて「類似品」として使った。

魚の名前で、「銀ムツ」や「カラフトシシャモ」が、「ムツ」や「シシャモ」とは別種なのと同様、

頭に○○をつけたものは代用品なのである。

極端にいえば偽物(ニセモノ)である。

 

「疑惑」に対しては、本来、証拠を出して「真実」を主張すべきだ。

どこかのアニメじゃないが「真実は一つ」なのである。

 

残念ながら、真実を提示することができないことがあるのは、理解できる。

真実を提示できないとき、代用品として「責任を取る」ことも、理解できる。

 

本来、責任を取る、というのはもっと重い言葉だったはず。

部下の失敗なら、役職を辞するぐらいですむが、

自営業の破産で、金を払うという責任を果たせなかったもの、

一族郎党、末代まで信用を失う。

政治家の責任など、その軽さに驚くばかりだ。

 

「説明」責任やら「任命」責任やら、

軽くなったその「責任」の、さらに「代用品・偽物」でしかなく、

まさに「無責任」の別名ではないか。

 





「捜査に支障があるから説明できない」という言い草に至っては、
「真実を求められては、私の言い訳に支障が生じる」といわんばかり。
その無責任をさえ、果たさないというわけだ。

 

原発を爆発させて、あれだけの被害を出した東京電力が、

他の電力会社を脅して次々再稼働、

どいつもこいつも、無責任の極みだと思う。

そして、学校でもろくに勉強せず、

親の七光で当選し、

ポーズばかりの帝王学で世間を渡ってきた者でなければ、

この無責任の時代に、かりそめにも「責任」のある役職になど、立てないのかもしれない。

 

真に「責任」を果たし、「真実」を見極めようとするものなど、

 

そこらで、のたれ死んでいくしかないかもしれない。