時折、ふと


正しさって、
なんだろう?


と、考え込んでしまうときがあります。





原則として、「正しい」ことは
やっぱり大切だと思うのです。


でも、


正しければ、それでいいわけでも
もちろん、ない。



じゃあ、「正しさ」は必要ないのか?





たとえば、わたしが道を
安心して歩けるのは
回りの自転車や車が
交通ルールを守ってくれると
信じているから。



まあ、最近は何かと
物騒ではありますが・・・



交通ルールを守る


というのも、正しさのひとつですよね。





あるいは、


昔文芸サークルに所属していたころ、
それはそれは色々な人の作品を
読んできました。


そんな作品の中には、あちこちに
文法的な間違いがあるんだけど、
妙に心を打つ作品があったりしました。



それは、作品の中に込められた
作者の熱い思いが、
文法的な正しさを超えて
読み手の心を打つからでしょう。




また、あるいは、



読みが拙いにも関わらず、
心に染みる朗読というのもあります。





そうなると、文法的な正しさとか、
アクセントなどの読みの正確さといった
いわゆる技術は必要ないのかとさえ
思ってしまいます。




技術が必要ないということは、
練習する必要もない
ということになります。



ただ、目の前にある原稿を
そのときの気分で読めばいい?



いやいや、内容が理解できていなくては
人に伝えることはできないし。




「正しさ」を朗読で言い換えれば
「上手さ」です。




上手に読みさえすれば、
人に伝わるわけでないことは、
重々承知しています。



でも、だったら、
上手になる必要はない?


技術を身に付ける必要はない?





内容を理解さえすれば
自然と伝わる読みができる?



そんなもんかなぁ?



もし、それができる人かいたら、
その人って、天才じゃない?



と、凡人のわたしは、
つい思ってしまう。







わたしは、朗読の「上手さ」
つまり、読みの「正しさ」は、
建物でいえば土台や骨組みだと思うのです。



土台や骨組みがしっかりしていれば、
そこには、どんな建物も建てられる。



だから、一生懸命練習するし、
上手に読めるようになりたいと思う。




確かに、そこがゴールなわけじゃない。



だって、土台や骨組みが、
いくら頑丈にできていても、
それを見せられた方は
面白くもなんともないから。



人が楽しみたいのは、出来上がった
家のインテリアだったり庭の造作だから。







練習して上手になりたいと望むのは、
やがて、そこに自由に好きな建物を
建てられるようになりたいから。




上手に読めるようになって、
その上で

肩の力を抜いた、柔らかな読み

たとえて言えば、そんな読み方が
できるようになりたいなぁ。




残念ながら天才ではないわたしは、
結局コツコツ進むしかないなぁと
しみじみ思う今日この頃です。