第1,457回(2017.03.21) 明治生まれの父・光造との思い出 | 昭和12年生まれの英子ひいおばあちゃんと柴犬・幸平のふたり暮らしブログ

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今日は私の父・光造(みつぞう)の命日。

 

亡くなったのは1998年(平成10年)だから

 

もう19年が経過したことになるね。

 

農家の三男坊。

 

体力自慢で世話焼き名人。

 

お酒大好き。

 

田舎の小さな部落では

 

「光造はどこだ!?」

 

お祭りでもお葬式でも

 

光造抜きには事が前に進まなかった。

 

第二次世界大戦では

 

陸軍歩兵部隊の少尉として出征。

 

中央の軍服姿が父・光造。横のおかっぱ頭が私。

 

北支の最前線で終戦を迎え

 

ずいぶん辛い思いをしたみたい。

 

もともと80kgあった体重もほぼ半減、

 

やせ衰えて髭モジャ、

 

全く別の廃人のようになって

 

終戦の日からかなり経って、

 

それでも無事に帰って来た。

 

戦争中のことはもちろん終戦後

 

捕虜として収監されていた場所で

 

どのように暮らしていたのか等

 

自分から語ろうとしないし、

 

訊ねてもほとんど

 

返事が返って来なかったから、

 

詳しいことはわからない。

 

戦友会と称して年に一度は

 

当時のお仲間と語り合うのを

 

楽しみにして出かけていたけれど、

 

皆さんとどんな話をしていたのか

 

知る由もない。

 

あれはいつのことだったろう!?

 

「ちょっと来てくれんか?」

 

父・光造から電話がかかって来た。

 

一通の手紙を差し出し

 

「読んでみてくれ!」

 

前線で中隊長として指揮する立場だった

 

父の当時の部下の方からの手紙だった。

 

「辛く苦しい体験ではあるけれど、

記憶の定かなうちに当事の体験を

これからの世代の人たちに

語り継ぐべきではないのか。

当事の記録を残したいので、

隊長どのにもぜひ書いて欲しい。」

 

そんな依頼だった。

 

数日前に受け取ったらしいその手紙。

 

繰り返し読んで繰り返し考えて

 

繰り返し悩んで心が揺れに揺れた様子。


ただ本人の出した結論は・・・


「辛い思い出じゃからこそ、

是非語り継ぐべきじゃとは思うけれど・・・

忘れてしまいてぇと思う。

思い出しとぅねぇと思う。

悪いが今回は断ろうと思うが

自分の気持ちを素直に書いて

返事を出せる自信が、ねぇ。

なので、お前に

“父は今こういう気持ちでおりますので”

・・・と手紙を代筆して出して欲しい。」

 

引き受けはしたものの、

 

とても気の重い仕事だった。

 

何とか文にして父に見せ

 

添削を繰り返すこと三度。

 

相談を受けた日から3日後に

 

郵便局へ出しに行った。

 

通常の切手では足りない代金の

 

切手を貼った記憶がある。

 

それからしばらくして突然

 

父が吐血した。

 

急性の胃潰瘍だった。

 

3ヶ月だったかな?

 

入院生活を送り無事退院。

 

その後定期的に診察を受けるため

 

自転車で通院していたのだけれど・・・

 

その途中で交通事故に遭った。

 

意識のないまま救急車で

 

労災病院へ運ばれた。

 

自転車に住所氏名が書かれていたので

 

すぐ連絡がいったらしいけれど

 

家族はあいにく留守。

 

お世話をしてくださった方の中に

 

私をご存知の方がおられて

 

「たぶんお父様だと思いますが・・・」

 

・・・と我が家へ連絡が来た。

 

大慌てで救急治療室に駆け付けると

 

幸いなことに意識が戻っていて

 

「よう!」

 

・・・と片手を挙げながら

 

「頭が痛ぇんじゃ。

どうなるんかなぁ、私は?」

 

・・・などと言うので、

 

あきれながらもホッとした記憶がある。

 

頭部に裂傷があり何針も縫った。

 

手足や身体のあちこちに

 

打ち身創があったものの

 

脳波や骨にはさしたる異常がなく

 

不幸中の幸いだった。

 

でもとりあえず安静が必要と言うことで

 

そのまま入院となった。

 

すっかり弱気になった父だったけれど

 

田舎から兄や姪たちが

 

見舞いに来てくれたりすると

 

直ちにシャンとなって

 

「寿司をとってくれ!」

 

・・・と命じたり

 

「心配は要らんから!

敵軍の弾をすり抜けた私じゃ!

この通り心配は要らん!」

 

・・・と姿勢を正して歩いてみせたりした。

 

退院真近となり

 

念のためにと健康診断を受けた。

 

・・・すると・・・

 

胃に初期癌が見つかった。

 

父には報せなかったけれど

 

母や妹は涙涙・・・。

 

当事の外科部長先生から

 

私のところへ電話がかかって来た。

 

先生は長女が中学生の頃のPTA会長。

 

私も役員の端くれで旧知の間柄、

 

おじょうさんと長女は

 

親しくさせていただく友だちだった。

 

「田村さんは80歳にしては

気力体力ともお元気で

まだまだ活躍できると思う。

今ならまだ大丈夫、

取ってしまえば元気で生活できます。

手術をお勧めします!」

 

「よろしくお願いします。

母は私が納得させます。」

 

その日のうちに母と共に病院へ出向き

 

書類に判を押した。

 

先生のお言葉通りそれから12年、

 

父は生きた。

 

ひ孫・ミノルも抱っこしてもらったよね♪

 

当事の田舎では珍しく

 

結婚当初から父と母は共働き。

 

終戦後復職してからも

 

父は単身赴任が続き

 

金曜日の夜遅く帰宅し

 

月曜日の早朝出て行く暮らしが長かった。

 

そのぶん私と父との関係は

 

ギュッと凝縮されていたというか

 

普通の父と娘の関係よりも

 

濃かったのではないかなあ!?

 

歳を寄せるに連れてそう感じている。

 

父との思い出は書こうと思えばキリがないけど・・・

 

 


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