こんばんは。ひだまりです。



自分を大事にとか、
相手を大事にとはいいますが、
それってどんな状態ですか?



自分を心から愛すること
相手を心から愛すること
とはいいますが、
はたして、それは
どんな状態ですか?



イメージし、
実践できていますか?




大事にされることに
距離や時間が大切な人もいるかもしれません。



私も長く返事が来なかったり、
会えなかったりすると、
本当に大事にされているんだろうか
と思ってしまいます。



というのも、
本当に大事なら、
自分の予定を全部とっぱらってでも、
会いに行ってしまえるほどの
「尽くし方」が私にとっては当たり前だからです。



この尽くす、ということについて、
ふと思い当たるのは
母のことです。




父に尽くしまくる母の存在。





もちろん、それは悪いことではありません。
しかし、母の愛は実に重い。




ふと、自分の中に寂しさや、
妬み、辛みがでてきたときに、
いつもひょっこりと顔を出すのが
母の幻影です。



私は〇〇してるのに、
どうして△△してくれないの。




そう思うなら
〇〇しないほうがいいんですよね。
わかりきった話なのですが。



もっと純粋な気持ちで
〇〇した方が良いのです。




これは相手に対してもそうだし、
自分に対しても同じです。




無償の愛を与えるならば、
ただただ省みを求めず、
相手が受け取っているか否かすらも
問わずに、ただただ与えることです。



しかしそれは、
ただ与えるだけでエネルギーを
発散させることにしかなりません。



お互いに同じ大きさの天秤の皿を
持っていなければお互いにバランスよく
満たされるということもないのです。



パートナーシップにおいて、
どちらかが我慢することが多いとき、
それはお互いの満たされぬ器の余り部分の
違いにもあるのかもしれません。



均衡を保っているように思える天秤も、
その皿の大きさが異なるのであれば
必ずしも対等とは言えないでしょう。



あくまでもそれは
平等であるだけで、
公平とはいえず、
バランスが取れているように
みえるだけのように思えます。





お互いに受け取る皿が大きく、
与える量が多いなら、
お皿から溢れ出したぶんの
愛を誰かに渡すことも出来るでしょう。




しかし、どちらかが与えすぎることで
またはどちらかが受け取りすぎることで
均衡が保たれるような関係ならば、
それはやはり、対等な関係とは言えないでしょう。




そんないちいち皿も量も見ていられない
と思う人もいるかもしれませんが、
愛はとても繊細なものです。




バランスを常に保つことは、
本当に難しいのです。




自分を大事にすることについて
イメージがつかない、
または自分が大事にされることを
イメージできない
という場合、



自己愛が足りていないと言えるでしょう。




自分がどんなふうにされたら
愛を感じるのか、
大事にされていると思えるのか、
今一度振り返ってみましょう。
そして、できることから自分に対して
同じように振舞ってみましょう。


いつもありがとうございます。
また更新します。