今の状態(体調)から派生する問題でわりと面倒だと思うのは、自分は「病人」でいなくてはならないのではないかという、自分なりの暗黙のルールみたいなもの。例えば、今うつ病っぽいなと思っていたら、「うつ病」の振る舞いをしなくては、相手は自分の抱える苦労を分かってくれないのではないかと思ってしまう。
このように思うのも、もともと「元気な」自分という像がまわりには存在しているためであり、実際、僕の姿を見て「元気そうだね~」とかのんきに言ったりする。のんきになんていうと、少し皮肉めいた書き方になるけど、正直仕方ないよなと。辛いと自分で思っていても、大学で知り合いに会うと何となく笑顔を張り付けた顔で対応してしまう。この対応は後で自分に負の感情を生む要因になるが…。そういう僕の姿を見れば、もちろん先のように「元気そうだね~」という言葉をいうことは何ら「誤って」いない。むしろ、そこで「どうした?大丈夫?」と心配される方が逆に気を使ってしまうかもしれない。
でも、本心としては、僕の行動や言動の中に何か「おかしな」部分を見つけてもらい、心配してもらいたい。自分から言えないことがミソで、「気づいてもらう」というプロセスが重要な気がする。「気づいてもらう」ことで、そんなに状態が悪いんだということが、相手にも分かるし、もちろん自分も再認識できる。
何か、自分から「今こういう苦労があって…」みたいな話をするのは苦手だ。なんで苦手なのかというと、自分の状態もよくわかっていないのに、それを相手に伝えても、もしかしてそこまで深刻な問題じゃないのではとか、そんなに自分の状態がわかっていれば大丈夫だろうとか、そういう思いが生まれてきてしまう。だから、他者から「客観的に」自分の状態を評価してもらうことで、安心するんだと思う。
ただ、先に書いたように、相手に分かってもらうにはある程度の「振る舞い」みたいなものが必要な気がする。例えば、うつ病っぽければ、暗めの印象、ぼーっとしているなどで相手に訴えかけるかも知れない。なぜなら、それが相手にとって最も見えやすく、うつ病という病気の症状のテンプレートに載っている状態だからだ。本当は、朝起きれないことや身体がだるいことに苦しんでいたとしても…。

こういうことは、ひきこもっていた3年ほど前は考えもしなかっただろうと思う。確かに、症状がつらかったことはあるだろうけど、その当時自分の状況を全く「客観的に」把握する術を持っていなかったからだ。とにかく辛い、吐き気がひどい、外に出れないというような感覚を常に持ち続けていた。
それに比較して、今回の状態は、以前の辛さを身にしみてわかっているが、底なし沼に前身はまっているような状態ではない。ほんの少しではあるが、その沼から顔を出しているようなイメージだろうか。
だから、何となくわかるんだけど、どうしていいか分からない。でも、この辛さは間違いなく「危ない」辛さだから、誰かに肯定してもらいたい。自分の言葉で言ってしまうと、何となくリアリティがない。ウソっぽく聞こえるんじゃないかとか考える。
よって、他者からの言葉を求めて、自分は「病人」の役割を遂行しようとしているのかもしれない。
うーん、なんか書いてて、自分ってなんて浅はかなんだと。とりあえず自分のことをきちんと言葉にできれば、こんなややっこしいことを考えて、悩みを増やさなくてもいいのにって思ってしまった。
まあ、そういう感情も含めて文字にしてみたということで…
今日も調子が良くなかったので、(ほんの少し回復した)夜遅くになってこんなことをぐるぐる考えてしまうのです…
自分でもうまく整理ができないものを文章にして、勢いで投稿しておきます。
もしかしたら、数日中に恥ずかしくなって消すかも…


でも、そんな日常なんです。
文脈とかを無視して、感じていることのほんの一部分を取り出しただけなので、何言ってるか分からないと思いますが、お許しください。


そして、(3/3)の最後に書いた、つながりの可能性。
もし、可能なら、このブログからもつながっていきませんか。

まあ、変な大学生が、夜、情緒不安定な中、書き散らした文章ですが、そんな小さな渦に乗っていきたいと思う人はいませんか。


どんな形のつながりが生まれるかもわかりませんし、それがどのような意味を持つのかも全くわかりません(いい意味でも、悪い意味でも)。

これはおまけということで。

Facebookから、知り合いの名前がオンラインでなくなっている。まあ、そうだよね。
自分から連絡取ってみればいいのに、そんなことが難しい。なんていえばいいの。
寂しいです、つらいです、どうしたらいいのかわかりません、なんて言えないよ。

べてるの家の実践って、本当にうらやましい。彼らのことを見ていると、僕もそこでいろんなことをしゃべりたくなる。研究とかではなく、単に一人の人間として。僕にもそういう場が欲しい。少しだけでも、僕の辛さがわかってくれて、うまくしゃべれない自分の話を聞いてくれて、そして、ああ、その話わかる、僕もね…みたいに。

何でみんなそんなに強いんだろう。自分が弱すぎて情けなくなってしまう。
べてるの実践で、弱さを力になんて言うけれども、いまここで僕がそうなるわけにはいかなさそうだ。でも、僕なりの弱さの情報公開はしていけることが望ましいんだろうな。

生きる意味、研究する意味、、、何もわかんないよ。今、この瞬間、自分が生きていることがすなわち生きている意味になっていて、裏を返せば、死んでいないから、生きている意味があると思います。意味とは言っても消極的な意味だと思うけど。

でも、今日は生きているのが嫌になった。死んでしまいたいと冷静に思った。
別にいいじゃないか。人一人がいなくなるくらい。「あなたがいなくなったらね、それを悲しむ人がいるんだよ…」みたいな台詞、知ったこっちゃない。じゃあ、あなたは私の持つ苦しみをすべて背負って立ってくれるんですか。生きてくれるんですか。体がぼろぼろになるまでやって、でもうまくいかなくて、もっとぼろぼろになって、ぼろきれになっている。感覚はおかしいし、体もおかしい。何も考えられないのに、考えないといけなくて、でももちろん何も生まれはしない。じゃあ、僕は何をやればいいの?何ができるの?僕って何なの?

結局一人じゃん。孤独だよ。孤独。
というか、そうでもしないと生きていけないんだ。限界まで追い詰められた自分が見出した、最後の鎧。やっと、自分を立った状態で置いておけるようになったんだよ。もう寝てなくてもいい。

ふう、疲れた。
まあ、明日は来る。
また同じ日常に帰らなくては。

そうじゃない方法を探したのかって。もうちょっと頑張ればいい?
降りられない橋の上をふらふらふらふら渡る。

悪あがきだ。こういう自分がいるなら、そして今の自分の状況がつらいなら、その状況を打破すればいい。事実、べてるはそれをしようとしているし、出来ないことはないんじゃないか。
きっとこういう想いを持っている人は周りに多くいるはず。いないと寂しいかも笑

そういうふうなことができれば、もしかしたら、自分も含めてよりよく生きていけるかもしれない。

まあ、どうせ明日も体はだるくて、眠いし、集中力は散漫だろう。
でも、少しずつでいいじゃないか。自分にはそれしかできないのだから。
自分だけの問題じゃないかもしれない。こういう自分の問題に取り組めれば、もっと多くの人とのつながりを得られるかもしれない。
孤立している状況ではなく、様々な層の関係性の中に、一個人として存在していること。
そんな日常を取り戻すことができればいいのかな。