八幡の武将 〜里見を揺さぶる〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

前回まではこちら⬇️



世は群雄割拠の戦国時代

わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。



玉縄城(たまなわじょう)に戻った綱成(つなしげ)は里見氏(さとみし)攻めの為に忍びの美郎(よしろう)を使い、里見の状況を調べ始めました。


綱成「里見は鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)を焼いた憎っくき敵。わしが必ず成敗致す。頼むぞ、美郎。」

コアラ里見は1526年に鎌倉を襲撃したんだよ。その時に鶴岡八幡宮が燃えちゃったんだよね。

美郎「綱成、行く前に伝えておきたいことがあります。」

綱成「暗殺者のことか?」

美郎「はい、美咲(みさき)を操っていたのは…関政助(せきまさすけ)ではないでしょうか?」

コアラ関政助は綱成さんの前の玉縄城の城主、為昌(ためまさ)さんの時から仕えていたんだよ。

綱成「美郎もそう思うか…されど政助の姿が見えぬのだ。」

美郎「どうやら知らぬ間に逃げたようです。正体がばれると思ったのでしょう。」

綱成「政助は忍び、知らぬ間に逃げることくらい容易いことなのだろう。」

美郎「我が風魔の忍びが探しております。しかし油断の無きように…。」



そう言い残し、美郎は里見の本拠地久留里城(くるりじょう)に向かいました。

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現在の久留里城(千葉県君津市久留里付近にあった城)



里見は1538年の国府台合戦(こうのだいかっせん)では負けはしましたが無傷だったのです。

戦後、上総国や下総国に積極的に勢力を拡げていたのです。


この頃の当主は里見義堯(さとみよしたか)でした。

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里見義堯です。里見の全盛期を築いたのは私です。



綱成は美郎に命じ、上総国や下総国の武家、国人衆の間に北条が攻めてくると噂を流したのです。


「北条が攻めてくるらしいぞ。」
「河越で八万の軍勢にわずかな兵で勝った北条が来るのか…。」
「里見は勝てるのか?」
「北条に付いたほうが得策ではないか?」



そんな噂が里見氏傘下の国人衆が北条方に寝返ったのです。


そんな中に里見氏の家臣・正木氏(まさきし)の一族の内房正木氏(うちぼうまさきし)が北条方に付いたのです。


内房正木氏の当主、正木弥五郎(まさきやごろう)は、

弥五郎「正木は里見の家臣ではない!北条と組んで里見を討ってくれるわ!」



綱成は里見に対立する勢力を味方に引き込み、里見を攻めていました。




そして1553年、北条の支援を受けた内房正木氏は同族の勝浦正木氏(かつうらまさきし)の正木時忠(まさきときただ)の守る金谷城(かなやじょう)を攻めました。


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金谷城跡(現在の千葉県富津市金谷)



綱成が里見攻めを始めた頃、信濃国では武田晴信(たけだはるのぶ)と長尾景虎(ながおかげとら)が戦う戦国時代の大戦、川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)が始まったのです。




この戦いに北条も巻き込まれていくのです…。










つづく…
コアラ次回をお楽しみに〜















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