ハイクラヴァー

ハイクラヴァー

うーん、とりあえずそんな感じで。

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大変ごぶさたです。谷です。

『新撰21』出ました。

せっかくなので、少し感想めいたことを書き始めようかと思います。
まずは越智くんから。
箒木に影といふものありにけり

という作品の本質は、

箒木に影

と言えば、言い果せる。


だとすれば、「といふものありにけり」という叙述は、この作品にとって何だろうか。
言い果せるということは、俳句にとってあまり重要ではないのかも知れない。
世界で一番かんたんな無季俳句の作り方は、次の数式で表される。

【有季俳句-季語+季語ではない言葉】


例を挙げる。

【箒木に影といふものありにけり-箒木+掃除機=掃除機に影といふものありにけり】

先ず大前提として、「俳句を書く」という行為は「俳句が読まれる」という帰結を予見していると考えられる。

いや、もちろん人の目なんて気にせずに自分のためだけにせっせと俳句を書くという人もいないことはないのかも知れないけれど、そういう人の俳句は誰の目にも触れることはないので、僕の考える「俳句」からは除外する。


話を戻す。俳句が「誰かに読まれるために書かれている」とすると、僕たちが俳句を書くとき、僕たちは「読まれるように書く」という意識を持たざるを得ない。さらに言えば「読まれる」ためには「読める」ものでなければいけない。

よって、俳句は「平易(平明)」であることが良しとされるのだけれど、その一方、何だか小難しい俳句を「良し」とする人もたくさんいるわけです。


おっと、どこかで論理が破綻している。


思うに「『読まれる』ためには『読める』ものでなければならない」というのが「偽」だったのかなと。

つまり、僕たちは「読めない」もの(もっと正確を期せば「読みきれないもの」)を読むということをある種の楽しみと感じているのではなかろうか。作者視点で言い換えれば、僕たちは「読めないものを書く」という一見矛盾に満ちた営みを楽しんでいるフシがあるんじゃないか。

(そもそも、俳句の本質的な「短さ」は、「読めないものを書く」というおかしな営みを結果的に増長させているとも言える。いや、その源と言えるかも知れない)


今回のババロア句会のテーマである「平易と難解」を通じて、「読める俳句」と「読めない俳句」、さらには「読める」「読めない」という現象の本質的な意味について考えてみたい。

実はババロアを食べたことはなくて、まあ単なる洒落で、馬場でやる句会なんで「ババロア句会」という名前にしました。

ババロア句会は、THCでこれまで企画してきた句会とはちょっと毛色が違います。これまでの句会(青の会、犬の会etc...)は基本的に「みんなのための句会」というスタンスで運営してきたし、誰でも参加しやすいような句会であることを心がけてきました。
しかし、今回の句会は誤解を恐れずに言えば「僕のための句会」です。僕が関心があること、僕自身がさらに向上するために必要だと思うことを中心に、かなりテーマ性の濃い句会になると思います。一方、それは同時に、俳句に多少なりとも関心がある人にとっては、平凡でない、刺激的な体験になると確信してもいます。

今回のテーマである「平易と難解」の意図についても書くつもりだったのですが、また稿を改めます。
第2回週刊俳句賞にあたって、「気分はもう戦争」という8句を書いた。

それが「俳句」誌の高柳さんの連載に取り上げていただいたことで、今頃になっていくつかのブログで作品について言及してもらうようになった。

基本的なことに関連して ~相対性俳句論(断片)

知ってる人にこういう風に書かれると「そ、そこまで言わなくても・・・(涙)」と素直にヘコむのが普段のなりゆきなのですが、今回にいたっては「そりゃそうだ」という感じがしてます。

いや、もちろん「この作品から俳句表現の可能性を読み取るのだとすれば、それについては積極的に反対」ってのは田島さん言い過ぎでしょと思ってはいるものの、田島さんの感覚は間違ってないんじゃないかと。あの8句を書くときの心持ちとしては、「俳句的」なものから離れよう離れようと意識して書いていたので、むしろ田島さんの反応の方が自然だと思う。

一方、そんなひねた心持ちで書いたものを「俳句」の俎上に引き上げてくれた高柳さんの度量もすごいなと思うわけで。度量というかセンスですね。いや、ホントにこういうタイミングで取り上げるのはセンスあるなあと。

ひるがえって、田島さん。そもそもあの温厚な田島さんに「僕は谷雄介さんの『気分はもう戦争』については、あまり評価できません」なんて言わしめるとは、どんだけ大悪党だよと。

うん、大満足です。

実際には2時間弱でちゃちゃっと書き上げた8句。でも、れおなさんもああいう作品を書くのにはそんなに時間かかってないような気がするんですよね。違ってたらすみません。
「あすかたれいむこう」と読みます。

この人については前のブログの記事 で一度取り上げたことがありました。

朔太郎に、「鉄筋コンクリート」という言葉を唱えているうちに「テッキンコンクリートは虫だったのだ!」と悟ったというファンキーな文章がありましたが、「あすかたれいむこう」というのも何だか人の名前以外のもののような響きです。

アスカタレイムコウ・・・

南米奥地の未踏の山ぽいですね。何となく。





「俳句」誌での高柳克弘さんの新連載「現代俳句の挑戦」の中で、僕が第2回週刊俳句賞に応募した「気分はもう戦争」の一部の作品を取り上げていただいた。

もううれしいのなんのって。苦節5年・・・いや本当は大して苦しんだことはないんですが、ようやくここまで来たかと。僕なりに感慨深いものがありました。

週刊俳句賞の時には、神野紗希さんが1点を投じてくれました。

誉められれば、誰に何を誉められたってうれしいわけですが、その中でも僕のちょい上世代の高柳さん・紗希さんあたりは普段からかなり意識しているわけで、そういう人たちから誉められると、ひときわうれしさがこみ上げます。


ついでに、高柳さんに取り上げていただいた作品について、聞いてがっかり・自句自解というやつをやろうかなと。

  開戦ぞ身近な猿の後頭部

という俳句は、最初にビートルズの「Everybody's Got Something To Hide Except Me And My Monkey」という曲が頭の中にありました。直訳すると「僕と僕の猿以外はみんな秘密を持っている」。ジョンの作品なので、この猿っていうのはオノ・ヨーコのことですね。

つまり、僕の中で「猿」というのは恋人の象徴だったわけなんですが、高柳さんに「1句目の猿とは、(マンガやゲームの中の――谷註)敵キャラクターのことだろう。毛むくじゃらの後頭部へ向けて狙い澄ました銃口がイメージされてきて、ヴァーチャルとわかっていながらぞっとする」と書かれてしまって、そうか、そういう読みもできるなと。

でも「身近な猿」なんで、どうにか恋人ととってもらえないかなと・・・無理ですか?>高柳さん

「ぞ」という切字は「人妻ぞいそぎんちやくに指入れて」(小澤實)の「ぞ」ですよね。

まあ、そんなこんなでそれぞれの作品にはそれなりに言い分があったりするわけです(その評価は別として)。でも、あまりしゃべると安っぽくなるんで、沈黙は金だぞと。
俳号って、特に男の人だったら、普通立派で見栄えのいい俳号をつけたがるわけで。

仮に僕が俳号をつけるとしても、きっとそうすると思います。
だって、「谷ふにゃ男」なんて名前だったら、真剣に俳句を作る気分になれない!
せっかくの非日常な空間なんで、多少は自分に酔いたいナというのが人情かと。

そういうところからすると、「かな文」という俳号は、随分立派でなくて、見栄えもあまりしない名前だなと(かな文さん、すみません)。何かしら由来はあるのだと思いますが、それにしてもへんてこな名前です。

しかし、かな文さん、作品もエッセイも素晴らしい。
ちょっと前に俳句研究で連載してた「俳句と出会わなかった」(正確なタイトル、失念しました)という短いエッセイも、少なくとも僕が読んできた現代の俳句の文章の中では抜群によかったです。端正で、簡明。読みやすく、かつ味わい深い。

いや、これは逆にかっこいいなと。「かな文」でこれをやると、むしろ非常にかっこいい。

そもそも、方向性として、どっちかですよね。

かっこいい俳号でへんてこなものを作るか。
へんてこな俳号でかっこいいものを作るか。

かっこいい俳号でかっこいいことをやろうとするから、大体の男の俳人は「ださい」ことになっているのだと思われます。
この俳号が以前から気になっていました。
勉強不足で、彼の作品については明るくないのですが、とりあえずこの俳号の響きは素晴らしいなと。

おおはしおうはし。

うん、いい。

歌人で「斉藤斎藤」さんという方がいらっしゃいますが、「おおはしおうはし」の方がちょっとかっこいいんじゃないかなと思ってたりします。

さて、こういう俳号を見てると、自分に俳号がないことがちょっと不憫です。

僕の場合、俳号は「谷言うすけ」→「谷ユースケ」→「ヤ・ユースケ」という変遷を経て、現在の本名に至っております。極めて、黒歴史です。