世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
1532年から始まった鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の再建の現場に綱成(つなしげ)はよく顔を出していました。
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わしが鶴岡八幡宮に訪れた時、ばったり綱成と会ったのです。
氏康「綱成、鶴岡八幡宮によく来ているそうだな。」
綱成「ええ、私は八幡様を信仰しております。いつ戦場に出るかわかりませぬゆえ、こうして戦勝祈願をしております。」
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綱成は月に一度は身体を清め八幡神に戦勝を祈願していたのです。
氏康「わしも見習わねばならんの。」
1533年、それまで我が北条氏を囲んでいた北条包囲網がついに崩れました。
安房国の里見氏で内訌が起き、当主の里見義豊(さとみよしとよ)が叔父の実堯(さねたか)を殺害したのです。
氏綱(うじつな)は里見の状況を見て動きました。
氏綱「今が好期だ。実堯の子、義堯(よしたか)を援助して味方につけるのだ。小太郎(こたろう)動くのだ。」
小太郎「かしこまりました。」
北条の援助を受けた義堯は義豊を討ち里見氏の当主になりました。
これにより北条包囲網の一角が崩れたのです。
さらに包囲網の一つ、上総国の真里谷氏(まりやつし)でも内紛が起き真里谷氏を頼りにしていた小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき)の勢力が弱まる結果となったのです。
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一方で甲斐国の武田氏(たけだし)とも争いも続いており、1534年には山中の戦いで武田信虎(たけだのぶとら)の弟・信友(のぶとも)を討ち我が北条は大勝したのです。
ところが我が祖父・早雲(そううん)以来の同盟関係だった駿河国の今川氏(いまがわし)と争いが起きることになるのです…。
つづく…
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