一つの作品ができるまで。

一つの作品ができるまで。

上智大学中退し、現在22歳。
現在、フリーで映像撮影・編集・その他Web事業を展開中。
自分自身を、そして自分の将来の会社自体を「すばらしい作品」にするための長い道のり。

『心・精神のより深い成長の追求』を掲げています。

*~~この世は「自分自身」が、「なりたい自分」に専心し、進化し続けていくプロセス~~*
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こちらのブログを読んでいて、残しておきたいので引用。
http://www.kokin.rr-livelife.net/book/book_yasuoka/book_yasuoka_4.html

難しいけど。いいのです。(^o^;)




あ、ちなみに (^o^;) ←この絵文字って、海外の人には理解されにくいらしいですね。

「笑ってるのに汗かいてるのってどういう状況?」ってなるみたい。(^o^;)




ではコピペ。



人が本当に観るべきものは何なのか。

集団ばかりで個人を忘却する時代に憂え、安岡正篤氏は説く。

文明が発達するが如くに見えて、人間が無内容になりつつある。

テレビ、新聞、雑誌、スポーツなどというものに全部頭を支配されて、自分の思考力だの判断力だの批判力だのというものが全然なくなっている。

もう何の某というものは一つもなくなってしまって、全く感覚的な刺激に反応する一機関となるだけである。

そうならない為にはやはり自分を観なければいけない。

自分という存在を知らなければならない。

安岡正篤氏は云う。


「自分」というのは大変好い言葉であります。

あるものが独自に存在すると同時に、また全体の部分として存在する。

その円満無礙な一致を表現して自と分を合わせて「自分」という。

我々は自分を知り、自分を尽せばよいのであります。

しかるにそれを知らずして、自分自分と言いながら、実は自己、私をほしいままにしておる。

そこにあらゆる矛盾や罪悪が生じるのであります。

自分を知り、自分を尽す。

己が心の忘却ほど哀しむべきことはない。


安岡正篤氏は云う。

現代人は知性によって物を知ることしか知らぬ者が多い。

そしてそういう知識の体系を重んじ、知識理論を誇る。

しかしそういう知識理論は誰でも習得し利用することができる。

その人間の人物や心境の如何に拘らず、どんな理論でも自由に立てることができる。

平たく言えば、つまらぬ人間でも大層なことが言える。

どこを押したらそんな音が出るかと思われるようなことも主張することができる。

そういうものは真の智ということはできない。

真の智は物自体から発する光でなければならない。

自我の深層から、潜在意識から発生する自覚でなければならない。

これを「悟る」という。

従って「悟らせる」「教える」の真義は、頭の中に記憶したり、紙の上に書きつけたものを伝達することではない。

活きた人格と人格との接触・触発をいう。

撃石火の如く、閃電光にひとしい。

これあるを得て、初めて真の霊活な人物ができるのである。

つまり全生命を打ち込んで学問する。

身体で学問すると、人間が学問・叡智そのものになってくる。

活きた人格と人格の接触。

これはまさに魂の共鳴である。

その人の生死を問わない。






「撃石火の如く、閃電光にひとしい。」が分からなかったので、調べてみました。(^o^;)


火打ち石がカチッと火を放つその刹那、稲光がピカッと光るその瞬間、
そのわずかな瞬間に直下にハッキリと道を発見させていくのである。
そういうはたらきが昔の祖師方にはあるのである。撃石火であり閃電光であるから、そこに頭で考えたり、分別したりする理屈はないはずである。
ところが後人はそこに向かって理屈を考えるのである。いたずらに言葉について回って、そこに理屈を考えるからどうにもならんというのである。



なるほど。

という感じです。


まだその真意は実感できませんヽ(;´Д`)ノ

でも大切なことのような気がします。(^∇^)